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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

渡良瀬遊水地・・・野焼きから1ヶ月

2009-04-24 | 道をゆく 関東
渡良瀬遊水地・・・野焼きが行われたのは3月21日、1週間たった3月29日に野焼き後の渡良瀬を訪れ、1ヶ月たった一昨日、また渡良瀬に行って来ました。
今日はチャリンコで旧谷中村あたりをポタリングです。

むかしの村の菩提寺・・・延命院のあたりです。ここの向かいにむかしの共同墓地があります。

3月29日・・・村の屋敷あとから眺めた渡良瀬の葦原の風景です。

野焼きの光景です。

4月22日・・・村の屋敷あとから眺めた渡良瀬の葦原の風景です。

渡良瀬遊水地そのものは池ではなく葦の原で、その中の遊水池を谷中湖といいます。


甲州武川・・・山高・・・実相寺の桜

2009-04-08 | 道をゆく 関東
甲州武川村山高(現北杜市)の神代桜・・・を見に行きました。
日曜日、高速料金はなぜか1250円。須玉ICを出て段丘の上のJR日野春駅のあたりから釜無川の谷底めがけて下り20号線を突っ切り大武川の段丘の上に上がるとそこが武川の山高地籍・・・

日蓮宗大津山実相寺・・・「山門不幸」と書いてありますが意味不明。
※「山門不幸」・・・「九十九と一つさん」にコメントで教えてもらいました。
お寺は不幸ごとを扱うところですが、神代から生きてきたこのめでたい桜をどうぞ見てやってください・・・・というような意味らしいです。何かめでたいことで境内を開放するときのキャッチフレーズのようです。

山門から本堂に向かって桜、水仙、チューリップが見事。

桜にお参りに来た信心深い方々・・・本堂にも大勢の参拝客が。

参道から見上げると鳳凰三山の地蔵岳・・・通称オベリスクといわれる尖塔が見えます。

渡良瀬遊水地・・・野焼き2009・・・アフター

2009-03-31 | 道をゆく 関東
3月21日
冬の間は水を引いてない谷中湖の向こう旧谷中村跡地方面に赤い炎と黒煙が。

渡良瀬の野焼きから1週間、その後どうなっているかと渡良瀬遊水地に来ました。

3月29日、広い渡良瀬遊水地、全部を焼き尽くすというわけではないようです。
葦原の一部はそのままに残っています。

焼け野原にキジが。

旧谷中村の跡地、延命院の鐘と赤い郵便受け。
鉄の箱には誰でも記入できる伝言ノートとそれをまとめた「谷中村たより」が入っています。

遠くに男体山が。
男体山(2486m)・・・日光中禅寺湖の上にそびえる山。二荒山(フタラサン)ともいう。
日光二荒山神社の奥社があります。

筑波山(877m)・・・茨城県のシンボル。
ガマの油売りの口上で有名。

JR山手線一周の中くらいあるといわれる広大な渡良瀬遊水地、ここが何のために作られたか・・・このことを忘れないようにしよう。

渡良瀬遊水地・・・野焼き2009

2009-03-21 | 道をゆく 関東
今日は朝早く・・・じつは遅かったが・・・渡良瀬遊水地の野焼きに行ってきました。

遅くスタートしたので利根川を渡ったときはすでに前方に煙があがっています。

渡良瀬遊水地に到着。柏戸3叉路(右は茨城県古河市、左は栃木県藤岡町)。

渡良瀬遊水地中央エントランスから。
白く見えるのは谷中湖・・・冬は水を抜いてあります。真ん中の橋から谷中湖を横切る道が。

炎の中に鳥の影が・・・猛禽かな?・・・
左の炎の形が力瘤を作った怪人に見えます(イメージは人それぞれですが)。

紅蓮の炎
炎の向こうに旧谷中村跡が・・・1906年強制廃村・・・ここは日本の公害問題の原点です。

渡良瀬遊水地北エントランスから旧谷中村跡に通じる道がまっすぐ。

右に古河市方面が、左は藤岡町・・

野焼きのあとの葦の草原は春の光の中で新しい生命を育んでいきます。

野焼きについて・・・旧地権者などを中心とするヨシズ刈り生産農家の「渡良瀬遊水地利用組合連合会」が実施する行事。なお野焼き行事は奈良若草山の芝焼きなど伝統行事その他認められたもの以外は廃棄物処理などの法律により禁止されています。ヨイ子はマネをしないように。

渡良瀬遊水地利用組合連合会の野焼き情報です

渡良瀬遊水地について昨年7編のブログをアップしました。

08.03.16渡良瀬遊水地・・・野焼き①
08.03.17渡良瀬遊水地・・・野焼き②
08.03.18渡良瀬遊水地・・・野焼き③
08.03.20渡良瀬遊水地・・・野焼き(終章)・・谷中湖
08.05.21渡良瀬遊水地・・・谷中村滅亡の跡
08.05.22渡良瀬遊水地・・・延命院の鐘
08.05.27渡良瀬遊水地・・・谷中村(終章)・・墳墓の丘

渡良瀬遊水地へ・・・谷中湖

2008-05-20 | 道をゆく 関東
5月15日、久しぶりの晴れの日の散歩です。
渡良瀬遊水地にやってきました。3月16日の「春の野焼き」に来て、ここにはまた来なければと思ってました。2ヶ月ぶりです。

ハート型は谷中湖・・450ha (写真は「栃木県の土木遺産」から)

渡良瀬遊水地、谷中湖を含めて3300ha、周囲30km、東京のJR山手線の延長が34km。
谷中湖の周囲9.2km、皇居1周マラソンが5.3km。
ここは湖というとヘン?調整池です。1月から4月までは空濠、5月から12月まで水を引くようです。
※地図

北エントランスから入りハート型の上部、ウォッチングタワーに登りました。
北水門が見えます。その向こうが谷中湖。

タワーから北西の方向。一面の葦原。遠くに佐野・藤岡IC近くの三毳山(ミカモヤマ)が。

タワーから西東の方向。すぐ近くの木立は旧谷中村の遺構です。
上天気ですが筑波山は霞んで見えません。

下に見える道を少し進むと車はストップになり駐車場があります。ここからは歩きです。いちばんいいのはレンタ・チャリ(道の駅「きたかわべスポーツ遊学館」にあります)でブラブラすることです。見渡す限りの原っぱ。帽子は必携です。

谷中湖のハートの中心部分、旧谷中村の遺構のほうに行きます。

上州路を行く・・・岩櫃山

2008-05-04 | 道をゆく 関東
榛名湖から群馬県道28号線を北に向かうとJR吾妻線郷原駅の辺りに突き当たります。田中という地籍です。
見上げると岩櫃山(802m)がそそりたっています。垂直岸壁200m?見事な岩塊です。


山登り好きな人にはたまらない山の顔です。登ったことはありません。駅から高度差はありませんが首都圏からは電車を乗り継いでいくのはたいへんのようです。
ここから南に「大戸の関」に向かいます。


上州路・・・榛名湖

2008-05-02 | 道をゆく 関東
高崎市内から県道28号線、この道はかつてなんという名前の街道だったのでしょうか。
みさと芝櫻公園」から北上、緩やかな坂道の松之沢峠を越えると榛名湖に出ます。
上州三山の一つ「榛名山」、いくつかの山をひっくるめて榛名山と称します。最高峰は掃部ヶ岳(カモンガダケ1449m)、知りませんでした。カルデラ湖の榛名湖(1100m)、中央火口丘の榛名富士(1339m)が有名です。

まだ早春。静かです。


※名曲「湖畔の宿」。1940年発表。作詞佐藤惣之助・作曲服部良一・歌高峰三枝子。
美しくも切ない詩です。戦争中ですからあまりにも女々しい歌ということで発売禁止になりますが前線の兵士にもっとも人気があったそうです。美しいものは誰にも止められません。
ご当地ソング風ですが湖の名前を特定していません。高峰三枝子さんは芦ノ湖をイメージして歌っていたそうです。聞いた人も勝手にイメージしてたのでしょうね。1989年佐藤惣之助が榛名湖畔の宿の仲居さんにあてた手紙が発見され榛名湖に同定され1990年「湖畔の宿記念公園」が開園されたそうです。
湖の名前はナゾのほうがよかったね。

   昨日生まれた豚の子が  蜂に刺されて名誉の戦死

ガキのころそんな替え歌を歌ったことを思い出しました。

時間がありませんから通過するだけ、28号線をさらに北へ、郷原まで、そこから大戸の関を通り高崎方面に引き返します。

鎌倉散歩(終章)・・・江ノ電 ・・鳩サブレー

2008-04-06 | 道をゆく 関東
古都鎌倉歩きの終章です。
久しぶりの老婦人との邂逅を終えて帰路につきます。

JR鎌倉駅西口、「江ノ島電鉄鎌倉駅」が隣にあります。テレビの旅番組でおなじみですね。普通の家の軒先スレスレに走る電車です。長谷寺、大仏、稲村ヶ崎、江ノ島に通じています。


鎌倉のみやげ物「鳩サブレー」です。懐かしい味がします。

鎌倉、ここは知人宅、友だちの家があって若いときからよく訪れた街です。街ですからとうぜん変貌していきます。都心へのアクセスもよくなりマンションも増えてきました。歴史の街、観光の街としても栄えています。この不思議なバランスが古都鎌倉の魅力かも知れません。

老婦人と・・夫人の実家は東京の北のはずれの赤羽、東京空襲のころ実家に焼夷弾が落ちた話、夫人のご主人が戦時下、商社マンとしてタイに赴任、前後の輸送船に乗った同僚が沈没死亡、ビルマ、ベトナムなどに赴任した同僚で帰らぬ人が大勢いた、などのお話を聞かせていただきました。
一期一会ですがまたお会いしたいです。

鎌倉・・鶴岡八幡宮・・桜

2008-04-02 | 道をゆく 関東
久しぶりというより十数年ぶりにある老婦人をたずねて鎌倉に行ってきました。
よく晴れて桜も満開です。約束の時間より早く着いたので鶴岡八幡宮に行きました。

京都朱雀大路を模したといわれる若宮大路、鳥居が3つあります。写真は二の鳥居。ここから段葛といわれる桜のトンネルの中央参道が三の鳥居までつづき八幡宮境内に入ります。


有名な大銀杏。鎌倉幕府三代将軍源実朝が二代将軍頼家の子の公暁に暗殺(1219年)されたといわれる犯行現場です。犯人はこの銀杏の後ろに隠れていたといわれますがどう見ても隠れるような太さではありません。800年も前ですからいまより細いはずです。護衛のものも知らんプリを決め込んだ?キチガイに刃物を持たせたという図式が見えてきます。
かくして武家政府を拓いた源氏は三代で血筋が絶え幕府成立の黒幕である北条家が幕府の体制そのものチャッカリいただいちゃうという筋書き通りの結果になりました。つまり源頼朝からはじまって三代目まで北条家の傀儡(広告塔)ということだったのです。おまけに二代目、三代目はとても政局に対処するような器ではなかったのでしょう。いまの政界みたいですね。


本宮の中で御縁がありますように5円を奉納して、石段の上からいま来た道を振りかえります。すぐ下に静御前が舞ったとされる舞殿、三の鳥居、段葛がつづいています。霞んでいなければ由比ヶ浜の海が見えるはずです。


しずやしず しずのおだまき くりかえし 昔を今に なす由もがな

1186年に源義経の内妻?静御前が義経の兄頼朝に捕らえられて鶴岡八幡宮の舞殿でこの歌を歌いながら舞ったという話が大河ドラマなどに出てきます。
この歌を聞いて頼朝が激怒したといわれますが何で激怒したか意味がわかりません。癇症持ちかパラノイア的(偏執症)人間だったのでしょうか。今でもよくいるんですよ、こういう人間が。

しず・・倭文・・麻織物の種類らしいです。
おだまき・・わかる人はいないでしょう。山野草ではありません。写真の糸車です。昔は養蚕農家にはあったものです。

ここまでわかってもまだ意味がわかりません。
しず」は「」とも。暗に「この賎しいやつめ」と静御前が頼朝を嘲ったともいわれます。考えすぎでしょう。

それにしてもこの舞殿は12世紀の終わりごろにはまだ建立されていなかったといいますからナゾは深まります。

そのご静御前は頼朝の怒りに触れて斬首ということになりますが政子夫人のとりなしで助命されて腹の子は出産と同時に由比ヶ浜に投げ込まれ、自身は京都に送られたといわれますが定かではありません。全国あちらこちらに「静御前」立ち寄りの場所やお墓があるそうです。
散歩は続きます

なお鎌倉を訪れた日は4月1日。歴史的考察はエイプリルフールと解釈してください。

渡良瀬遊水地・・野焼き③

2008-03-18 | 道をゆく 関東
3月16日「渡良瀬遊水地の野焼き」です。
春の風物詩です。

朝からカメラマンの砲列です。数千人?だんだん人が増えていきます。
フォトクラブご一行様なんていう観光バスもあります。
場所を4ヵ所移動しました。駐車場の心配をしましたがとにかく広いもんですから何とかなります。当日は路肩に停めてもお構いなしのようです。

運動公園の堤防の芝の野焼き。足元が燃えてるのに相変わらずの人出です。

3300haの広い遊水地、中には遊歩道もありハイカー、バードウォッチャー、サイクらーで賑わうそうですが今日は入場禁止です。ここは旧谷中村慰霊碑近くの堤防上。


数日前に雨があったそうで火の勢いはそれほどではありません。植物の保水力というものはたいしたものです。そういえば鶯の声も聞きました。野鳥、小動物はどうしてるでしょう。鳥さんたちは翼があるから一時避難、草原が回復するころ営巣に入るのでしょうか。小動物たちは危険予知能力があるのでしょうね。
すべてを焼き尽くされた葦の原は太陽光線を浴びて新しい生命が息づいてきます。

野焼きについて・・・旧地権者などを中心とするヨシズ刈り生産農家の「渡良瀬遊水地利用組合連合会」が実施する行事のようです。なお野焼き行事は奈良若草山の芝焼きなど伝統行事その他認められたもの以外は廃棄物処理などの法律により禁止されています。

朝が早かった。中央エントランスで谷中湖を見て、藤岡の三毳山に行って雪割草を見て佐野ラーメンを食べて帰ろう。