murota 雑記ブログ

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芭蕉の世界に迫る。

2019年09月07日 | 通常メモ
 笈の小文(おいのこぶみ)の旅をそのまま更科紀行にのばした芭蕉が、岐阜・鳴海・熱田をへて8月に更科の月見をした後に、江戸の芭蕉庵に戻ってきて、後の月見を開いたのは9月のこと。それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。あらかじめ芭蕉庵を平右衛門なる人物に譲っており、「菰かぶるべき心がけにて御座候」と言って、乞食(こつじき)行脚を心に期していたふしもある。この紀行はまさに乞食行ともいえる。

 増賀(ぞうが)は「かくて名聞こそ苦しかりけれ。乞食の身こそ頼もしけれ」と言い放ったと『発心集』が伝える聖僧、それ以前は、師の慈慧が僧正になったときに鮭の太刀を侃き雌牛に乗って前駆してみせ、その異風異様に喝采が送られた人物だ。しかし、増賀はこうした喝采を嫌って、乞食修行の旅に出ている。その増賀について、芭蕉は故郷伊賀上野の俳友に、「一鉢の境涯、乞食の身こそ尊けれど、謡に侘びし貴僧の跡もなつかしく云々」という手紙を送っている。それが奥の細道に旅立つ2カ月ほど前のこと。増賀(ぞうが)は平安中期の僧で、名聞を厭い多武峯(奈良県桜井市)に隠棲したことで知られており、後世,遁世者や往生者の理想とされ,さまざまな奇行が非世俗的行為として称賛された人物、そのように松岡正剛氏が述べている。更にその内容をたどってみたい。

 増賀は伊勢神宮に詣でたときに、「道心をおこさんと思はば、この身を身とな思ひそ」という託宣を聞いた。そこで「名利を捨てよとこそ」と、着ていた小袖や僧衣をその場にいた者に与え、赤裸のままに下向した。この故事を知った芭蕉は、そこで、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだ。こうなると、芭蕉は風狂をこそ覚悟したというべきか。実際に、2月末の記録には旅立ちの用意として「短冊百枚、筆箱、雨用茣蓙、柱杖」などと書いた後、「これ二色、乞食の支度」と記していた。かくして元禄2年(1689)、「弥生も末の七日」の3月27日に、芭蕉は曽良をともなって奥州に旅立っている。

 芭蕉の旅は乞食の旅ではなかった。乞食行を覚悟しての旅、実は半分はそうだが、托鉢乞食行とはいい難い。曾良の『随行日記』を読めば、芭蕉が地方の富商・上級藩士・名望家ばかりをたずねていたことは歴然としている。このことをもって芭蕉に乞食行の覚悟がなかったかといえば、そうではない。むしろ芭蕉はずうっと遊行乞食の意識と観念を磨ききったはず。芭蕉はコネの活用にはいたって強く、人脈をつくるのにもたけていた。研究者たちのなかには、この芭蕉の“偽装”とでもいうものを問題にしていることが少なくないが、紀貫之が土佐日記で、漢文であるべき日記を仮名日記という前代未聞のフォーマットに託し、男が書くべきところを女に仮託して男が書いたという二重の偽装をしたことが日本語計画の発端をひらいているのと相通ずるものがある。芭蕉にあっても、『おくのほそ道』とは、誰もまだ見たことのない俳諧紀行文の出奔の企てだった。それゆえ、『おくのほそ道』がそれを綴りきった芭蕉とそれを読んだ者たちにとって、このような俳諧遊行というものがあるのだと感じるようになっていればよかったのだ。

 芭蕉編集術の真骨頂は、おそらく、「涼しさや海に入れたる最上川」が、「暑き日を海に入れたり最上川」となった例。なにしろ「涼しさ」が、一転して反対のイメージをもつ「夏の日」になった。そして、そのほうが音が立ち、しかも涼しくなった。享保に出た支考の『俳諧十論』に、芭蕉の「耳もて俳諧を聞くべからず」という戒めをめぐった文章がある。連句の付合(つけあい)の心得をのべているくだりだが、この言葉は「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」にも、あてはまる。蝉の声は耳で聞いているのだが、それを捨てていく。そうすると、「目をもて俳諧を見るべし」というところへふいに出ていける。これは「涼しさ」が涼しい音をもっているにもかかわらず、あえて「夏の日」という目による暑さが加わって、それが最上川にどっと涼しく落ちていくことにあらわれた。奥の細道の旅は、大垣から船に乗って伊勢遷宮を拝みに向かったところで終わっているが、芭蕉はそのまま旅を続けていた。体も心もそうだった。紀行文としては、大垣が終点だった。また紀行文としては、前半が能因・西行の歌枕を辿っている意図があらわれていて、それが一応は松島と象潟で願いを達したあとは、日本海側に出て、その風土のせいか、芭蕉独自の感想に深まっている。那谷寺に行きましょうかと誘ったのは曾良で、その誘いに従って詠んだのが「石より白し秋の風」。これは「物によりて思ふ心をあかす」という芭蕉の、まことに達意に富んだ名人芸だった。

 芭蕉は伊勢からそのまま奈良・京都にまわり、伊賀上野に帰ったところで、長きにわたった旅に終止符を打った。それが元禄3年(1690)の正月。47歳になっている。 『おくのほそ道』の最終編集にかかっていくのはここである。このとき、伊勢参拝予告をもってこの作品を切断しようと決めた。そう決めて、芭蕉は大津の幻住庵に入っていった。この年は大津で越年をした。このころから芭蕉の体には一挙に衰えが忍びよっていた。芭蕉はいよいよラストゾーンに入っていった。その時期が京都落柿舎に入っている時期になる(嵯峨日記)。そして、そこから去来の家に移り、最後の編集にかかったのが『猿蓑』になる。芭蕉の捌きの名人芸は実は歌仙のほうにこそ、より絶妙な、より痛快な、「ほそみ」も「かろみ」を見せている。芭蕉は「さび」とは句の色であって、ただ閑寂だからいいというものじゃないと言った。「しをりは憐れなる句にあらず。細みは頼りなき句にあらず。しをりは句の姿にあり、細みは句意にあり」と。

 『三冊子』に出てくる芭蕉の「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉。芭蕉は「習へ」とは、物に入ることだと言った。習いながら私から出ることだと言った。それが松には松を、竹には竹をということ。『三冊子』には「私意をはなれよといふ事なり」というふうにある。しかし、芭蕉はそのあとにもっとドキッとすることを言っている。それは、「習へといふは、物に入りて、その微に顕れて情感ずるや、句と成るところなり」と。「微」にあらわれるところに「情」を感じて、そのまま「句」になっていけと言った。なんと蜻蛉の翅のように透明な微妙であろう。畢竟、芭蕉五十年の生涯とは、「微」に入って「微」に出る一句のことだった。

( 参照メモ )  芭蕉が成し遂げたこととは。

 『おくのほそ道』を通して芭蕉の推敲編集をたどりつつ、蕉門の俳風が到達しきった元禄4年(1691)7月の『猿蓑』までを読むと、『猿蓑』は蕉門の総力を結集した乾坤一擲の作品集ともいうべきものであり、芭蕉は一句一句の入集についての選択はむろん、句中の一語一語にまで気を配っている。許六は「猿蓑は俳諧の古今集なり」とさえ言った。芭蕉は天才ではなく名人なのか。其角のほうが天才ともいわれる。芭蕉は才気の人ではなく編集文化の超名人だ。其角はそういう名人には一度もなりえなかった。芭蕉はつねに句を動かしていた。一語千転させていた。それも何日にも何カ月にもおよぶことがあった。そういう芭蕉の推敲の妙には驚くばかりだ。

 芭蕉が成し遂げたことは、貫之、定家、世阿弥、宗祇、契沖に続く、日本語計画の大きな切り出しだった。発句の自立といった様式的なことも、いわゆる「さび」「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見も含まれる。あの時代の裂け目を象(かたど)る江戸の俳諧群という団子レースから、芭蕉は脱落し、さっと抜け出ている。貫之が六歌仙から抜け出し、世阿弥が大和四座から抜け出したのにも似ている。なぜ芭蕉にそれができたのか。芭蕉翁という「翁」の呼び名がふさわしいにもかかわらず、意外にも芭蕉は51歳の短い生涯だった。しかも本格的に俳諧にとりくんだのはやっと30歳をこえてからのこと、宗匠として立机(りっき)したときは、もう34歳になっていた。芭蕉は計画したことをほぼ成し遂げた。そして日本語に革命をもたらしている。

 芭蕉は寛永21年に伊賀上野に生まれる。藤堂藩の無足人(土着郷士)の次男だった。最初は貞門の北村季吟に惹かれ、29歳で江戸に出た。ここで貞門から談林を覗き、模索を始めた。これが前提で、この前提までに俳諧前史というものがどのように芭蕉に見えていたかが、芭蕉を語るときの出発点になる。京都に発した貞門は、連歌に習熟した松永貞徳によっておこされた。俳言(はいごん)を打ち出す。それは漢語や俗語や俚諺をつかうことを指す。俳言は連歌にはなかった言葉をつかうから俳言なのだ。ここから俳諧が和歌や連歌から少しずつ自立の準備を始めた。貞門はその俳言を交ぜながら和歌の縁語や掛詞を駆使した。

 「山の腰にはく夕だちや雲の帯」(貞徳)。夕立と太刀が掛詞になり、「はく」(佩く・穿く)「腰」「帯」が縁語になって、まだ和歌の風情を残している。この貞門俳諧の流行が寛永文化に重なっていた。そのなかで『犬子集』を刊行した。これは松江重頼の編集によるもので、俳諧史の最初の活気にあたる。貞徳がこうした俗っぽい俳諧を奨励したのには、それなりの算段があった。そのころの武士や町人の識字率が低かった。貞徳自身は高尚なボキャブラリーをもちながらも、それをひけらかすことをあえて避け、武士や町人がひとまず俳諧(連俳)をものすることができるようにハードルを下げた。そのことによって多くの者がどうにか言葉を操れるようになったなら、伊勢や源氏や八代集を読むように勧めた。天満天神社連歌所の宗匠である大坂の西山宗因がこれに反発する。

 宗因の挙動は、京都に対するに大坂の反発を根にもっていた。竹本義太夫が大坂に出て、近松が京都から大坂に移った前史には、この宗因の先行的登場があった。宗因にはもうひとつ、生活や身の回りの俳諧を詠みたいという主張があった。これが談林で、ここからが寛文文化だ。「白露や無分別なるおきどころ」(宗因)。ここに西鶴が顔を出す。西鶴はもとは鶴永と号していたのだが、宗因門下に入って西山の西をもらって西鶴と改めたことでわかるように、談林を先導する役割をはたす。自分は一人でも荒木田守武(ここが連俳の原点である)に戻って「面白み」に徹するという気概をもっていた。「何とて世の風俗を放れたる俳諧を好まざるや、世こぞって濁れり、我ひとり清めり」という自負もあった。
「大晦日定めなき世のさだめかな」(西鶴)。京・大坂のこうした反目は江戸の社会文化を議論するのに、つねに起爆点になっている。この反目が低迷しているうちに江戸がおいしいところを攫って(浮世絵や江戸歌舞伎)、そこにまったく新しい文化様式を経済文化として確立していったというのが、徳川社会文化の前半の大きな流れだった。京の貞門、大坂の談林はこうして互いに詰(なじ)りあううちに、しだいに新鮮な勢いを衰退させていく。これで、飽きられた。連歌も俳諧もむろん面白くて連打されるものではあるが、そこにスタイルやテイストが発芽しているうちはいい、そこに文言を当て嵌めていじっているのが続きすぎると、「あき」がくる。

 貞門・談林の風波が重なるなか、ここに19歳の芭蕉が藤堂藩の侍大将である藤堂新七郎の台所御用人として出仕し、その嫡子良忠の御伽衆になった。良忠は北村季吟の門下に入って俳諧を習っていた。芭蕉も主人に倣ってついつい俳諧を遊びはじめた。21歳のときの俳号「宗房」時代の句が残っているがヘタクソだった。「姥桜咲くや老後の思ひ出で」(宗房)。このまま良忠とともに遊んでいたら、芭蕉はとうてい芭蕉にならなかった。芭蕉23歳のとき、良忠が25歳で急没。これで芭蕉は藩内での出世を諦める。早々に辞職する。そして京に出て、季吟に古典・漢詩文・俳諧を習いだす。
当時、俳諧師という職能は、黒衣円頂の装いにあらわれているように、士農工商の枠の外の者だ。生活の資はすべて門人の点料か旦那衆の眷顧に頼らなくてはならない。へたをすれば連衆の御機嫌を伺う“おもらい坊主”と蔑まれたほど。この時期の芭蕉が迷っていたとしても無理はない。それに芭蕉自身が、のちに「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」と言っている。そうしたおりに、さきほどの貞門と談林の渋滞が目立ってきた。そこで伊藤信徳・山口素堂・池西言水・上島鬼貫らが俳諧刷新の動きを見せはじめた。この機運に芭蕉も乗った。

 この連中には、ある共通の特徴があった。ことごとく江戸に下った。とくに京都の信徳が延宝5年(1677)に下向したのが大きい。光琳もそうだが、この時期前後、上方や京の文化が行き詰まっているときにさっさと江戸に出た者が時代を変えている。江戸に来るということは、そこから自在に意識の頭(こうべ)を動かせるということだった。芭蕉も京を捨てて江戸に行く。発句合せ『貝おほひ』を自選自費でつくり、名刺代わりにした。藤堂藩か季吟のルートを頼ったが、江戸では日本橋の魚問屋の鯉屋杉風のもとに草鞋を脱いだ。この杉風は芭蕉の最初の弟子となり、その後も最後の最後まで芭蕉の面倒をみたパトロンにもなる。のちにいたるまで、芭蕉にはこういうコネがうまくはたらいた。真っ先に江戸下向した信徳は、延宝6年(1678)に素堂・芭蕉を巻きこんで百韻連句『江戸三吟』を世に問うた。そのころから芭蕉は桃青を俳号とした。35歳になっていた。

  富士に傍(そ)うて三月七日八日かな(信徳)  目には青葉山ほととぎすはつ松魚(素堂)   貧山の釜霜に啼く声寒し(桃青) 
桃青のものはとうてい褒められた句ではない。ただ、『貝おほひ』がほとんど戯れ句が多かったのにくらべると、ここには気迫がある。気のスピードのようなものがある。また、「貧」「霜」「啼く」「寒し」といった、のちに芭蕉の好んだ語彙が顔を出していて、ハッとさせるものがある。こういうところは、すでに桃青は芭蕉の萌芽を見せていた。桃青という俳号は母方の伊予宇和島の桃地姓から採ったようで、この桃地が忍びの者を統括した百地一族との血縁もあるらしいところから、芭蕉忍者説が躍り出たことがあった。芭蕉が禅林に入っていたのではないかという説もある。日本文化というものは、「和」をどのように創発させていったかということが眼目になるが、それはときどき「漢」との熾烈な交差を含んでいないと、ものにならない。芭蕉にはそこが見えていた。

 延宝8年、芭蕉は江戸市中を離れて隅田川対岸の新開地・深川に移り住んだ。泊船堂だ。これが最初の芭蕉庵になった。杉風が世話をした。このときから、芭蕉に画期的な転機が連打された。それは俳諧全史を眺めわたしても、まさに乾坤一擲の転機だった。 この転機は、結論からいえば、芭蕉が西行を学んだことで発揮した。漢詩文の調子に西行の『山家集』を交ぜた。「侘び」に気が付いたのだ。そのことについては門弟の其角は『虚栗』(みなしぐり)に、「侘と風雅のその生にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕(むしく)い栗なり」と書いた。許六は『韻塞』(いんふさがり)に、「旅は風雅の花、風雅は過客の魂、西行・宗祇の見残しはみな俳諧の情(こころ)なり」と書いた。ここに芭蕉の俳諧は「滑稽」から「風雅」のほうに転出していく。「俳諧といへども風雅の一筋なれば、姿かたちいやしく作りなすべからず」(去来)なのだ。「いやしく」しない。つまり、卑俗を離れたいと、芭蕉は決断した。

 後に芭蕉は服部土芳に言った。「乾坤の変は風雅の種なり」(三冊子)と。そして『笈の小文』に書いた。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するもの一なり」と。同じ延宝8年のこと、西鶴は大坂生玉神社で昼夜独吟四千句を興行してみせた。上方の西鶴と江戸の芭蕉とは対照的だった。こうして貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出る。「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因・西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。

 この「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句だ。これも、いよいよ「和」の位をとった。『野ざらし紀行』(甲子吟行)では「貞享甲子秋八月、江上の破屋を立ちいづるほど、風の声そぞろ寒げ也」と綴って、この句を添えている。どこか思いつめたものがある。「野ざらし」とは骸骨、骸(むくろ)だ。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。のちに加藤楸邨が「かなしび」をめがけたことがあったが、そういう感覚に近い。この句はよほどの自信作であった。「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」というふうに句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。そこに「野ざらし」というマイナスのオブジェがはたらいた。マイナスがはたらいたということは、定家や西行の方法を俳諧にできそうになってきたということだ。この句において、芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたにちがいない。けっして奢ることのない人ではあったが、おそらくこの「負の自信」ともいうべきは、芭蕉をいよいよ駆動させた。野ざらし紀行は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。ここで芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり  秋風や薮も畠も不破の関   明ぼのやしら魚しろきこと一寸   春なれや名もなき山の薄霞  水とりや氷の僧の沓(くつ)の音   山路来てなにやらゆかしすみれ草   辛崎の松は花より朧にて   海くれて鴨のこゑほのかに白し

 これらの句には、突然に芭蕉が凛然と屹立している。とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作。そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出た。「野ざらしを」の句のリーディング・フレーズはみごとに役割をはたした。これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句だった。芭蕉はこの旅で推敲編集の佳境に一気に入ってゆく。たとえば「道のべの木槿は馬にくはれけり」は、最初は「道野辺の木槿は馬の喰ひけり」や「道野辺の木槿は馬に喰れたり」だった。また「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」は「雪薄し白魚しろき事一寸」だった。「雪薄し白魚しろき」では、重畳になる。つまらない。そこで、白魚から薄雪を去らせて、白さを冴えさせる。芭蕉は推敲のなかで、こうした編集技法を次々に発見してゆく。
劇的な例がある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。これを初案・後案・成案の順に見る。(初)何とはなしに なにやら床し すみれ草  (後)何となく 何やら床し すみれ草   (成)山路来てなにやらゆかしすみれ草   初案と後案の句はどうしようもないほどの体たらく。「何とはなしになにやら床し」では、俳諧にさえなってはいない。俳句を齧った者なら、ごく初歩のころに作る句。ともかくは書き留めておいた。のちに訂正を入れた。それが「山路来て」という上五の導入。これで「なにやらゆかし」が山路にふわっと溶けた。芭蕉の歩く姿がふわっと浮上した。そして、そのぶん、路傍の一点の菫色(きんしょく)があっというまに深まった。なぜ芭蕉は9カ月ものあいだを旅の途上においたのか。やっと江戸に出てきて、漢詩を離れたばかり。いくら西行の風雅に気がついたとはいえ9カ月は長い。この時間の採り方がつねに芭蕉をつくっている。このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、奥の細道が半年を超えた。芭蕉はそのたびに充実してゆく。何かが熟するには「時熟」というものが必要だった。

 『去来抄』に「この句、いま聞く人あるまじ。一両年を待つべし」というくだりがある。去来が先師の評言として引いたものだ。一句の時熟に一両岸を待ちなさいというアドバイスだった。土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「思ふに余念なき俳諧の事なるべし」がある。余念をつかいきらないで、どうして俳諧などつくれるのかという叱正。いずれも時熟を示している。その「時の幅」を芭蕉はよくよく見据えていた。
  『野ざらし紀行』執筆の1年後、芭蕉はあの「古池や蛙飛こむ水の音」を詠んだ。貞享3年、芭蕉43歳の春だ。この句については、当初から議論を呼んでいた。すでに各務支考が『葛の松原』に、この句ができたときの事情を記していて、その日は芭蕉庵で翁が一日焉として憂いていた。そして、「風雅の世に行はれたる、たとへば片雲の風に臨めるごとし。一回は隹狗となり、一回は白衣となつて、共にとどまれる處をしらず、かならず中間の一理あるべし」と言って、「春を武江のきたにとざし給へば、雨静にして鳩の声ふかく、風やはらかにして花の落る事おそし」というところへ、ポチャンと蛙が水に入った音がしたという。まるで一休のカラスのカーである。蛙のポチャンがまさに“中間の一理”になっている。すかさず、「古池や蛙飛こむ水の音」という一句ができたかというとそうではなかった。

 最初はできの悪い句から始まっていた。人口に膾炙した「古池や」の一句にして、以下のように変わっていった。同じ貞享3年の数句も比較する。やはり初案・後案・成案の順で。以下の句、いずれも芭蕉は初案で幼稚を惧れず、「発句は屏風の下絵と思ふべし」のつもりで、すばやくドローイングしていることが見えてくる。 (初)古池や 蛙飛ンだる 水の音   (後)山吹や 蛙飛込む 水の音   (成)古池や蛙飛こむ水のをと   (初)西東 あはれさおなじ 秋の風    (後)西東 あはれもおなじ 秋のかぜ   (成)東にしあはれさひとつ秋の風    (初)名月や 池をめぐつて 夜もすがら   (成)名月や池をめぐりて夜もすがら    古池にするか、山吹にするか。芭蕉は迷いを隠さない。「西東」がいいか、「東にし」がいいか。芭蕉はいろいろ置き換える。乗り換えて、着替えて、持ち変える。そのうえで「あはれさ・おなじ」は「あはれさ・ひとつ」になっている。これが43歳のときの編集力。『葛の松原』によると、「古池」の句の上五を「山吹や」としてはどうかと言ったのは、そこに居合わせた其角だった。才気煥発の其角は、きっと古今集の「蛙なく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」あたりを思い出したのか。その「山吹や」によって、芭蕉の「飛ンだる」は、まず「飛びこむ」になった。しかし芭蕉は、それを含んでまた、上五を「古池や」に戻している。推敲とは「推すか」「敲くか」ということだが、芭蕉は、この「押して組まねば、引いて含んでみよ」を頻繁に試みている。

 芭蕉はこのような推敲をしつづけることによって、何に近づきたかったのか。発句を自立させ、俳諧を一句の俳句として高みに達するようにすることとは何だったのか。それを感じること、また、それを感じさせることが、まさに芭蕉が追求したことだった。これは高悟帰俗というもの。「高く悟りて俗に帰るべし」。このことはまた、まさに芭蕉を読む日本人が総じて感得すべきこと。「わび」「さび」というか、「ほそみ」「かろみ」というかどうかは、まだ芭蕉も自覚していない。貞享の句は芭蕉の前期と後期を分けた。その貞享5年は元禄元年にあたっている。その時、芭蕉は45歳になっていた。

1 コメント

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すごいね。 (T.K)
2019-09-07 08:59:40
「高く悟りて俗に帰るべし」。まさに芭蕉を読む人が総じて感得すべきこと。「わび」「さび」、そして、「ほそみ」「かろみ」というかどうかは芭蕉も自覚していない。貞享の句は芭蕉の前期と後期を分けている。その貞享5年は元禄元年にあたっている。その時、芭蕉はまだ45歳だった。すごいね。
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