Invitation to W★ING

<東日本大震災>で被災された皆さまに心からお見舞い申し上げるとともに一日も早い復興をお祈り申し上げます。

チャレンジに年齢は関係ない!

2011-05-26 19:30:27 | 日記
†テレビ東京系『カンブリア宮殿』という番組を見た。毎回,一人の人物にスポットを当てるのだが……今回はアフリカ・ケニアでビジネス展開している佐藤芳之さん。

今年71歳になるという佐藤さん,東京外国語大学を出た後,日本から12,000キロも離れたアフリカのケニアへと渡った。もう,今から50年近く前の事になる。

その佐藤さん,裸一貫から事業を興して"大成功"を収めた。『ケニア・ナッツ・カンパニー』で社長を勤めたが,そこには日本で事業を始めるのとはかなり違った苦労や困惑があったみたいだ。『ネスレ』や『GODIVA』といった会社を取引先に,マカダミア・ナッツを軸に,紅茶やコーヒー,ワイン等を作り,年商30億円になるという。

ナッツを作る農家等の『ケニア・ナッツ・カンパニー』が生み出した雇用は10万人,その収入で支えられている家族は100万人に及ぶ。実にケニアの人口の40人に1人が恩恵に与っている計算になるのだという。何とも凄い話だが,数年前に佐藤さんは殆どタダ同然で会社を譲渡したんだとか……。これにはまたまた驚いてしまった。

今度はアフリカ中央部に位置する”ルワンダ”で新なる事業にチャレンジ……。これは佐藤さんの一貫した人生哲学かも知れないが,私にとって大いに参考になった。

偶然,チャンネルを変えたらやっていた番組だったが,ついつい引き込まれていった。司会の”作家”村上 龍に答える佐藤さんの一言一言に納得し,感心しまくり!

「ケニアの自立は達成出来た。でも自分が本当にやりたいのは貧困であえいでいる人達を救う事」と,ルワンダで始めたのはバクテリアを利用しての"公衆衛生事業"だった。不衛生なトイレにいる蝿から発生するコレラや赤痢……これらが更に貧困に輪をかける結果を招いている。トイレが綺麗になれば病気も減り,労働意欲が増すと考えた。

これを何とかしたいと佐藤さんは京都府立大学(大学院)の石井農学博士の協力を得た上,ルワンダ政府をも巻き込んで,アフリカの安い原材料を使った”消臭浄化剤”を作る事に成功した。

その”消臭浄化剤”を手に,佐藤さんは”故郷”宮城・南三陸町にやってきた。全壊した実家を目の当たりにし<東日本大震災>で崩壊した故郷を救う事が出来ないものだろうか……と考えた。

そして,ウガンダで始めた”消臭浄化剤”で,南三陸町のトイレに一役買う事となった。佐藤さんが半世紀に渡って培ってきた〈アフリカ〉への功績は計り知れないものがある。佐藤さんは「人間,チャレンジするのに年齢は関係ない! その気になれば何でも出来る!」と,人生の終盤を迎えてなお挑戦し続ける”スピリット”は見習いたいものがある! <茨城>

友だちは有名人!?

2011-05-25 16:30:28 | 日記
†ラウル・ゴメス・デ・モリーナ……この長ったらしいの,人の名前なんです。(笑)古いプロレス・ファンならば,もしかしたら覚えているかも? 知れませんよね……多分。(笑)

よく海外の写真で構成されてるグラビア・ページの下に撮影者のクレジットが入っているんですが,気が付いている人いますか?(そう言ったってあんまり気に止める人は少ないでしょうけど)このラウルですが,かつて『週刊ゴング』誌で活躍していたカメラマンなのです!

フロリダはマイアミに住むカメラマンで,どういう”いきさつ”で『週刊ゴング』誌でプロレスの写真を撮る様になったのかは分かりませんけど,地元紙などで報道写真を撮っていました。

私がマイアミに行く時には必ず連絡して,試合以外でも遊びに行ったりしていましたが,女好きで(笑)愉快な奴でしたね。以前,ダラスに雪が降るという”想定外”の事態に,空港に足止めを食ってしまった事を書いたのですが,その時もマイアミに行くところだったんです。

そんなラウルの写真が無いので皆さんに,お見せ出来ないのですが……誰に似ているんだろうか? 何て考えるまでも無く(笑)その風貌は今は亡き”クラッシャー・ブラックウエル”に瓜二つ!

という事で”ブラックウエル”の写真を使いましたけど(笑)二人の相違点はと言えば……ラウルは”本家”より若いし,生まれたのがアメリカじゃなくて”キューバ”だという事くらいですかネ。当時のラウルは”不動産”を営むお母さんとの母子二人で暮らしていましたね。

人一倍カラダの大きいラウルもなんと.母親の前ではまるで赤ん坊の様に甘えていた姿が微笑ましく思い出されます。リングサイドで写真を撮ってても,身体が大きいのでお客さんからはブーイングを浴びていました。(笑)しゃがんで撮ろうとせず,立ったまま撮っているんですからお客さんが怒るのも無理はありません。(笑)

それでも悪びれる事もなく撮り続けてたラウル……さすが”大物”ですね。(笑)でも,一度(デューク)ケオムカさんからラウルに”撮影許可”が出なかった事があって……私がケオムカさんに頼み込んだ事がありました。よくラウルとは”日本食”を食べに出掛けましたが,日本食が大好きでしたね。私より箸の持ち方が上手いかもね!

さて,そのブラックウエル……じゃなかった,ラウルは今どうしているんだろうかと気になって,何時だったかジミー(鈴木)に聞いてみた。すると「茨城さん,知らないんですか~。スーパースターですよ。何でも今じゃスペイン語圏向けのテレビのコメンテーターなんかをやってて,街を歩けばサイン攻めで凄い人気らしいですよ」と。

それにしても全く想像がつかないけれど,ジミーが言うのには「ルチャのトップ・クラスやレジエンドなんかよりは数段上ですよ。」との事だが,余計に分からなくなっちゃった。(笑)まだ,マイアミに住んでんのだろうか? ラウルには会いたいけれど,そんなに有名になっちゃったなんて  No me to puedo creer.<茨城>

木村さんの一周忌……            相次ぐ著名人の死!

2011-05-24 03:00:48 | 日記
†ここのところ天候が不安定で,暑い日と寒い日の繰り返しで身体が中々ついていかないという人も多いのではないですかね?私は至って元気ですけど……。(笑)

先日の児玉 清さん(77歳)に続き今度は長門裕之さん(77歳)が亡くなられたが……私が幼い時に見た映画『にあんちゃん』と夫人の南田洋子さんと司会をしたフジ・テレビの音楽番組『ミュージックフェア』が懐かしく思い出される。

そうそう,20年ほど前にやっていたドラマ『池中玄太80キロ』では新聞社を舞台に,キャプテン役の長門さんとカメラマン(池中玄太)役の西田敏行さんの”掛け合い”が面白かったが,なんでもその部分はアドリブが多かったそうだ。

その新聞社の外観(社屋)を時折り映していたけど,その時には私の父親の勤務する虎ノ門の<共同通信社>の本社を使っていたっけ……。最愛の夫人の後を追いかける様に他界した名バイプレーヤ-長門裕之さんのご冥福をお祈りいたします。

ここ数年,子供時代からテレビで見馴れた人達が次々に他界した。今日はラッシャー木村さんの一周忌……昨年は私の知る”著名人”がザッと50人余り亡くなった。

元プロ野球の小林 繁,司会者の玉置 宏,俳優の船越英一郎,藤田まこと,ピーター・グレイブス,北林谷栄,デニス・ホッパー,淡路恵子,パク・ヨンハ,園桂也子,谷 啓,小林桂樹,池内淳子,トニー・カーチス,池部 良,高峰秀子。

歌手では,浅川マキ,しばたはつみ,石井好子,シルヴィア,他にも小説家の立松和平,作家の井上ひさし&つか こうへい,IOC元会長のアントニオ・サマランチ,芸能リポーターの梨元 勝,声優の野沢那智……と,書ききれないのです。

長門さんは亡くなる前日まで元気だったという。昔は聞いた事のないたくさんの病気が蔓延っているが,どういった形で人生の最期を迎えるのかは誰一人わからない。だから,せめて悔いのない日々を過ごして行きたい,と思っている。<茨城>

※写真は在りし日の長門裕之&南田洋子夫妻(文中内の人名は敬称略)

杉村義衛を知っていますか?

2011-05-23 10:30:27 | 日記
†杉村義衛って人を知っていますか? 杉村大蔵じゃあないですよ。(笑)この杉村さん,今日が誕生日……という事ですが,既に亡くなって95年にもなるんですね。未だに,この杉村さんのファンというか”愛好家”は全国にかなり多くの人達が居るみたいです。勿論,私もそんな一人です。

”誕生日”は1839年5月23日(天保10年4月11日)という事なので,170年余り前の事となりますね。産まれた時の”姓”は長倉,幼名を 栄吉 といいました。幕末・維新を疾風の如く駆け抜けて行った『新撰組』の二番隊”組長”を勤めたのが杉村義衛こと永倉新八なのです。

『新撰組』にあって,江戸・明治・大正……と,激動の三時代を生き抜いた数少ない”武士”の一人<永倉新八>は,松前藩の江戸定府取次役「長倉勘次」の次男として生まれました。15歳で”神道無念流”の切紙(免許状),18歳で”本目録”を取得……『新撰組』の隊長格の中で,屈指の腕前であったと伝えられます。

ある隊士は「一に永倉,二に沖田(総司),三に斎藤(一)」と語っているぐらいで,この事だけでもその腕前の程が分かろうというもの。刀一つで”鳥羽伏見の戦い”を戦い抜き,その「ガムシャラ」なまでの性格から名前を捩って”俄武新”(がむしん)と呼ばれていたといいます。

明治以降……「新政府軍」を相手にあくまで”初心貫徹”を貫き通した永倉は1871(明治4)年に”脱藩”していた松前藩への”帰参”が許され,藩医・杉村介庵の娘婿となって<永倉新八>から<杉村義衛>と改名。そして,北海道松前町へ渡り,新な人生を歩む事となりました。

晩年,永倉新八は孫と共に”映画”を見に行った折りに,地元のヤクザに絡まれたが,蹴散らしたという。また,55歳の時には”日清戦争”へ抜刀隊(警視庁が臨時に選抜した部隊)として参加を悲願し,なお血気盛んな”俄武新”ぶりだったという。『小樽新聞』に新撰組を語り,「新撰組顛末記」を後世に残し,伝えた功績は大きい!

1895(明治28)年に,私の祖母が生まれ”新八さん”と20年間”同じ時代”を生きた訳だが,何やら不思議な感じがしますね。私の大好きな『新撰組』と永倉新八……”局長”近藤 勇とは意見の相違からたもとを分かったが,最後まで『新撰組』を愛し,板橋に”戦友”の名を刻んだ〈石碑〉を建てた永倉新八。172回目の"誕生日"”に池波正太郎の「幕末新撰組」(永倉新八を主人公にした小説)を読み返してみたいと思います。 <茨城>

※写真は晩年の”永倉新八”こと杉村義衛老

訃報! ”マッチョマン”の思い出

2011-05-22 03:00:47 | 日記
†”マッチョマン”ランディ・サベージが亡くなった,と聞く。一昨日の20日(現地時間)フロリダで高速道路を運転中に”心臓発作”を起こし,分離帯を飛び越して反対側の木に激突……直ぐに病院に搬送されたが,死亡が確認されたという。助手席の奥さんは軽症だった。本名ランドル・ポッフォ,享年58歳。

WWF(現WWE)とWCW(消滅)で活躍……日本にはSWSや新日プロに来日してるが,平成2年の東京ドームでの<日米レスリング・サミット>に来日参戦し,天龍源一郎と戦った一番がやはり印象深い。アメリカの2大メジャー団体で数多くのタイトルを獲得。映画『スパイダーマン』でボーンソー・マクグローというレスラー役で出演しているのだ。

その”マッチョマン”を私は初来日の遥か昔に,何度と無しに見ていたが,T紙の特派員をやっていた'83年~'84年頃は特に頻繁に見ていたと思う。ちょうど彼が,ニューヨークに入る前でしたね。毎月1,2度は彼が主戦場とするテネシー州メンフィスの”ミッドサウス・コロシアム”へ取材に出掛けていました。

後に《W★ING》と提携関係を結んだ《USWA》から数多くの選手がやって来ましたが,日本プロレスの時代から多くの日本人レスラーも同地へ遠征しているほど,日本とテネシーは古くから関係がありますが,私の目には「日本向き」のイキの良い選手が沢山いるなと映りました。そして,その中でも”マッチョマン”は特に日本へブックしたい一人でした。

何時だったか,カナダの大剛さんとの話の中で「ランディを日本に送る予定だったんだが……」と言っていたのを思い出した。勿論,平成2年以前の話で”幻”に終わったが「国際だったか,新日だったか」はハッキリ覚えてない。当然,日本では無名時代の話。昨日,彼の死亡を聞いた時この話を思い出したのです。

「オ~イェ~」と大声を張り上げ,派手な衣装に身を包み,リングをフルに使って暴れ捲くる”マッチョマン”だったが……私がアメリカに住んでいた時に,飛行機で一緒になった事があった。勿論,彼が座っていたのはファースト・クラスだったが,私が飛行機に乗り込んで行くと,一目でランディ・サベージだと分かる”オーラ”を発散していた……。 <茨城>

”マッチョマン”ランディ・サベージさんのご冥福を慎んでお祈り致します。