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( 歴史メモ ) 日中戦争、朝鮮の動乱、中国共産党成立等を振り返る。

2016年06月26日 | 歴史メモ
 日露戦争は、ヨーロッパにアジアが勝利した戦争として、列強に侵略されているアジア諸民族を鼓舞する一面もあった。インドでは「アジア人に対するヨーロッパ人の絶対的優位性の神話は崩れ去った。インド人も民族的自信を持つべきだ」と唱えるティラクの指導でインド国民会議派による反英運動が活発化した。第二次大戦後にインド首相となるネルーも「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に、大きな影響を与えた。私は少年時代どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、大人が同じ感激をした」と、父が子に語る歴史の話として娘のインディラ・ガンジーに伝えている。1906年のイラン立憲革命や1908年のトルコのサロニカ革命も日露戦争の影響があるといわれる。その後の韓国の植民地化と中国侵略は日本がヨーロッパ列強と同様の帝国主義国であることを示していった。

 1911年の武昌蜂起をきっかけに南京を首都に中華民国が成立し、清朝は滅亡した。しかし、清の実力者から中華民国の大総統となった袁世凱は独裁政治を開始する。清朝の打倒をめざす革命団体が19世紀末から結成され始める。担い手となったのは留学生や華僑など外から中国を見る機会を持った人々だ。1905年日露戦争に刺激を受け、興中会、華興会、光復会など革命組織が結集し東京で中国同盟会が結成された。中国人留学生300人がこれに参加、彼らが帰国することによって革命運動は中国全土に広がる。革命派による武装蜂起が中国各地で繰り返されていった。

 中国同盟会の指導者となったのは孫文(1866~1925)だった。彼は広東省の貧農の家に生まれ、小さい頃から太平天国の洪秀全にあこがれていた。12歳の時ハワイで成功していた兄のもとに渡り西洋式の教育を受け、1894年には興中会を組織し革命運動をやっていた。孫文の唱える「三民主義」(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)は中国同盟会の指導理念となった。日露戦争後、清朝政府は改革の必要性をようやく認識し、1905年には科挙を廃止、1908年には憲法大綱を発布し10年後の国会開設を公約。早期国会開設を求める人々はこれに失望し、清朝が科挙に代わる人材育成をめざして日本に送り出した多くの留学生は反清思想に触れて帰国した。1911年、鉄道国有化令が出された。これは、民間鉄道である川漢(四川~湖北)鉄道、粤漢(広東~湖北)鉄道の敷設権を国有化し、これを担保に外国から借款を得ようするものだったので、国権を外国に売り渡すものとして、成長しつつあった民族資本家層を中心に、沿線各省で猛烈な反対運動が起こり、四川省では大規模な暴動に発展した。10月には湖北省の武昌で湖北新軍が挙兵し革命政府を樹立し、清朝からの独立を宣言(武昌蜂起)。新軍(新建陸軍)は、日清戦争後に作られた洋式陸軍で、将校には日本留学者が多く、兵士も含めて革命派が多く所属していた。湖北新軍では15000の兵のうち三分の一が革命化していた。武昌蜂起成功が伝わると、湖南省、陜西省、江西省などに蜂起は広がり14省で革命政府が成立し、清朝からの独立を宣言(辛亥革命)。1912年1月、独立した革命派諸省は南京を首都に中華民国の成立を宣言し、亡命先のアメリカから帰国した孫文が臨時大総統となった。

 武昌蜂起後、清朝政府は西太后死後失脚していた軍の実力者だった袁世凱を起用し革命鎮圧を命じた。資金難のうえ各省の足並みがそろわない南京政府には、列強の支持を受け北洋陸軍を率いる袁世凱を破る軍事力はなかった。革命政府を守るためには、袁世凱を味方につけるしかないと判断した孫文は、宣統帝を退位させ、共和政を守るならば、臨時大総統の地位を袁世凱に譲ると約束。この申し出を待っていた袁世凱は、1912年2月宣統帝を退位させ(清朝の滅亡)、3月には北京で臨時大総統に就任。大総統となった袁世凱には、革命や三民主義への共感はなく権力欲だけ。1912年、中国最初の選挙で中国同盟会を母体として結成された国民党が圧勝すると、袁世凱はこれを弾圧し、国民党の指導者宋教仁は暗殺される。1913年各地で反袁反乱(第二革命)が起きるが失敗に終わり、孫文は亡命する。袁世凱は、翌年には国会を停止し独裁を強化、1916年には帝位につく。時代錯誤だとして内外から強い反発を受け(第三革命)、帝政を撤回した後に病死する。袁世凱の死後、彼の部下の将軍たちが軍閥として地方割拠し、中華民国とは名ばかりの分裂状態になる。列強は各軍閥と結びつきながら利権を獲得してゆく。19世紀後半、独占資本・金融資本が発達すると列強は、資本輸出先として植民地を求めて帝国主義政策をとる。

 第一次大戦後の朝鮮では民族自決に期待して大規模な三・一独立運動が湧き起こった。中国でも、大戦中の日本による二十一カ条の要求に対して、五・四運動が起きた。1918年、米大統領ウィルソンが「十四カ条の平和原則」を発表すると、自由に活動のできる海外在住の朝鮮人から「民族自決」に期待した運動も起こる。アメリカにいた朝鮮の李承晩(イスンマン)はウィルソンに韓国独立を要望し、上海の新韓青年党呂運亮(ロウンヒョン)はパリ講和会議への代表派遣を計画、これらの動きが日本留学生に伝わると、1919年2月東京神田朝鮮YMCA会館に600名の留学生が集まり「独立宣言大会」が開かれる。

 朝鮮半島でもこれに呼応して、宗教団体などの指導者33名によって独立宣言が起草され、前月(1月)に死去した元国王高宗の葬儀にあわせてソウルの中心パゴダ公園で独立宣言を読み上げる。3月1日、パゴダ公園に集まった青年学生を中心とする5000名は、独立宣言を読み上げた後、市街に出て「大韓独立万歳」と叫びながらデモ行進を行う。隊列はたちまち数万の規模に膨れあがる。この三・一独立運動は朝鮮全土218の府郡のうち211カ所に広がり、示威運動の回数は1200回をこえ、参加者はのべ110万人になった。朝鮮総督府は朝鮮常駐の二個師団に日本本国からの援軍を加えて徹底的な武力弾圧を行う。水原郡堤岩里(チエアムリ)では村民全員を焼き殺す虐殺事件の現場がアメリカ人宣教師たちに目撃されている。三・一独立運動での朝鮮人の死者約7000人、負傷者約4万5000人、逮捕者約5万人に及ぶ。運動は鎮圧されたが、総督府はこれを契機に統治方針を従来の武断政治から文治政治に切り替える。具体的には憲兵警察を普通警察にかえ、日本人官吏教員の帯剣を廃止するなど、あからさまな武力支配を改め、出版・集会・結社の自由を一部許可するようになる。

 日本は、第一次大戦中の1915年、ヨーロッパ列強が中国から後退した間隙をついて、中国の袁世凱政府に二十一ヶ条の要求を突きつけた。その内容は、ドイツが租借していた山東省膠州湾などの権益の日本への譲渡、中国東北地方での権利拡大、中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くことなど、中国の主権を侵害するものだった。袁世凱政府が最終的にこれを受けいれると、民族的危機意識が中国民衆に広がる。袁世凱死後も、その後継者段棋瑞が利権と引き替えに日本から多額の援助を得るなど軍閥による政府の私物化は続く。一方で、1910年代後半から、新中国・新社会をめざす文化・思想運動が始まる。文学革命とも新文化運動とも呼ばれるこの運動の中心となったのは、陳独秀が発行した雑誌『新青年』。「民主主義と科学」を標榜し、封建制度や儒教思想、特に個人を縛り付ける伝統的家族制度を批判する論陣を張り、青年層に大きな影響を与える。胡適による白話文学運動(文語だった書き言葉を口語に変えることを提唱)も展開され、魯迅は口語文学の傑作『狂人日記』『阿Q正伝』などを発表する。また、李大釗はマルクス主義を初めて中国に紹介した。彼等を教授陣として迎えた北京大学は文学革命の拠点となっていった。

 少年時代に民間療法で病気の父を亡くした魯迅は、医者を志し1904年日本の仙台医学専門学校(現東北大医学部)に入学していた。日清戦争後、中国人に対する蔑視が広がりつつあったが、藤野厳九郎教授が魯迅を気にかけて指導してくれたことを、彼は後年、深い感謝の気持ちとともに書き記している(『藤野先生』)。その仙台時代のこと、幻灯機を使ったある講義で、時間が余ったのか教授が日露戦争の写真を映写、勝利の場面が映し出されるたびに学生たちは熱狂して万歳と叫んでいたが、ロシア軍のスパイとしてとらえられた中国人が日本軍に銃殺される場面が映し出され、学生たちはやはり万歳と叫ぶ。その時、魯迅にとってショックだったのは、彼らの態度よりも、映し出された写真の中で、多くの中国人が銃殺される中国人をのんびりと見物していることだった。その時、魯迅は、中国にとって必要なのは医学ではなく「彼らの精神を改造すること」だと決心する。1906年、医学校を退学した魯迅は文学の道を歩み始める。

 1919年、第一次大戦が終わり、パリ講和会議が始まると、中国代表は「民族自決」にもとづいて、日本の二十一カ条要求の破棄と、山東省の権益返還を要求する。中国政府の要求は拒否され、そのニュースが伝えられると、5月4日、憤激した北京の学生を中心に、二十一カ条と親日的軍閥政府への抗議デモとなり、政府の弾圧にも関わらず抗議運動は全国に広まる(五・四運動)。上海では学生・労働者のストライキと商店の休業が8日間続いた。ついに、北京の軍閥政府は親日官僚を罷免するとともにヴェルサイユ条約の批准を拒否する。大衆運動が政府を動かしたのは中国史上初めてのこと。中国革命のため中国国民党と中国共産党は合同して国民政府を樹立。革命軍司令の蒋介石は、北伐の途上で共産党を弾圧し、国民党の主導権を握って中国統一を達成。五・四運動における大衆運動の高揚を見た孫文は、秘密結社による革命運動を転換し、1919年10月、国民大衆に基盤をおいた中国国民党を結成し、革命派軍閥の協力を得て広州に広東政府を樹立。また、1921年にソ連・コミンテルンの指導のもと、陳独秀や李大釗により中国共産党が結成される。反帝国主義の立場から民族独立を支援するソ連は孫文にも接触し、1923年、孫文はソ連との協力にふみきり反帝国主義、反軍閥を掲げて、「連ソ・容共・扶助工農(ソヴィエト政府と連携し、共産党を受け入れ、労働者農民を助ける)」の三大政策を発表する。翌24年、国民党が改組され、共産党員がその資格のまま国民党に入党することによって両党は合同(第一次国共合作)。また、広州には黄埔軍官学校が設立され、革命軍幹部の養成が始まる。高い政治意識を持つ革命軍を持つことで、軍閥勢力の打倒をめざそうとした。校長に国民党の蒋介石、政治部主任には共産党の周恩来が就任する。

 蒋介石は、1907年に日本の陸軍士官学校に留学した際に孫文と知り合い、忠実な態度で孫文に接し、軍閥に煮え湯を飲まされ続けた孫文に信頼された数少ない軍人だった。1923年には孫文の名でモスクワに渡り軍事組織の研究を行っている。広州にはソ連から資金や武器が届けられ、コミンテルンの政治顧問も派遣されてきた。1925年、上海で労働者のデモ行進にイギリス警察が発砲し多数の死傷者を出す事件(五・三〇事件)が起きると、これに抗議して上海、北京、香港など全国でストライキが組織され反帝国主義運動が高まる。孫文はこの年の3月「革命いまだ成らず」の遺言を残し、癌で死去していたが、7月、国民党は運動の高揚を好機ととらえ、広州で国民政府の成立を宣言し、翌26年7月、蒋介石を国民革命軍総司令官として北伐を開始する。10万の北伐軍は、共産党に指導された農民運動や労働運動の支援を受け、各地の軍閥を破りながら北上し、12月に武漢に政府を移動し、翌年3月までに上海、南京を占領し中国南部を制圧する。蒋介石は、孫文には忠実だったが反共主義者だったため、北伐の過程で勢力を拡大する共産党に危機感を強め、同じく共産党を警戒する民族資本の浙江財閥や列強の支持を受け、27年4月上海で共産党に対する弾圧を行う。多数の共産党員や労働運動指導者を殺害(上海クーデタ)。蒋介石は、南京に国民政府を樹立し、共産党との連携を主張する国民党左派を排除し武漢国民政府を吸収、国民党の支配権を握る。国共合作は崩壊する(国共分裂)。

 1928年4月、蒋介石は25万の国民革命軍を率いて北伐を再開。しかし、共産党を排除し、その性格は変質し、蒋介石自身が最大の軍閥ともいうべき存在となり、諸軍閥を傘下に編成しながら北京に進撃。日本が満州事変で中国侵略を本格化した後も、中国国民政府は中国共産党討伐を優先し、抗日戦を回避していた。1936年の西安事件を経て、蒋介石はようやく抗日を決意する。日本では、1923年の関東大震災による震災恐慌、27年の金融恐慌と経済危機が続き、さらに訪れた世界恐慌は1930年の金輸出解禁による不況と重なり昭和恐慌と呼ばれる深刻な事態となる。財閥は恐慌を利用して多くの産業分野で支配権を強め、政党はこれらの財閥と結びつき国民の信頼を失っていった。一方で、中国侵略によって現状打破をめざす軍部が台頭し、1932年の五・一五事件、36年の二・二六事件など右翼や軍人によるテロやクーデタが続く中で、政党内閣は崩壊し、軍国主義化が加速していった。

 1931年9月18日、日本の関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)、これを中国軍の犯行と見せかけ、中国東北地方で中国軍と戦闘に入る(満州事変)。関東軍の一部軍人による独断で始められた戦争で、日本で立憲民政党若槻内閣は不拡大方針を表明するが、関東軍はこれを無視して軍事行動を続けたため内閣は総辞職する。代わった立憲政友会の犬養内閣は、関東軍が東北地方を占領してしまった事実を追認するしかなかった。1932年3月、日本は侵略行為を糊塗するため、東北地方を日本の領土とはせず、清朝最後の皇帝溥儀を執政(34年には皇帝)として満州国を建国するが、日本の傀儡国家であることは明白だった。その前の1月には、中国東北地方から世界の目をそらすため、排日運動が盛り上がる上海に日本軍が上陸し中国軍と交戦する上海事変が起きている(3月には停戦)。中国の要請によって、国際連盟から現地に派遣されたリットン調査団は、満州事変を日本の自衛行動とは認めず、満州国が日本の傀儡国家であるとしたため、1933年、日本はこれに抗議して国際連盟を脱退する。

 蒋介石率いる国民政府は日本の侵略に対して国際連盟を通ずる抗議は行ったものの、基本的には無抵抗政策をとる。このため、柳条湖事件勃発時、北京に滞在していた東北軍司令官の張学良は、東北軍11万を錦州に集結したが、日本軍が迫ると抗戦することなく錦州を退き、その後も反撃することはなかった。蒋介石は、国内を安定させてから外敵を退ける「安内攘外」策をとり、東北地方は切り捨てた。蒋介石が総力を挙げて戦っていた相手は中国共産党だった。中国共産党は、国共分裂で国民政府を追われて以降、農村で農地解放を進めながら根拠地建設を行い、1930年には15の根拠地と紅軍(中国共産党の革命軍)兵力6万を擁し、三百余県を支配するまでになっていた。1931年11月には毛沢東を主席として、江西省南部の瑞金を首都に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立する。満州事変前後の時期に、国民政府は40万を越える戦力を投入して共産党根拠地を攻撃しており、蒋介石は「われわれの敵は倭寇(日本)ではなく、匪賊(共産党)である」と公言していた。数次にわたる国民政府軍の攻撃を撃退した紅軍だが、1933年、蒋介石が自ら指揮して100万の兵力と飛行機200機を投入し、経済封鎖も交えた包囲戦をはじめると、根拠地を維持できず、1934年、10万の紅軍は瑞金を脱出した。以後、国民政府軍の攻撃を逃れながら1万2500キロの道のりを踏破(「長征」と呼ばれる)、3万の兵力に減少しながらも、1936年に陜西省延安に到着し、新たな根拠地建設を開始。長征途上の35年8月1日、中国共産党は八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成による救国抗日を訴える。コミンテルンの呼びかけた反ファシズム統一戦線にそったものだ。

 満州国建国後も日本による侵略はつづき、1935年には河北省東部に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府が成立。この「自治政府」は、沿岸でおこなわれていた日本の密貿易を低関税で公認し、またその支配地域を通過して満州国で生産されたアヘンが中国各地に流れたため、北京の学生は反日デモをおこない、救国抗日感情が高まっていった。蒋介石は抗日戦を求める中国国民の期待に応えることなく、36年、張学良を中共討伐戦司令に任命し延安の共産党討伐を命じた。しかし故郷を日本軍に奪われた張学良とその指揮下の東北軍は共産党の抗日救国の訴えに動かされ、対共産党戦に消極的だった。36年12月、蒋介石が督戦のため張学良の司令部のあった西安におもむくと、張学良は蒋介石を監禁し抗日戦を迫る(西安事件)。中国共産党の周恩来も延安から西安に入り蒋介石の説得をおこない(二人は黄埔軍官学校の同僚)、抗日戦に同意した蒋介石は、監禁を解かれ南京に戻る。この後、中国共産党に対する攻撃は中止され、翌37年、日本の中国侵略が本格化すると、ついに第二次国共合作が成立し国民政府=中国国民党と中国共産党はともに日本と戦うことになる。

 西安事件後、蒋介石に従って南京に戻った張学良は罪に問われ軟禁された。1949年に国民政府が台湾に移った後も、台湾で軟禁は続き、解放されたのは1991年。2001年ハワイで101歳の大往生を遂げた。晩年の張学良は、関係者がすべて死去していたにもかかわらず、西安事件で周恩来が蒋介石を説得した具体的な内容については、決して話そうとしなかった。廬溝橋事件をきっかけに、日本は中国侵略を本格化し日中戦争がはじまる。中国では第二次国共合作が成立し、国民政府は重慶へ移って抗戦をつづけ、戦争は泥沼化する。

 1937年7月7日、北京郊外の廬溝橋で日本の支那駐屯軍と中国軍との間で戦闘が始まる(廬溝橋事件)。演習中の日本軍に対して中国軍が発砲したことがきっかけとされているが、日中双方の言い分は食い違う。11日には、現地の日本軍と中国軍の間で、停戦協定が結ばれたにもかかわらず、近衛内閣は三個師団の派兵を決定し、これを機会に中国への武力侵略を本格化する姿勢を示した。7月末には華北で日本軍の総攻撃が開始され、北京、天津など主要都市を占領、8月には上海に2個師団が派遣されて華中でも戦闘が始まる。当時の日本では「支那事変」と呼び、戦争という言葉を使わず、中国に対して宣戦布告を行っていない。中国を対等の交戦国と考えず見下していたのと、戦争と認めることで、交戦国への輸出制限を定めていた合衆国から戦略物資の輸入が途絶えるのを恐れたためだ。それまで日本の侵略に対して妥協的態度をとっていた蒋介石だが、日本軍の総攻撃がはじまった37年7月に徹底抗戦を表明し、9月にはついに第二次国共合作が成立。中国共産党の紅軍は国民政府の第八路軍と新編四軍として編成され、国民政府軍として日本軍と戦うことになった。日本軍は11月に上海を占領し、ついで国民政府の首都南京に進撃。12月中旬に南京を占領したが、その際、捕虜、投降兵、一般市民を虐殺し国際的非難を浴びる(南京大虐殺)。犠牲者の数は4万人から30万人までの諸説あるが、日本軍が国際法を無視して非戦闘員を大量虐殺した事実は否定できない。近衛内閣は、南京の占領で国民政府を屈服させられると考えていたが、国民政府が首都を四川省の重慶に移し抗日戦を継続したため、戦争終結への方向性を見失い、38年1月に「国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を発表し、講和への道を自ら断ってしまった。

 日本軍はその後華北と華南の占領地をつなぎ、また重慶への補給路を断つために38年10月に広州や武漢を占領したが、重慶の国民政府は中央アジアやビルマ経由で米・英・ソ連の物資援助を受け、抗日戦の指導を続けた。華北を中心に広大な地域を占領した日本軍だが、確実に確保していたのは主要都市と鉄道だけで、農村地域では中国共産党の抗日根拠地が建設されて、八路軍の遊撃戦に日本軍は悩まされた。蒋介石と並ぶ国民党の指導者汪兆銘(おうちょうめい)が、1938年12月、日本の呼びかけに答えて重慶を脱出。汪は、一時は孫文の後継者と目された政治家で、軍隊を掌握した蒋介石に国民党の主導権を奪われたが、国民には大きな影響力を持っていた。日本は汪兆銘に親日的な国民政府を組織させて、その政府と和平交渉を行おうとした。しかし、重慶を出た汪兆銘は国民から見放され、40年、汪を主席として南京国民政府が樹立されたが、国民に対する影響力はなく、日本の目論見は失敗した。日中戦争の行き詰まりを、さらなる戦線拡大によって打開しようとする軍部内部には、ソ連との戦いを主張する北進論と、インドシナ方面への進出を主張する南進論があった。1938年7月、朝鮮・満州・ソ連の国境で起きた張鼓峰事件と1939年5月、モンゴル・満州国境で起きたノモンハン事件は、北進論の立場から行われたソ連軍との軍事衝突。ともに日本軍が敗北したが、特に、ノモンハン事件では戦車と航空機によるソ連の機械化部隊に日本軍は死者1万人を超す壊滅的打撃を受けた。また、ノモンハンで戦闘が続くさなかの39年8月に、独ソ不可侵条約が締結されたことは日本に大きな衝撃を与える。日本の対ソ軍事行動は、日独伊防共協定を結んでいるドイツがヨーロッパ方面でソ連を牽制することを前提にしていたからだ。9月にドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦がはじまった後、ようやく日ソ間でノモンハン事件の休戦協定が結ばれた。この後、第二次大戦のヨーロッパ戦線の推移と連動して、日本は南進策をとるようになる。

 第二次大戦後、1950年、朝鮮統一をめざす北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南進し、朝鮮戦争が始まる。国連安保理事会が北朝鮮の侵略と認定(ソ連は欠席)し、アメリカ軍を主力とする国連軍が韓国軍を支援すると、中国義勇軍が北朝鮮側に立ち参戦、51年には戦線は38度線付近で膠着し、53年、休戦協定が成立し両国の分断が固定化する。朝鮮戦争勃発後の1951年、日本はサンフランシスコ平和条約で西側陣営諸国と講和を結んで独立を回復し、同時に結んだ日米安全保障条約で、日本国内の米軍基地建設を認める。また、憲法が戦力保持を禁じているにもかかわらず、多くの国民の疑念を押しきり自衛隊を発足させた。これらは、日本を反共の防波堤にしようとする米軍の意図に沿ったものであった。1949年、中国には国共内戦を経て中華人民共和国が成立。インド、インドネシアなど植民地諸国は独立を達成し、米ソ両陣営に属さない第三勢力として結集。連合国の一員として日本と戦った中国は、大戦中に不平等条約を撤廃し、戦後は戦勝国の一員として国連安保理の常任理事国となり、国際的地位を高めた。だが、日本の敗北によって共通の敵がなくなると中国国民党と中国共産党は対立を深め、1946年6月、合衆国からの莫大な援助で準備を整えた蒋介石の国民政府は、共産党の根拠地に攻撃を開始し内戦がはじまった(国共内戦)。抗日戦での活躍をつうじて民衆の信頼を獲得していた共産党は、内戦の過程で、地主の土地を貧農に分配する土地改革を進めながら解放区とばれる支配地域を広げていった。

 一方の国民政府は、役人の腐敗堕落が激しく、経済悪化も手伝って国民から徐々に見放される。当初は、兵力も装備も共産党の人民解放軍にまさっていたものの、47年には人民解放軍が優勢となり、49年には蒋介石は台湾に脱出、国民政府も台湾に移る。中国本土を掌握した中国共産党は、49年10月、北京で中華人民共和国の成立を宣言、主席に毛沢東(任1949~59)、首相に周恩来(任1949~76)が就任。50年の土地改革法で農民への土地分配を全土にひろげ、財閥企業の国有化をおこない社会主義建設政策を進めた。中華人民共和国は、1950年には、ソ連と中ソ友好同盟相互援助条約を結び、社会主義陣営に加わるが、内戦を通じて独力で社会主義国家を樹立した中国共産党は、東欧諸国とは異なりソ連に対して独自の立場をとる。

 蒋介石を支援するアメリカ合衆国は、中華人民共和国を承認しなかったため、国連では台湾を支配するだけの国民政府(中華民国)が中国代表として議席を保持しつづけ、中国大陸を支配する北京政府は国連への加盟すら認められない。朝鮮戦争で米軍を主体とする国連軍が中朝国境近くに迫ると、北京政府はこれを米軍による侵略の危機ととらえ、100万近い義勇軍を北朝鮮に派遣した。中国がソ連に頼らない社会主義建設をめざし、58年にはじめた「大躍進」政策は1000万人以上の餓死者を出して失敗し、59年、毛沢東にかわって劉少奇(1898~1969)が国家主席となる。劉少奇は、社会主義経済建設のテンポをゆるめ、生産請負制を認めるなどの「経済調整」政策をとる。これに反発した毛沢東は、66年、文化大革命を発動。紅衛兵として組織された学生たちは、「造反有理(反抗するにはわけがある)」と叫んで既成制度を批判し、党幹部や知識人を攻撃。この文化闘争の形をかりた権力闘争で、劉少奇は失脚し、毛沢東と文革派が権力を掌握する。その後も文革派は大衆を運動に動員して権力闘争を続け、社会は大混乱する。文革期の武力闘争で数百万に及ぶ犠牲者が生まれたとされている。現在中国では70年代前半まで続いた文革期を内乱の10年と位置づけている。

 1991年に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が国連に同時加盟し、92年には中国と韓国が国交を樹立。78年以降内戦が続いていたカンボジアでは、1992年に国連カンボジア暫定統治機構が設立され、翌年の総選挙を経て新政府が成立し内戦が終結した。東欧圏とは違い、アジアの社会主義国は一党独裁を守ったため崩壊しなかった。市場経済を導入した中国は90年代から急速な経済発展をつづけ、国際社会のなかで存在感を増している。ヴェトナムも、86年にはドイモイ(刷新)政策として開放経済を採用した。朝鮮民主主義人民共和国は、個人崇拝にもとづく独裁体制を維持するために、極端な情報統制をつづけた結果、開放経済に取り組むことが出来ず、経済の悪化と政治的な孤立を招いている。

1 コメント

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日本も悪いことをやったんだね。 (H.D)
2016-06-26 06:20:45
1931年9月18日、日本の関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)、これを中国軍の犯行と見せかけ、中国東北地方で中国軍と戦闘に入る(満州事変)。関東軍の一部軍人による独断で始められた戦争で、日本で立憲民政党若槻内閣は不拡大方針を表明するが、関東軍はこれを無視して軍事行動を続けたため内閣は総辞職する。代わった立憲政友会の犬養内閣は、関東軍が東北地方を占領してしまった事実を追認するしかなかった。1932年3月、日本は侵略行為を糊塗するため、東北地方を日本の領土とはせず、清朝最後の皇帝溥儀を執政(34年には皇帝)として満州国を建国するが、日本の傀儡国家であることは明白だった。
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