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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

信州佐久から・・峠を越えて・・・西上州の秘境・・・南牧村へ

2007-06-09 | 道をゆく 関東
信州佐久から田口峠を越えて上州南牧村(ナンモク)に入りました。1955年に3ヶ村が合併(昭和の大合併)で南牧村になりました。いい名前です。たぶん律令時代に牧があったのではないかと勝手に想像してます。
県道93号線を下ってきますと県境が途中にあります。何の変哲も無いところです。
長野県側は「馬坂(マサカ)」、群馬県側は「間坂(マサカ)」という地籍です。
「マサカ こんなところに県境があるなんて」

長野県側の広河原という集落を過ぎると道路際に廃屋が見えます。元は学校かな。ここから道は右岸になりますが左岸は長野県らしい。ところでここの子供たちは学校はどこに行くのだろうか。郵便はどこから配達されるのだろうか。

広河原の次ぎの集落です。
二階のベランダ 「カズカケ」というのだそうです。むき出しの廊下(4尺?)があって雨戸はありません。聞いたところによるとコンニャクイモやそのほかの農産物の乾燥作業用のものらしいです。歴史に伝え残したい南牧村の建造物です。
※「カズカケ」は・・・和紙の原料「こうぞ」を乾燥するため「かける」・・・「こうぞかけ」の訛りだそうです。
だんだん畑。写真では見えませんが実際の傾斜はハンパじゃありません。
ここのジャガイモ、葱、蒟蒻は絶品です。
歴史に残したい風景です。

星尾の吉祥寺                   上州のマッターホルン「碧岩」(1133m)

道路際で見たクリンソウ。自然のものではなさそうです。三色ありました。

ここは谷あいの村です。昔から人里離れた土地と見られますが、実は交通の要地です。信州に抜ける峠だけでも星尾峠、田口峠、余地峠、矢沢峠、大上峠とあります。そのほかに名前の無い峠は数多くあります。昔の人は足が丈夫だったのです。

信州佐久に五郎兵衛新田という大用水路を築いて開いた新田があります。江戸時代の大プロジェクト(1626年着手)です。箱根用水(1670年着手)に先立つこと50年。この開発者がここ南牧村砥沢の市川五郎兵衛です。いつかは語ってみたい人物です。

立岩を見に行きます。


蔵の街・舟運の街・栃木市

2007-02-28 | 道をゆく 関東
栃木県藤岡町のミスミソウを見た後にどこに行こうかと考えました。全く無計画な人だ。そうだ栃木市に行こう。

ここは山本有三の故郷です。といってもよく知らない人です。「路傍の石」という小説を書いた文学者です。菩提寺の道標があります。お昼に「お蕎麦」です。今日は「けんちん蕎麦」にしました。
月曜日です。どこもお休みです。蔵の街は静まり返っています。

この街はかつてのお城下ではありません。
日光例幣使街道の宿場町でもありました。京都のお公家様が中山道の倉賀野宿から分かれて太田、足利、佐野、栃木と行列を進めて来たところです。
古くからの市場町です。かつては利根川水系の巴波川(うずまがわ)の舟運のターミナルだったのです。近世の物流の中心地です。ここで物資が中継されて江戸の運ばれたのでしょう。川の両側は往時を偲ばせます。左側は「万町」、右側は「入船町」といいます。道路は「綱手通り」です。ナルホド


古い黒塗りの家です。大店(オオダナ)でしょうか。川には鯉がワンサと泳いでいます。

お蕎麦も食べた。次ぎ行こう。

沼田城址・・きり絵・・美術館・・蕎麦

2006-10-14 | 道をゆく 関東
今日は笑っちゃいました。群馬県沼田市にある関口コオきり絵美術館に行こうと決めて昨夜ホームページを見て住所を確認し、今朝早く出発しました。行く先は沼田公園のそばです。行ってみました。看板があり閉館のお知らせが貼ってあります。
仕方がありません。狭い小路を少し行くとありました、建物だけ。
関口コオさん(1937年生まれ)。世界的な切り絵作家だそうです。ザンネン!
あとで沼田市のホームページを見たら閉館のお知らせがありました。ザンネン!
 
沼田公園は真田幸村の兄が居城した沼田城の跡です。公園内をブラブラしました.
 
 
真田家は1681年改易になり以後この城は廃城となります。当然のように藩士は失業です。実高30000石を144000石と過剰申告したツケが来たようです。バカ殿の暴政か経済スタッフの放漫経営か幕府の謀略か私にはわかりません。殿様は世襲ですから利巧者とはかぎりません。バカ息子も出てきます。いまの政治家も世襲が多くなりました。

城は利根川と薄根川と片品川の三つの川に囲まれた河岸段丘上にあります。段丘の下の沖積地は秋真っ盛りです。

段丘を下りて田んぼを目の前にした沼田城址の北麓にタチ蕎麦「源」というお蕎麦屋さんがありました。タチ蕎麦は奥会津の蕎麦の打ち方です。蕎麦は100%地元ものだそうです。お蕎麦の好きな方は一度訪ねてみるといいですよ。

沼田で美術館を空振りしたあと、高速道路で高崎JCTから東ICへ出て利根川べりの大泉町の友だちの家に行き2時間ばかり駄弁り、妻沼でお寿司をご馳走になり熊谷経由で比企の里へ帰りました。

陶器の里 笠間を訪ねる

2006-08-03 | 道をゆく 関東
3ヵ月前のGWの真っ最中、焼き物の街、笠間の陶器フェアーを訪ねました。大きな森の中のイベント広場に数百張りのテントブースが設けられ、飲み物、軽食のブースもあり、仮説ステージでは音楽会が開かれていました。広場に向かう森の中でバクパイプを練習している人がいましたがその音色に感動しました。こういうところへ行くとなぜか心が浮き浮きします。スーべニールとして数百円の小皿を買っただけですが。ケチッ!
ここ笠間市は江戸時代8万石の城下町、今は日本三大稲荷で知られる大きな街です。近くに益子焼で知られる益子町がありますが焼き物の里としては関東ではもっとも歴史が古いのだそうです。

私的には焼き物の里としてより、笠間藩牧野家の始祖牧野成貞の数奇な人生に興味が惹かれます。館林藩家老、綱吉公側用人2千石の身分から4年間で7万3千石の異例の加増の裏に何があったか。明治時代の江戸学の祖三田村鳶魚の著書に「献妻」の話があるそうです。拝領妻の逆の話です。池波正太郎の「男の系譜」(新潮文庫)にもこの話を扱ったものがあったと記憶しています。さしずめ今ならテレビのワイドショウや雑誌の恰好の標的になるところでしょうが、なにしろ当事は公方様の時代、そんなことをしたら関係者、スタッフ一同が打ち首、獄門ですから事件の真相は定かではありません。
それはそれとして牧野家数百年の治世はこの土地を豊かなものにしたのではないでしょうか。

写真は芸術の森公園陶器フェアー会場です。