【処刑場】進藤寿伯『近世風聞・耳の垢』を読むと、寛政年間(1789~1800)の広島の刑場として、「竹ヶ鼻」と「樽ヶ鼻」が出てくることを述べた。昔は広島には七つの川があり、河口デルタが発達していた。東から、猿猴川、京橋川、元安川、本川、天満川、福島川、己斐川(山手川)である。
「寛政年間広島城下図」という古地図を見ると、広島城の外堀の一部である「八丁堀」から京橋川と元安川の間を「平田屋川」という人工の川が南に流れている。これは昭和4(1929)年の「広島市地図」では八丁堀の南、新天地から海に通じる細い堀としてまだ残っている。これを埋め立てたのが「並木通り」である。
「樽ヶ鼻」刑場は己斐川の河口右岸にあり、近くに「新宮神社」があり、街道がここで広い畑を挿んで二つに分かれ、西のものは「福蔵寺」に通じているから、今日のJR古江駅の東北200mの位置にあったことがわかる。詳しくは『藝藩通誌』を調べないといけないが、山陽道と広島市街地の西に連なる山塊を越えて河内(かわうち)方面に抜ける街道が合流したのではないか。
「さらし首」の目的は「見せしめ」としてできるだけ多くの見物人に見せることにあったので、三叉路付近に刑場があったのは理にかなっている。
「竹ヶ鼻」の件は、社会科のS先生から以下のご教示があった。
<「竹ヶ鼻」ですが,これは,現在の広島市河原町にあった刑場ですね。平和公園 のすぐ近く,舟入町の隣です。地図をご覧になれば,平和公園の南西あ たりに 河原町という町名がありますよ。
河原町という町名からして,昔から「」とよばれた被差別民が住んでいた 場所だろうと思います。被差別民の生業として,処刑やがありま す。>
確かに、万延元(1860)年「広島城下図」を見ると、いまの舟入町の「羽田別荘」の電車どおりを挿んで向かい側が、本川まで「河原町」ですね。上記「寛政広島地図」を見ると、本川の右岸に「竹ノ鼻」という場所があります。そばに「御作事所」とあり、小屋のようなものが書かれており、周囲に長方形の広い土地があります。昭和2年の地図を見ると、この位置に「西村醤油所」があり、川岸がやや凸状に東にせり出しています(「竹ヶ鼻」という由縁でしょう)。対岸に広島県庁と県立病院があります。
この本『近世風聞・耳の垢』も東大国史卒の編者によるもので、例によって索引がなく、他に「竹ヶ鼻」が何カ所出てくるか分からない。前に「竹ヶ鼻」は「斬首刑」で「樽ヶ鼻」は晒し首の刑と使い分けられいたのでは、と書きましたが、本を調べると、使い分けられてはいない。ただ火あぶりの刑は「樽ヶ鼻」で行われている。町中では火災の危険性があると判断したようだ。
「竹ノ鼻」は「竹ヶ鼻」の地図誤記であり、「竹ヶ鼻」が正しいこと、その現在地も判明しました。どうもありがとう。
ついで「河原町」ですが、天保3(1832)年に「6月29日、申の時より西えた村に出火、過半焼失」という記載があり、その前にも「西小屋焼ける」とあります。
記載から広島には東と西の「えた・村」があったと思われます。あるいは三箇所だったかもしれない。
東は仁保町の東端にあった「柞木(ほうそぎ)」の付近がそれに該当すると思われます。
西は、かつて屠畜場があった福島町がそれに該当すると思われます。
真ん中の「舟入新開」にあった「竹ヶ鼻」を含む地区は、昭和4年の地図では、西新町と河原町に分かれています。ここは「西遊廓」とも呼ばれ、映画館、酒場、旅館が並ぶ盛り場でした。
まだ「大日本地名辞典」とか「地名語源辞典」をもたないので、これ以上探究できません。「河原町」が被差別に由来するという他の証拠があったら教えて下さい。広島県の同和問題について解放同盟が出した本があったのですが、目下、行方不明です。
「寛政年間広島城下図」という古地図を見ると、広島城の外堀の一部である「八丁堀」から京橋川と元安川の間を「平田屋川」という人工の川が南に流れている。これは昭和4(1929)年の「広島市地図」では八丁堀の南、新天地から海に通じる細い堀としてまだ残っている。これを埋め立てたのが「並木通り」である。
「樽ヶ鼻」刑場は己斐川の河口右岸にあり、近くに「新宮神社」があり、街道がここで広い畑を挿んで二つに分かれ、西のものは「福蔵寺」に通じているから、今日のJR古江駅の東北200mの位置にあったことがわかる。詳しくは『藝藩通誌』を調べないといけないが、山陽道と広島市街地の西に連なる山塊を越えて河内(かわうち)方面に抜ける街道が合流したのではないか。
「さらし首」の目的は「見せしめ」としてできるだけ多くの見物人に見せることにあったので、三叉路付近に刑場があったのは理にかなっている。
「竹ヶ鼻」の件は、社会科のS先生から以下のご教示があった。
<「竹ヶ鼻」ですが,これは,現在の広島市河原町にあった刑場ですね。平和公園 のすぐ近く,舟入町の隣です。地図をご覧になれば,平和公園の南西あ たりに 河原町という町名がありますよ。
河原町という町名からして,昔から「」とよばれた被差別民が住んでいた 場所だろうと思います。被差別民の生業として,処刑やがありま す。>
確かに、万延元(1860)年「広島城下図」を見ると、いまの舟入町の「羽田別荘」の電車どおりを挿んで向かい側が、本川まで「河原町」ですね。上記「寛政広島地図」を見ると、本川の右岸に「竹ノ鼻」という場所があります。そばに「御作事所」とあり、小屋のようなものが書かれており、周囲に長方形の広い土地があります。昭和2年の地図を見ると、この位置に「西村醤油所」があり、川岸がやや凸状に東にせり出しています(「竹ヶ鼻」という由縁でしょう)。対岸に広島県庁と県立病院があります。
この本『近世風聞・耳の垢』も東大国史卒の編者によるもので、例によって索引がなく、他に「竹ヶ鼻」が何カ所出てくるか分からない。前に「竹ヶ鼻」は「斬首刑」で「樽ヶ鼻」は晒し首の刑と使い分けられいたのでは、と書きましたが、本を調べると、使い分けられてはいない。ただ火あぶりの刑は「樽ヶ鼻」で行われている。町中では火災の危険性があると判断したようだ。
「竹ノ鼻」は「竹ヶ鼻」の地図誤記であり、「竹ヶ鼻」が正しいこと、その現在地も判明しました。どうもありがとう。
ついで「河原町」ですが、天保3(1832)年に「6月29日、申の時より西えた村に出火、過半焼失」という記載があり、その前にも「西小屋焼ける」とあります。
記載から広島には東と西の「えた・村」があったと思われます。あるいは三箇所だったかもしれない。
東は仁保町の東端にあった「柞木(ほうそぎ)」の付近がそれに該当すると思われます。
西は、かつて屠畜場があった福島町がそれに該当すると思われます。
真ん中の「舟入新開」にあった「竹ヶ鼻」を含む地区は、昭和4年の地図では、西新町と河原町に分かれています。ここは「西遊廓」とも呼ばれ、映画館、酒場、旅館が並ぶ盛り場でした。
まだ「大日本地名辞典」とか「地名語源辞典」をもたないので、これ以上探究できません。「河原町」が被差別に由来するという他の証拠があったら教えて下さい。広島県の同和問題について解放同盟が出した本があったのですが、目下、行方不明です。
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