日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

この季節の楽しみ 2020番外編

2020-05-26 22:25:29 | 野球
いたずらに不安を煽るかのような報道が横行し始めてからというもの、世間の細々した事共は聞き流す習慣が一層顕著になってきました。それでもなお否応なしに聞こえてくる噂はあるものです。飲食店の生殺しがようやく緩和されたのは朗報ですが、歓迎できないこともあります。最たるものが選手権大会の「中止」です。
まず選抜が中止に追い込まれたとき、史上初だと騒がれましたが、選手権では大正年間と戦時中に二度の中止がありました。ただし、大正年間のそれは代表校が決まった後、戦時中のそれは地方大会開催中に打ち切られたものであり、一切戦われないままでの「中止」は初です。いわゆる「幻の甲子園」で知られる昭和17年を含め、中止扱いですらない空白の時代が4年あることを考えると、選手権はその先例に倣うのかとも思っていました。それでも「中止」と称するのは、開催へ向け一応の努力はしたという事実をもって、選抜と同様に扱う政治的な決着が図られたためでしょうか。真相のほどはさておき、一連の騒動は球史の暗部として後世に語り継がれることとなります。

閉じこもることが「我慢」あるいは「頑張る」ことであるかのような風潮に、かねがね違和感を抱いてきました。「我慢」をして閉じこもっているという自負があるからこそ、外出している連中と営業している店はけしからん、ましてや野球などもってのほかだという的外れな批判が生まれるのでしょう。一連の騒動を病原体との戦いとみなし、それを支える「我慢」以外のあらゆることを「不要不急」と切り捨てるのは、戦時中の標語と同じ後ろ向きの発想です。中止に至った表面上の理由こそ異なるものの、背後にはきわめて近い思想があるような気がしてなりません。
このblogで当初から述べてきたのは、過剰な「自粛」によって飲食業、宿泊業、観光業が見殺しにされかかっていることに対する危惧でした。ただ危惧を述べるだけでなく、身近な飲食店を支援するため、できる限りの行動もしてきたつもりです。その成果と主張するつもりはないものの、飲食店には徐々に人出が戻り始め、最悪の時期はひとまず脱した感があります。その一方であからさまになりつつあるのが教育に対する弊害です。
全国一律の休校が「要請」された時点では、年度末までやり過ごせばどうにかなるという見通しがあったのかもしれません。しかし事態が膠着化し、その場しのぎの「要請」がなし崩しに延長されてきた現状は、ある意味飲食店の生殺しよりもたちが悪いといえないでしょうか。若い身空を棒に振った損失を、金で解決できるものではないからです。学生時代の一年は、我々の一年などと比べものにならないほどの重みを持ちます。高校野球とプロ野球で、一試合の重みがまるで違うのと同じです。この事態が数年単位に長期化すれば、まともに学校教育を受けられなかった年代が生まれるでしょう。それほどまでに深刻化しているにもかかわらず、「専門家」のいう医学的見地からの意見ばかりが偏重され、当の学生は蔑ろにされているかのように見えます。歪んだ世相を象徴する今回の出来事です。

そのようなわけで、開設の年以来初夏の恒例としてきた地方大会の話題にも、空白の一年が生まれることとなりました。散財という形での支援ができる飲食業と違い、球児に対してはお気の毒様としかいえないのがやるせないところです。しかし、繰り返すように「我慢」という価値観には全く与しません。これまでと同様に、今しかできないことを自分なりに楽しむまでです。
かような観点からすると、個人的にはそれほど退屈することもなかろうと予想されます。というのも、blogの更新が長らく滞った結果、去年の記録が下書きのままお蔵入りとなっているからです。去年の記録だけでなく、同様にしてお蔵入りになったものがさらに三年分あります。それを更新していけば、一夏あっても足りないかもしれません。
たとえていうなら、番組の制作を「自粛」したTV局が、「未公開映像」などと称して過去に撮ったものを使い回すようなものです。しかし、他人様には六日の菖蒲、十日の菊でも、自分にとっては恰好の楽しみともいえます。球児たちの無念に思いを致しつつ、過ぎし日の戦いを振り返る夏となりそうです。
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