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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

渡良瀬遊水地・・野焼き②

2008-03-17 | 道をゆく 関東
野焼き・・・太古のむかしから行われていたものと思います。
葦原、吉原、吉田、芦田、芦原、菅原、菅平、菅、蘇我、曽我、これらの地名はむかしの地理状態を表しています。こんなところを手っ取り早く新開するには燃やすのが一番です。話がそれました。

赤麻寺方面の堤防の上からです。

とにかくスゴイ迫力だ・・・・・炎のシンフォニーや~

スゴイ

場所を変えて運動公園のほうに行きます

渡良瀬遊水地・・野焼き①

2008-03-16 | 道をゆく 関東
3月16日「渡良瀬遊水地の野焼き」です。
「渡良瀬遊水地」「野焼き」・・・ナンでしょう? 話せば長くなります・・・

渡良瀬カントリークラブ、クラブハウス前の堤防上です。
朝からカメラマンの砲列です。数千人?
とにかく広いんです。3300町歩、周囲30km、東京のJR山手線の内側くらいだそうです。渡良瀬川、思川、巴波川、3つの川を受け入れた広大な遊水地です。堤防に囲まれた中は葦の原と谷中湖という遊水池、それにゴルフ場、運動公園があります。
180度のパノラマです。

AM8:30 ・・・野焼き開始。左下に小さく点火してるおじさんが見えます。

炎が天高く舞い上がります。

焼き尽くされた葦の原です。その向こうはゴルフ場です。今日は特別料金だそうです。
はるか向こうに煙が上がっています。赤い炎も見えます。

渡良瀬遊水地・・・・・Wikipedia
国交省利根川上流河川事務所・・渡良瀬遊水地

足尾銅山・・渡良瀬川・・田中正造・・・この3つはセットのようになっていますが、その話は追々と。次回は迫力ある風景

草津温泉・・湯畑・・温泉まんじゅう

2007-11-11 | 道をゆく 関東
草津白根山・芳ヶ平湿原の散策を終了。2:00白根レストハウス出発、5:00帰宅予定。
草津温泉で温泉まんじゅうを買って帰ろう。

白根レストハウス(2000m)から草津温泉(1200m)、前を大型観光バスが慎重に走っているので、こちらも慎重に下って行きました。「西の河原」という観光スポットのあたりの道路際でカモシカを発見、残念ながらカメラを取り出す閑もなくカモシカが消える。

道路沿いの饅頭やさんで「おんせんまんじゅう」ゲット。

草津といえば「湯畑」と「湯もみ」です。木の樋に沿ってものすごい量の湯が流れています。樋に硫黄を付着させて取るのが目的のようです。テレビなどで何回も紹介されているし、ドラマの背景にもなっています。「湯もみ」はこの写真の背中にある「熱の湯」です。
「草津ヨイトコ いちどはお出で 」の音頭にあわせながら絣の着物に赤い腰巻きのオネエサンがたが大きな板で湯をかき回すのだそうです。


「湯畑」の端っこです。湯が滝のように流れています・

草津温泉は饅頭だけで、家路にまっしぐら。帰りは長野原町、中之条町、渋川IC 周り。このほうが距離が長い。5:30我が家に到着。長い一日だったが本日はこれにて終了。

軽井沢から・・・嬬恋高原へ

2007-11-06 | 道をゆく 関東
突然、思いついて草津白根の「芳ヶ平」に行こうと思いました。むかしカレンダーで紅葉の風景の写真があったからです。
行き方は3通りくらいあります。PCで距離や時間の情報を見て軽井沢経由で行くことにしました。予定は3時間、7時出発(実際は8時出発)。予定通り軽井沢について旧軽から嬬恋方面に行こうとしましたが、これが誤算。ヨケイな有料道路を通るハメになりました。マッイイカッ!

軽井沢三笠通りの唐松です。この唐松は甲州の百姓から身を起こした雨宮敬次郎(日本製粉の創立者)という人が明治16年に開発事業を起こしたとき唐松、樅を植えたのが遺産として残ったのだそうです。このデベロッパープメントは成功したのでしょうか。
北原白秋の世界とは少し違いますが軽井沢らしい落ち着いた景観です。


マユミ・・・ここでは鮮やかな朱赤に見えました。
軽井沢から「鬼押出し」に抜ける山道で。秋の里山では目立つ木です。

四阿山?、上信国境の菅平高原の山。三角に見えるのが四阿山でしょうか。信州側からは見慣れていますが逆サイドからは初めてです。烏帽子岳かも。嬬恋牧場(1400m)あたりからです。山座同定は磁石で方角も見ておかなければなりませんね。


万座温泉(海抜1450m)付近の山の様相です。
白樺がスッカリ葉を落として唐松の黄葉がわずかに見えます。日本画の世界です。

《コース》東松山IC~碓氷軽井沢IC~旧軽井沢~(白糸ハイランドウエイ)鬼押出し~(浅間白根火山ルート)万座
《地図》 旧軽井沢町三笠通り  鬼押しだし園あたり  万座温泉あたり

次回は草津白根山、芳ヶ平の風景です。

筑波山麓・・ガマの油売り

2007-10-11 | 道をゆく 関東
10月6日、3連休の初日、筑波山に行ってきました。
筑波山は茨城県の真ん中にボカンと独立して立つ山です。南麓の町が筑波町北条(現つくば市)。位置的な説明は関東の街はムズカシイ。霞ヶ浦で有名な土浦市の近くです。



さて関東平野の西のほうから東を目指してなんとか筑波山神社にやってきました。
大鳥居、鳥居、御神橋があって上を見上げると仁王門?があります。隋神門というらしい。
仁王様の代わりに倭建命、○○命が鎮座しています。何かヘン? 


本殿です。お宮様の神殿という建物の感じではない。そうかといってお寺ではない。
七五三参りだ。七五三は確か11月ではなかったかな?

筑波山といったら「ガマの油売り」です。美形の方が口上を述べております。

写真は地元の筑波山ガマ口上保存会、保存会とか研究会とか、正調、元祖といろいろあるようで盛会を極めているらしいです。

筑波山神社。この山全体が神様のヨリドコロなのです。双耳峰の両方に奥社があります。
境内を通ってケーブルカーの駅に行きます。

上州・・・南牧村の台風被害

2007-09-09 | 道をゆく 関東
南牧村、群馬県西部に位置する長野県境の山の村。
ふとしたことでこの村を訪れたことから強く印象に残ってる村です。山があって谷があって川があって、人々がむかしからこの村で暮らしてきた、そんな風景です。
今年五月の終わりごろ山を見てお蕎麦やさんにより作務衣を着たご主人にお蕎麦を出していただき、いろいろお伺いしました。
すっかり気に入っちゃって、それ以来、この村のことを6回ブログに出しています。

その南牧村がいまたいへんです。
今日の新聞によれば南牧村の4つの集落が台風の被害で孤立しているようです。この山の村がどのように孤立しているかわかりません。作務衣を着たお蕎麦屋さんのブログに写真入で情況が載ってます。なんとか早い復旧が待たれるところです。

この村の人はきっとこの村を復旧させるものと思います。

南牧村のここが素晴らしい きっと何時かは訪れてください

西上州の名峰「立岩」の麓、南牧村星尾です。いまここも孤立してるようです。


何時ごろからか?長い時をかけ営々と築いてきた村の「段々畑」。

南牧村のことを書いたブログです。
佐久・・龍岡城・・田口峠   西上州・・南牧村   西上州の山・・・立岩
南牧村の風景   南牧村をゆく・・・市川五郎兵衛   南牧村・・・段々畑・・・コンサート


上武国境・志賀坂峠

2007-08-28 | 道をゆく 関東
十石峠をあとにします。
書き残したことがありました。
佐久穂町から抜井川に沿って上がってくる峠の手前に「木地師の墓」という案内板があります。何となく通り過ぎましたが見ておけばよかった。墓石に「菊の御紋章」があるはず。
木地師とは9世紀半ばに文徳天皇の第一皇子の惟喬親王が後継者問題のゴタゴタで滋賀県永源寺(現東近江市)の小椋谷(蛭ヶ谷、君ヶ畑)に逃れ山の匠の祖となり全国に組織をはった集団です。墓石の「菊の御紋章」はそんなことからの由縁でしょう。信州の他の地でも見られるそうです。

信州側と違い急傾斜の道を行くと道が二つに分かれ、林道のほうをを行くと鹿に出遇いました。車を停めてシカトせずにニラメッコしながらカメラをバッグから出していると、サヨナラされました。カメラをシカと身の回りに置いておかなかったのが失敗だったなぁ~。

上野村の谷に下り神流川に沿って走り、神流町の叶山の麓から志賀坂峠のトンネル(800m)に出ます。
写真はトンネルを出た埼玉県側です。

写真の左側の道が八丁峠の八丁トンネル(1200m)に通じる道です。両神山に通じます。

トンネルから見た二子山(1166m)です。垂直の断崖が迫ってきます。

峠を下ると秩父小鹿野町。秩父市でお蕎麦屋さんにより定峰峠(600m)、白石峠(750m)を越えて帰宅しました。
3泊4日の墓参り、山の谷を尋ねる散策でした。



信州佐久の五郎兵衛用水を作った人・・・市川五郎兵衛の墓を尋ねて・・・上州南牧村をゆく

2007-08-06 | 道をゆく 関東
群馬県南牧村・・・西上州下仁田から田口峠を越えて信州佐久に抜ける県境の村。信州佐久の五郎兵衛用水を作った市川五郎兵衛はこの村の人。南牧村羽沢の南牧村生涯学習センター(元尾沢小学校)が五郎兵衛の屋敷跡と聞いてやってきました。

 市川五郎兵衛真親・・・第五代羽沢城主、砥沢関の関守。
信州佐久平の旧中山道八幡宿の近くに真親神社、市川五郎兵衛記念館があります。

旧小学校の裏にある屋敷跡を示す法輪塔。お墓の案内は羽沢から星尾に向かう道路際に。パンフレットの桜は佐久市にある市川五郎兵衛記念館の前に。南牧村から運んだといわれます。

市川五郎兵衛・・・江戸時代初期の1626年德川家康の開発許可朱印状、小諸藩新田開発状を持って新田開発を佐久平で始めます。ヨソ者です。工費捻出のため砥沢にあった砥石採掘の権利を江戸商人に担保に差し出したとも言われます。いきさつが定かでないのです。大きな利権でもあったのでしょうか。4年間で川を渡り山を掘貫き全長20kmの水路を完成させます。水路の先には新しい村ができます。しかし何年かの後、南牧に帰ってしまいます。僧籍に入ったとも言われます。謎は深まります。
それだけですから時代小説にもなりません。剣豪でもないのです。
それにしても峠の彼我というものは国境の観念を超えてごく近い存在だったようです。
箱根用水、紫雲寺潟新田、見沼新田、興除新田が開発されるのはズット後のことです。江戸時代このような大プロジェクトの普請請負は村請、名主請、豪農請、百姓個人請、商人請、代官見立てとありました(官費公共事業は代官見立てだけです)。五郎兵衛の場合はなんと言うのでしょうね。

星尾峠に向かう道の傍らの市川五郎兵衛の墓石です。水食、風食が進み判読不能です。



上州・・・南牧村の風景

2007-08-05 | 道をゆく 関東
ナンモクムラです。7月4日です。
西上州の南牧村、このムラで行われる「段々畑再生コンサート」に来ました。

南牧村の旧尾沢小学校(現生涯学習センタ-)  旧小学校の講堂?流れは星尾川。

南牧川の眺め、ネムノキが見えます。二つの土蔵に囲まれた旧家です。

この風景は南牧、羽沢の南牧川と星尾川の合流点あたりです。生涯学習センターに沿って右に上がって行くと星尾峠に、南牧川を進めば田口峠、余地峠方面に。古来、峠は物産と文化の通り道だったのです。

南牧村、響きのよい名前です。古代、牧があったのでしょうか。
6月9日信州臼田の町から田口峠を越えてこの村を通りました。むかし立岩方面に行ったことを思い出して星尾方面に行き立ち寄った[お蕎麦やさん]がブログを開設していて、そのブログで「コンサート」の話を知りました。
こうなったら行って見ようというのが物見遊山好きのヘンな性格です。

コンサートの前に少し時間がありました。信州佐久平に江戸時代初期に拓かれた五郎兵衛新田と言う開拓地があります。そこを開拓したのがこの村の市川五郎兵衛だということを前から知ってました、駐車場(旧小学校)のオジサンにそのことを聞くとここが屋敷跡だというのです。そんなわけでここらをブラブラします。その話は次回に。
寄り道をする悪いクセが出ましたのコンサートのルポは後になります。コンサートの模様は次のブログをご覧ください。
  kajika倶楽部

世良田の東照宮

2007-06-13 | 道をゆく 関東
6月のはじめ、深谷のユリ祭りの帰りに世良田の東照宮に寄ってきました。群馬県世良田村(前尾島町、現太田市)にあります。東照宮ですから徳川家康公を祀ったお宮様です。

お鳥居があります。東照宮と書いてあります。

キンキラキンです。間違いなく日光の東照宮と同じ系統です。

何故ここに東照宮が?ここは徳川家の先祖の地?。世良田は上野の国新田荘、源氏系の新田氏のテリトリーだったのです。新田義貞が有名人です。鎌倉幕府を滅ぼした人ですがその後の政界の泳ぎ方が下手というかツイテない人で同じ源氏系の足利尊氏に滅ぼされてしまいます。話が脱線しました。

徳川家の先祖は新田氏の血を引く義季がこのへんの徳川という地籍で一家を構えたことから始まるようです。時が流れ三河の国松平郷(現豊田市)のあたりに願人坊主(乞食坊主)で現れたのがこの子孫。チャッカリ松平家の養子にでもおさまったのでしょう。
偉くなると肩書きが欲しくなります。先祖が源氏系の新田氏ということになります。この系図が偽造かどうかは私にはあずかり知らぬことです。

家康は没後(1616年)、静岡市久能山に東照宮として祀られ、1636年日光東照宮に、1644年ここに日光奥社の拝殿が移され分祀されます。間口5間、奥行き3間の小さな拝殿です。三代家光のとき、仕切ったのは天海僧正です。社領200石を与えられ祭祀、修復、管理などを行い、領民は助郷の免除、用水の使用権などの恩典を受けます。東照宮の横に別当寺でもあった長楽寺がありますがまたの機会に。

湯茶の無料接待所があり近所の方らしいご婦人にお茶をご馳走になりました。