ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【嫌韓論2】難波先生より

2014-05-23 09:01:40 | 難波紘二先生
【嫌韓論2】
 これは相変わらず盛んだ。次々と新刊が出ている。このことは「朝鮮日報」日本語版でも報じられている。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/05/18/2014051800148_2.html
 「人のふり見てわがふり直せ」という。韓国の常識外れの態度から学ぶことも必要だ。

 「新潮45」の黒田勝弘:「セウォル号事故から見る韓国という国」、小田嶋隆「<朝日新聞>のホームルーム民主主義」、神山仁吾:「<NHK>という理不尽」も面白い。この雑誌は「メディア批判」に特化しつつあるのか?
 久し振りに「朝日文化人」という言葉を見つけた。小田嶋は1956年生まれで「朝日」出身」。「朝日文化人」という言葉が1980年代に雑誌「文藝春秋」で生まれたという意味のことを述べているが、「進歩的文化人」という言葉は1960年代にはすであって、その後に「朝日文化人」という言葉が生まれたように記憶している。当時の全学連指導者が右派に転向して、70年代にはマイナスのイメージを帯びるようになった。
 「朝日デジタル」の「ちょい見せ仕様」に対する批判が面白い。記事冒頭だけ見せて、「ここから先は料金が発生します」というは、「アムステルダムのおねえさんといっしょじゃないですか」だそうだ。
 オランダの街は知らないが、西アフリカの港町で街娼のエイズ調査をしたときに、同じような経験をした。ひょいとスカートをめくって見せびらかした。下着を着けていないが、黒い肌に黒い縮れ毛があるだけで、面白くもなんともない。「朝日デジタル」みたいだが、ギニア湾で操業する日本漁船は多い。女に飢えた船員には、釣られて金を払うものもいるだろう。このルートでの日本への感染波及を心配したものだ。
 朝日の社説を書いていた若宮啓文は1948年生まれの団塊世代。その『新聞記者:現代史を記録する』(ちくまプリマ―新書, 2013)は、「教科書書きかえ問題」とか「サンゴ礁事件」とか、「慰安婦誤報問題」とか都合の悪いところは、朝日文化人か理研の笹井氏みたいにぼかして書いている。…ふとこんなサイトを見付けた。
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422013239
<産経はないだろ、あそこは完全に右よりだし。朝日、毎日あたりは朝鮮日報、東亜日報の支社という扱いでいいよ、反日して韓国のための世論を作ってるから事実だろう。
読売は知らなかったな・・> だそうだ。

 歴代の韓国大統領は政治危機になると「半日カード」を切ったが、朴槿恵は初手から反日全開だから、客船沈没事故でピンチに立つだろうと予言しておいた。黒田勝弘のソウルからの論説を読むと、まさにそうなってきたなと思う。黒田は「韓国は法治社会でなく情治社会だ」という持論をここでも展開していて、その説明は説得力がある。
 韓国に「言論の自由」がないことは、
 シンシアリー(Sincere LEE)『韓国人による恥韓論』(扶桑社新書, 2014/5)
に目を通してよく分かった。著者名は仮名で、英語の手紙の末尾に使う「Sincerely(謹言)」をもじったものだ。1970年代韓国生まれの、韓国人歯科医だそうだ。併合時代生まれの母親から日本語を学び、読み書きができるので日本語ブログを開設、そこでの書き込みが本書になったという。韓国人の内面のメンタリティーや思考様式や具体例を挙げて説明していて基調だ。これは呉善花のような済州島出身で、大学の正規教育を受けていない帰化韓国人の著書にはみられない点だ。この本は目次の小見出しにまでページ番号が振ってあり、とても読みやすい。但し参考文献と索引はない。
 この著者は、
 黒田勝弘『韓国人の歴史観』(文春新書, 1999)をかなりよく読み込んでいる。
 かつて朴泰赫『醜い韓国人』(カッパブックス, 1993)が出版され、激怒した韓国政府が輸入販売を禁止する措置をとったことがあり、韓国内で大々的な「犯人」捜しが行われた。こういうところを見ると韓国は「言論の自由のない全体主義国家」といえよう。
 この本は後に評論家加瀬英明が執筆したとわかった。「朴泰赫」は匿名の韓国の協力者で、後に
 朴泰赫・加瀬英明『醜い韓国人:歴史検証編』(光文社, 1995/3)
という本も出ている。「醜い◯◯人」というタイトルは「醜いアメリカ人」という1960年代のベストセラーのパクリである。
 従ってシンシアリーが実在の人物であるという確証はない。歯科医なら日常診療に伴うエピソードが挿入されているはずだが、それがない。異常な「美容成形」ブームが韓国にはびこっていること、その中には歯医者がからむものもあるのに、触れていないし、朝鮮の近代医学は日本から輸入されたもので、医学歯学の術語は日本語由来だということも書いてない。ただ朝鮮人のものの考え方の説明には「内部からの目」でないとわからないことも書かれており、韓国人ではあろう。
 「シンシアリーのブログ」は日本のサーバに開設されており、ここで読める。
 http://ameblo.jp/sincerelee/

 索引は、以下の文科系韓国人(朝鮮人)などの本にもみられない。
 李御寧「縮み思考の日本人」(講談社学術文庫,2007/4)
 金慶珠「歪みの国・韓国」(祥伝社新書,2013/6)
 金慶壽・井上和彦「悪韓論vs悪日論」(討論本:双葉新書,2014/1)
 「縮み」とか「歪み」という発想がどこから出ているかは、数学における「線型」という概念と、黒田のいう「韓国は字余り文化だ」という指摘をあわせて考えるとよくわかった。韓国人は「カタやワクに美意識を感じない」と「新潮45」で黒田はいう。
 列も作らないし、規則にも従わない。だから沈没船から船長が真っ先にパンツ姿で逃げ出す。「縮み」は全体が同じ構成比のままで小さくなること、つまり「線型に縮小する」ことを意味する。そこには「カタや枠」が必要だ。3音、5音、7音という「素数音」になぜ日本人が美意識を感じるのか、それは私にはわからない。
 「歪み」は構成比が変わることで一種の乱視だ。ものが「歪んで」見える。「字余り」とは「歪み」の一種だ。日本は「縮み志向の文化」、朝鮮は「歪み志向の文化」だろう。
 字余り文化は「カタに従う」ことを拒否するから、法は変幻自在となる。法治主義でなく、人脈と情緒的世論に従う「情治国家」ができる。このことは
 黒田勝弘『韓国<反日感情>の正体』(角川新書, 2013/6)
でもある程度説明されていたが、黒田による「セウォル号事故」の説明でよく分かった。

 正体は不明だが、上記シンシアリーの本は、そこをもっと説得力をもって説明している。これは
 呉善花「侮日論:<韓国人>はなぜ日本を憎むのか」(文春新書, 2014/1)
でも上手く説明されていない。
 もともと私は隣国である韓国の歴史と国民性を勉強し、何とか「和解と融和」の道はないものかと考えている。日本における嫌韓意識のたかまりのせいか、東広島市のある国道脇の朝鮮料理店が、このあいだ前を通ったら閉店になっていた。被害はたぶん他の在日にも及んでいるだろう。
 シンシアリーは、
 1948年7月12成立の「大韓民国憲法」では「壇紀4281年」として、壇君という4000年以上前の神話上の人物にちなむ年号を採用している。これは日本の「皇紀2600年」の真似だ。さらに朝鮮近代史は、李氏朝鮮→大韓帝国→「日本による併合」→大韓民国と続くのではなく、李氏朝鮮→大韓帝国→「臨時政府」→大韓民国と続くのだという。
 1910年8月の日韓併合の後、1919年3月に朝鮮で「3・1独立暴動」起き、朝鮮独立運動の活動家が上海で「大韓民国臨時政府」の樹立宣言を発表した。この臨時政府を承認した国はソ連(レーニンは大金を援助している)と中国くらいだが、韓国の歴史教科書では政府はこのように続き、日帝が1910~1945年と36年間朝鮮を侵略・支配したことになっている。この反日抵抗組織から「臨時」が取れたものが「大韓民国」だから、韓国は「反日」で生まれた国家だという。なるほど「法統」上はそういう認識なのだ。
 「過敏な情緒反応」、相手の負けを必要以上に喜ぶ「過剰な序列意識」、複眼的に物事を捉えられない「善悪の二分思考」、「自分以外に悪を見けることで、自分を善と見なす思考法」、これらが韓国人に多い思考法であり、古代は中国>朝鮮>日本の序列であったのに、近代日本が日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮を支配しただけでなく、第二次大戦での敗北から急速に立ち直り豊かな国になった。それに対する嫉妬が、日本を「絶対悪」とする現代韓国を生みだしている、と指摘している。
 こうした主張に賛同する日本人を韓国では「良心的日本人」と呼ぶそうだ。韓国の大学教授をしている元「朝日」主筆の若宮啓文氏(『新聞記者』,ちくま新書,2013)のような人だろう。
 だから初代朝鮮総督伊藤博文を暗殺したテロリスト安重根は、韓国最大の英雄となっているし、窃盗、放火、殺人でも法治社会でなく情治社会だから「反日無罪」になるという。
 残念ながら、「話せばわかる」は韓国では通用しないという。私にとって韓国人のメンタリティーを理解する上で有益な本だった。

 この本で、日韓併合時代にアメリカ人の研究者アレイン・アイルランド(Alleyne Ireland)が朝鮮を調査し1926年に刊行した「The New Korea:朝鮮が劇的に豊かになった時代」という本があることを知った。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4434181815/ref=dp_top_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1
 レビューが31もあり、いずれも高得点を与えている。さっそく注文した。
 A.アイランドはシカゴ大学の教授になった英国人で日本統治下の朝鮮を3年かけて調査し、この本を書いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

 以下のブログでの2009年の書き込みを見ると、「彼らが見た私たち」というシリーズ本の1冊としてまず韓国で出版されたらしい。
 http://fen246rev.blog92.fc2.com/blog-entry-11.html
 恐らく韓国の「植民地近代化」論の研究者が発掘した資料だろう。それがリーの「恥韓論」に引用され、邦訳の運びとなったものか…
 ジョージ・アアキタ&B.パーマ―「日本の朝鮮統治を検証する」(草思社, 2013)
には、参考・引用文献として載っていない。(この本には索引がない。破産後の草思社はダメになったものだ。)
 これを書いているうちに、『The New Korea』(日英対訳)が届いた。朝鮮近代史、朝鮮概論、各論として日本統治による、政治、行政、司法、警察と監獄、財政、教育、農産業と経済発展、医療と社会保障が統計数値を上げて詳しく記述されており、一級の資料だと思う。序章に、
<私が至った結論は次の通りだ。今日の朝鮮は李朝時代とは比べものにならないほど良く統治されており、多くの独立国と比べても遜色がない。私が調査した英、米、仏、蘭、葡の植民地はよく統治されていたが、それらよりも日本の統治は行政手腕だけでなく、人民の文化経済の発展において優れている。>(p.57)と書いてある。
 この本は左頁が英語原文、右頁が日本語訳で700ページ近くある。「桜の花出版」と出版社名が書いてあるから、産経新聞社の系列かも知れない。私は「右であれ左であれ、正しい事実は正しい」という立場だから気にしない。

 ところで、東京帝大医学部のドイツ人教授による『ベルツの日記(上)』(岩波文庫)には、1903年4月から3ヶ月間、朝鮮に研究旅行を行った際の印象が残されている。
「朝鮮人は元来お人好しの国民だが、無気力な宮廷と泥棒同然の役人に支配されて、半ば滅亡状態にある。朝鮮人に必要なのは健全な政府だ。国民にとっての最善は、日本がこの国を引き受けてくれることではないだろうか。活動的な日本人が手本になって、刺激を与えてくれるに相違ない。」(1903/7/3記述、p.312)と書かれている。
 同じ頃、朝鮮を旅行したイサベラ・バードの『朝鮮紀行:英国婦人の見た李朝末期』(講談社学術文庫, 1998)にも同じような意見が述べられている。
 事後に日本の朝鮮統治を検証した、
G.アキタ&B.パーマー『日本の朝鮮統治を検証する』(草思社, 2013)には、日本統治中の朝鮮を観察した第三者の記録資料は乏しい。志願兵・徴兵制の記述がメインだ。
 
 探していた「安重根自叙伝」が手に入った。意外に新しいものだった。
 安重根:『安重根自叙伝・東洋平和論』,愛知宗教者九条の会, 2011/2, 800円
で、名古屋市中村区名駅の西祐寺という寺が連絡先になっている。
 これを読むと、「東学党の乱」の時に両班の父と共に東学党の武力鎮圧に当たっている。その後、東学党から奪った米1000袋の帰属を巡って父と政府高官との争いが生じ、カトリック教会に逃げ込んだことから父がまず改宗し、ついで一家全員が「天主教」に変わった。
 その後、山で狩猟中に六連発銃の弾が銃身内に引っかかり、銃口から挿入した鉄の棒で突いたら、弾と棒が飛び出して右手を貫通するという、信じられないようなケガをしている。その後も右手で拳銃を握ったという記述があるから、後遺症はなかったことになる。これも不思議だ。

 正義感が強く直情径行で、若い時からいろんな事件に巻き込まれているが、政治性の強いものはない。「日清戦争で日本が勝利したため「大韓帝国」が誕生したのに、戦争にも韓国皇帝の誕生にも触れていない。1904年日露戦争が始まったときにフランス人神父から「ロシアか日本か、勝った方が朝鮮を支配する」と告げられ、初めて国際政治に目が行くようになったとある。しかし「日本語を学べば日本の奴隷となり、英語を学べば英国の奴隷となり、フランス語を学べばフランスの奴隷となる。韓国が世界に威勢を張れば、世界中が朝鮮語を話すようになる」と言って、神父から習っていたフランス語の学習を止めているから、相当に誇大妄想的な狂信者であった。
 日本が勝利すると安一家は日本による統治を嫌い、国外脱出を考え安重根は偵察のため上海に渡った。ここで既知の仏人神父と遭遇し、普仏戦争後のアルサス・ロレーヌ地方の例をあげて「海外移住は間違いだ」と指摘され、国内での抵抗を続けよと諭されたという。1905年12月に上海から鎮南浦という港まで戻ると、故郷清渓洞の土地家屋敷を処分して、一家は鎮南浦に出てきていたが、父が途上で死んだ。
 翌年、父の財産を相続したものの、上海で考えた学校を創立し英才を教育するという事業に手を出し、家計が傾いた。それを立て直そうと平壌に行き炭鉱経営に乗り出したが、日本人にじゃまされ挫折、さらに日本人警官に侮辱されるという経験をした。これで日本人を恨むようになった。
 この間の日本と朝鮮の事件を追うと、

 1895、日清戦争に勝利「下関条約」(朝鮮独立を明記)を清国と調印。
 1897、朝鮮が「大韓帝国」と改名。皇帝が初めて出現。
 1904/2、日露戦争開始(~1905/9)
 1904/8「第一次日韓協約」=日本政府推薦の日本人を財政、同じく西洋人を外交の顧問とするという内容。
 1905/11「第二次日韓協約」(ポーツマス条約に規定)=韓国は外交権を日本に委ねる。韓国に日本政府代表として「統監」を置く。
 同/12「韓国統監府」を設置、初代統監に伊藤博文が就任。
 この時点で「大韓帝国」は日本の保護国となった。「ベルツの日記」が1903年に予言したとおりだ。
1906/3、近衛部隊1個大隊を除き、韓国軍を解散。
 1907/6、「ハーグ密使事件」の責任をとり高宗帝が退位、皇太子純宗が皇帝となる。
    「第三次日韓協約」=日本人顧問を廃止、統監府の参与官日本人を韓国政府各省の次官に就任させる。総数約2000人
 1908、「反日義兵運動」起こる。
 1909/6伊藤博文、韓国併合に反対し統監を辞任。
 同/7、韓国、「司法警察事務」を日本に委任。
 同/9、満州間島で日本と清国との軍事衝突
 同/10、安重根、伊藤博文を暗殺
 1910/8、「日韓併合条約」調印、韓国の皇帝が「国王」に、大韓帝国が「朝鮮」になる。
 同10、「朝鮮総督府」設置、初代総督に軍人の寺内正毅。武断政治始まる。
 1919、朝鮮に「3・11独立運動」、上海に「大韓民国臨時政府」できる。総督府、文治政策に転じる。
 このような変化が13年の間に生じている。

 さて、事業に失敗した安重根は家族を捨て、豆満江の北にある「北間島」地方に行った。北間島は朝鮮族の故地で、満州の軍閥張作霖も支配できない「朝鮮人自治区」があり、ロシア領のハルピン、ウラジオストックにも近く、多くの朝鮮人が暮らしていた。ここで反日の壮士として遊説して回ったが、同志を募ることができず、間島にいくつもあった反日団体の一つ儒教系の「光復団」(団長:李範允)が総裁を務めるゲリラ組織「義軍府」(総司令:金鉉圭、参謀長:泰学新、武装員約3~400人)に身を投じたという。李範允は李朝の「間島統制使(知事)」という地方官の末裔である。(佐々木春隆『韓国独立運動の研究』p.471)
 2/26のメルマガに安重根の行為は「<暗殺>であっても、これはテロとは違う。安重根は参謀中将として正規の交戦行為として伊藤を射殺したのである。」と千葉大学の趙景達教授は『近代朝鮮と日本』(岩波新書, p.241)で書いているが、「参謀中将」である証拠も、「正規の交戦行為」である根拠も提示していない。>と書いた。
 「安重根自叙伝」に「私は参謀中将に選ばれた」(p.62)という記述があり、肩書はこれに基づいたのであろうが、客観的資料の文献掲載がない。実際には300人程度のゲリラで大将も中将もない、「ガキ大将」と同じような呼称だ。1908/6月に300人の部隊が分かれて豆満江を渡り、朝鮮北部の威鏡北道に進入したところで日本軍と遭遇し、すぐに敗北し部隊は四散し、安重根は山中を放浪したあげくロシア領内に逃亡している。
 一般に近代戦においては、民間人と区別するため、正規の軍人は軍服を着用しなければならないし、暗殺は「正規の戦闘行為」に含まれない。民間人の服装をした「特殊部隊」は見つかればスパイ・破壊工作員として裁判なしで処刑されても、文句は言えないことになっているはずだ。

 「朝鮮は伊藤博文の独裁的支配下にある」と考え1909年正月に同志12人と断指(左手薬指を切断)して盟約したことも書いてある。ところが活動資金がなく、無為に過ごしているうちに1909/9月「突然に心神が鬱憤状態となり、焦燥感で」居ても立ってもおれなくなった。そこでウラジオストックに行くと、街では「伊藤博文が来る」という噂で持ちきりだった。各種の新聞を読んだら、ハルビンに特別列車で来るのは間違いないことがわかったので、ハルビンに移動し伊藤暗殺の機会をねらった。もちろん私服である。
 自分は伊藤の顔を知らないので、整列した軍隊の後から見ていると、特別列車からロシア人が護衛して、白ヒゲの小柄な老人が歩いてくるので、これが伊藤に違いないと検討をつけて、右背後をねらって拳銃を4発発射し、その後から来る日本人にも3発発射した。そして「大韓万歳」を三唱したところで、ロシア憲兵に捕らえられた、とある。
 京大教授伊藤之雄による評伝『伊藤博文:近代日本を創った男』(講談社, 2009)p.570では、「3発が伊藤の右肺を貫通し、他の3発が随員3人の左側に命中した」とある。伊藤は直前にくるりと向きを変え、随員の方に戻りかけた、その瞬間に撃たれた。「7連発の拳銃」というのは聞いたことがないから、日本側官憲の調査が正しいだろう。それにしても6発撃つ間に、警備のロシア兵は何をしていたのか…

 これは明らかなテロ行為であり、「<暗殺>であっても、これはテロとは違う。安重根は参謀中将として正規の交戦行為として伊藤を射殺したのである。」と主張する千葉大教授はどうかしている。
 安重根の自叙伝には錯誤やウソがあると思われる。仮に彼の記述が正しければ、「発作的な単独犯行」で計画性はない。精神耗弱の可能性が高く、死刑にしたのは間違いだと思われる。狂人でも死刑にすると「教祖」になる。
 この「安重根自序伝」も貴重な資料だ。もっと多くの日本人に読まれることを願う。
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