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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

厳冬の北信濃・・・大町へ・・・神仏集合そのまんまの・・・若一王子神社の三重塔

2022-03-05 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月中旬、厳冬の北信濃・・・大町へ・・・神仏集合そのまんま残存する若一王神社を尋ねてのドライブ・・・
若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)・・・長野県大町市大町2097、JR大糸線北大町駅徒歩10分、国道148号線。県道31号線(糸魚川街道、千国街道)からすぐ。

若一王子権現(若一王寺)の三重塔・・・
★江戸時代中期に木食三居上人の勧進によって1711年建立、方三間三層、杮葺き屋根。高さ20.21m。明治初年の1868年、神仏分離令により廃仏毀釈の運動が起こったが若一王子神社と名前を変え三重塔は物見塔であると言い張り難を逃れたという。





※撮影日は2月9日。
★日本の近世以前の三重塔は102(うち国宝が13)。信州には10(うち国宝が2、重要文化財が3)あります。1月から上田市塩田平の安楽寺八角三重塔、前山寺三重塔、青木村の大法寺三重塔、上田市国分の国分寺三重塔、御代田町の真楽寺三重塔、佐久市田口の新海三社神社の三重塔、佐久市前山の貞祥寺三重塔、大町の若一王子神社の三重塔を尋ね、過去に小川町高山寺の三重塔を尋ねていますから計9塔を尋ねています。残るは駒ケ根市の光前寺の三重塔だけに。
★神仏分離令は明治初年に太政官布告で出された法令。廃仏毀釈は最初は藩主が主導、そのご民間の運動に。比叡山延暦寺への攻撃からはじまり奈良興福寺への襲撃、鹿児島では藩領の1066寺のすべてが廃寺。説明すると平田国学、神道国教化、明治の蛮行とか長くなるので割愛。
★松本藩での廃仏毀釈は藩主の戸田氏の主導のもとに始まり領内180寺のうち140寺が廃寺、打ち毀しなどは78%に及んだという。松本藩領大町の若一王子権現は若一王子神社に、三宝荒神は竈神社に名を変え難を逃れた。

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厳冬の北信濃・・・大町へ・・・神仏集合そのまんまを残す・・・若一王子神社の観音堂

2022-03-04 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月中旬、厳冬の北信濃・・・大町へ・・・神仏集合そのまんま残存する若一王神社を尋ねてのドライブ・・・
若一王子神社・・・長野県大町市大町2097、JR大糸線北大町駅徒歩10分、国道148号線。県道31号線(糸魚川街道、千国街道)からすぐ。

拝殿の横に観音堂(王子観世音・仁科三十三札所第一番)・・・1716年建立、茅葺き、方三間寄棟造り、長野県宝。

神仏集合そのままです。三重塔は物見塔という申し開きでをしたそうですが観音堂はどういったのでしょうか。

観音堂の内部に宮殿が・・・1716年建立、板葺き、方一間入母屋造り、長野県宝。


銅造十一面観音坐像御正体残闕・・・鎌倉時代の製作と伝えられている。高さ22.1㎝。
木造十一面観音立像御正体残闕・・・平安時代製作。180㎝。明治の廃仏毀釈で焼かれ頭部は焼失、胴も損傷が激しい。

※撮影日は2月9日。


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厳冬の安曇野から大町へ・・・若一王子(にゃくいちおうじ)神社に詣でる

2022-03-03 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

2月中旬、厳冬の安曇野から大町へ・・・きょうもまた信州に残存する三重塔を尋ねてのドライブ・・・
若一王子神社・・・長野県大町市大町2097、JR大糸線北大町駅徒歩10分、国道148号線。県道31号線(糸魚川街道、千国街道)からすぐ。

広大な1.7㌶の社叢の中に・・・大鳥居の正面に拝殿、右に神社なのに三重塔・・・
神仏集合のままの雰囲気です・・・



古代、この地を開発した仁品王を祀るためにこの地方の豪族仁科氏が平安時代の849年に創建と伝えられ、鎌倉時代はじめに熊野権現若一王子を勧請して若一ノ宮、若一王寺、若一権現などと呼ぶようになりました。若一王子は神仏集合の神。室町時代の終わりごろの1556年に本殿(国の重要文化財)を建立、江戸時代の1654年改修。1706年観音堂、1711年三重塔、昭和の1935年本殿解体改修と・・・いまに至っています。
明治以前までは神仏集合、明治の廃仏毀釈のころ、若一王寺の名前を若一王子神社に改称、三重塔は神社の物見ノ塔という屁理屈を並べて解体を免れたといいます。

<spanpan style="font-size:13px;">※撮影日は2月9日。
若一王子・・・熊野権現の中の神様ですが詳細は割愛。全国に勧請されていて明治の神仏分離令により名前を変えたりして、現在は王子神社として残存してるのは数社、東京都北区の王子神社は町の名前としても残っています。

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初冬の安曇野散策は・・・ちひろ美術館・・・の広い芝生広場だけ見て帰路に

2022-01-08 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳
初冬の安曇野散策・・・穂高神社から田淵行男記念館・・・最後は「安曇野ちひろ美術館」に・・・
ちひろ美術館・・・絵本作家のいわさきちひろの子、松本会館。20年後の1997年、祖父母の開墾した地、安曇野の松川村に「ちひろ美術館 安曇野」を開館。
長野県北安曇郡松川村西原3358-24、JR大糸線信濃松川駅から西に2.5㎞。

世界最大規模の絵本美術館・・・敷地5.35㌶、延べ床面積2.5㎡。
今日は休館日、北風が強くて寒い・・・画像クリックすると夏に訪れたときの風景が。
※撮影日は11月26日。
ちひろ・・・いわさきちひろ・・・岩崎千尋・・・ってご存知ですか。名前は知らなくても、子どものころいちどは見たことがあると思います。

いわさきちひろ(本名松本知弘、旧姓岩崎 1918~1974年)画家、絵本作家。陸軍築城本部の勅任建築技師の父岩崎正勝(長野県梓川村出身)、母文江(松本市出身)の長女として母の赴任先(教師)の福井県武生市で生まれる。母文江は旧制奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の第1回生。そのご東京で育ち旧制第六高等女学校(現都立三田高等学校)、同補習科、洋裁学校で教育を受ける。幼い時から絵をよくし洋画を岡田三郎助に、書を小田周洋に師事。書は師の代理を務めるほどだったという。20歳で結婚、夫の勤務先の旧満州大連へ、夫の自殺により帰国、ふたたび絵、書を学ぶ。1944年(25歳)、母が主事をしていた大日本女子青年団の「大陸へ花嫁を」の活動で「満蒙開拓女子義勇軍」に書の教師として同行、同年、東京での書の教え子の叔父の旧満州陸軍の将校の手配により帰国(どのような理由をつけてか不明)、終戦の前年であり、このようなことは旧満州の高級軍人、官僚の子女には行われていたようです。このことが無かったらその後の運命はどうなったでしょう。東京に戻った翌年の1945年、岩崎家は空襲で全焼、父母の故郷信州へ疎開。同年の8月に敗戦。教養ある父母の下で経済的に何不自由なく育ったちひろ。神国日本の不敗を信じていた岩崎家、敗戦後の情報の変化で大きな転機が訪れたようです。ちひろは日本共産党に入党、自立を目指して上京、母方の親戚の神田神保町の箔押屋さんの二階に下宿して共産党系の人民新聞に勤務。丸木位里、赤松俊と交流。父母は満州引揚者のための開拓地松川村へ入植、開墾を始めます。
1950年、同じ党員の松本善明(のちに弁護士、衆議院議員)と結婚。雑誌・新聞のカット、広告のポスター、表紙絵、絵本の挿絵などで生活を支え、しだいに絵本作家としての地位を築き、油彩から水彩に、書の技法を取り入れたボカし、滲みなどちひろの世界をひろげていきます。惜しむらくは56歳の若さでこの世を去りました。

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初冬の安曇野・・・アルプスと蝶と安曇野を愛したナチュラリスト・・・田淵行男記念館

2022-01-07 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳
初冬の安曇野・・・穂高神社から田淵行男記念館にやってきました。
安曇野市豊科南穂高5078-2、JR大糸線柏矢町駅から東に1.5㎞。1990年開館、敷地1254㎡、床面積286㎡。

田淵行男(1905~1989年)・・・写真家、高山蝶研究家。鳥取県の山麓に生まれ台湾で育つ。旧制東京高等師範学校卒業、旧制富山県立射水中学校、旧制府立第三高等女学校、旧制府立女子師範学校、大阪で進学塾教師、東京で理科教材セールス、日本学術写真社、独逸学協中学校教師。1945年穂高町牧に戦時疎開、戦後はそのまま安曇野で写真活動に。1961年豊科町に移住。安曇野市名誉市民。


記念館パンフレットから・・・キスリングザック、中型写真機(リンホフ)と乾板フィルム、蝶ヶ岳からの槍ヶ岳・・・

記念館内の庭には蝶の食草などが植えられています。
池の畔に・・・ワサビ・・・

・・・ワスレナグサ・・・

カラーフィルムの無い時代、細密画で蝶の記録を残しました。
中央は・・・ギフチョウ・・・安曇野はスプリングエフェメラル・ギフチョウ、ヒメギフチョウの宝庫です。


自然から読み取り学ぶ知識がもっとも正しい」・・・田淵行男
※撮影日は11月26日。

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冬の安曇野・・・太古、筑紫国から移住してきた安曇族の祖を祀る・・・穂高神社の風景

2022-01-06 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

安曇野市穂高、JR大糸線穂高駅そばの穂高神社本宮(里宮)に来ました。古代九州、筑紫国糟屋郡安曇郷から信州梓川、烏川、中房川の扇状地一帯に移住したという安曇族の祖綿津見命穂高見命を祀る神社です。
奥宮は上高地の奥の明神池。奥穂高岳の頂上に峰宮。
創建はたしかなことは不詳ですが7世紀中期ころか。

二の鳥居から正面に神楽殿、その奥に拝殿

拝殿の右に・・・社務所・・・

ステンレス製のモダンな道祖神・・・健康長寿の達者道祖神(2013年建立)

中央に若宮殿(祭神は安曇連比羅夫)ほか摂社、後に樹齢推定500年の大欅が。

樹齢推定500年、孝養杉。
※撮影日は11月26日。
安曇族・・・筑紫国糟屋郡安曇郷(現在の福岡市東部、志賀島に通じる海の中道の付け根のあたり)に住した海の仕事を生業とする一族といわれます。6世紀の中期から7世の初期に、全国に散じたといわれますがその理由は確かなことはわかりません。朝鮮半島において新羅、百済の覇権争い、大和朝廷が百済に援軍を送るなどした時期です。527年九州筑紫の豪族磐井氏が朝鮮仁出兵しようとするヤマト王朝軍を阻んだ事件・・・磐井の乱・・・で磐井氏に与したことで逃亡離散を余儀なくされたという説もありますが・・・定かではありません。
祭神の中に飛鳥時代の武人665年朝鮮半島白村江の戦いで戦死した安曇連比羅夫が祀られています。命日の9月27日は本宮の例大祭「御船祭り」です。
一族の散らばった足跡は全国に安曇、阿曇、厚見、渥美、熱海、温海、安積、安住という地名で残っています。そのほとんどが海辺部ですが、信州安曇族は山間部に定着しました。安曇族がいかなるルートで信濃国の中部に入ったか・・・謎です。

★穂高駅の西に碌山美術館が、近くにちひろ美術館が・・・安曇野にはざっと数えて12の美術館があります。

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秋の安曇野・・・日本の農村の原風景ような水車のある風景とワサビ田

2021-11-03 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

北の一日・・・北アルプスの冠雪を確かめに北安曇野白馬村へ・・・帰路、国道148号線(塩の道、千国街道、糸魚川街道)を松本方面に・・・

安曇野市穂高の大王わさび農場に寄りました。
農場内を流れる万水川(よろずいがわ)、蓼川の合流点です。
映画界の巨匠黒沢明監督のオムニバス映画「」(1990年公開)の最終章「水車のある村」で撮影された水車小屋がそのまま保存されています。

古いむかしの日本の農村の原風景がひろがります・・・いつまでも残しておきたい・・・


大王わさび農場です・・・1917年に砂礫主体の荒れ地15㌶を開拓して開場しました。「大王」の名前は安曇地方に古くから伝わる魏石鬼八面大王伝説に因んで。この大王については善玉であったり悪役玉であったり諸説ありよくワカリマセン。農場内に大王神社があります。

北アルプス山麓の扇状地の伏流水が湧出するあたり・・・1日12万㌧の湧水量.、水温は年間ほぼ一定の13℃・・・ワサビ田です


※撮影日は10月11日。


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秋の北安曇野・・・仁科三湖「木崎湖」の風景

2021-11-02 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

北の一日・・・北アルプスの冠雪を確かめに北安曇野白馬村へ・・・帰路、国道148号線(塩の道、千国街道、糸魚川街道)を松本方面に・・・

仁科三湖・・・木崎湖の風景です・・・静寂です

レンタルボートで・・・バスフィッシングかな?


※撮影日は10月11日。
仁科三湖・・・大町市の北部、白馬村との境界、フォッサマグナ(糸静構造線、中央地溝線)線上に位置する断層構造湖。北から青木湖、中綱湖、木崎湖の三つの湖をいう。仁科は大町市あたりの古い地域呼称、「仁」は赤土(ローム)の土質、「科」は坂、段丘状の傾斜地をいう。
木崎湖・・・三湖の中で南端、周囲6.5㎞、面積164㌶、最深29.6m。

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初夏の・・・乗鞍高原・・・自然保護センターあたりから

2021-07-21 | 信濃の国は 安曇野・松本・木曽
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初夏の乗鞍高原・・・山見歩き・・・
山奥ですが、ここは松本市・・・大字安曇鈴蘭・・・乗鞍高原観光センターあたりまでやってきました。
乗鞍岳へはこのあたりでマイカーは行き止まり。乗鞍岳へは乗鞍エコーラインをシャトルバスで上がります。

中央が主峰の剣ヶ峰・・

乗鞍観光センターのそばにある乗鞍自然保護センター・・・

自然保護センターの隣に・・・バットハウス・・・世界にここだけのクビワコウモリ集団繁殖のための50㎡の大型人為巣箱です・・・
コウモリ・・・哺乳類コウモリ目、南極大陸、極地、雪線上の高山を除くすべての大陸に生息。夜行性であるため目にすることは稀。生態についてもあまり知られていない。
クビワコウモリ・・・日本の固有種、1951長野県で発見例が、以来、甲信越、北陸地方、群馬、栃木、福島で発見例が、1989年乗鞍高原で集団繁殖の発見。

ズミの花?

摩利支天岳の中腹を横切る登山道が見えます。
※撮影日は6月9日。

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