10月8日(金曜日)何年か振りで一夜城に行ってみました。
石垣山一夜城
石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を
水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、
山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、
それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。
しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、
長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、
今日まで当時の面影が大変よく残されています。
広々とした二の丸跡
石垣山山頂から小田原市街を望む
小田原城を見下ろす
南曲輪跡
前日に小型ヘリが秦野市の畔に墜落
搭乗していた操縦士一人が死亡した。
事故があった1時間後に付近を通過
石垣山一夜城
石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を
水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、
山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、
それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。
しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、
長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、
今日まで当時の面影が大変よく残されています。
広々とした二の丸跡
石垣山山頂から小田原市街を望む
小田原城を見下ろす
南曲輪跡
前日に小型ヘリが秦野市の畔に墜落
搭乗していた操縦士一人が死亡した。
事故があった1時間後に付近を通過