一昨日は山梨、昨日は埼玉、今日は福島に新潟と、各地で散発的に試合が始まり、公式サイトトップの日本地図も日ごとに塗り替えられてきました。明日は東北から四国までの6大会が始まるなど、地方大会の最盛期がすぐそこまで迫っています。20回近く続けた県別ネタも、未完のまま終わるかどうかの瀬戸際を迎えたようです。九州に上陸するかどうかはさておき、本日は四国の残り二県を見ていきます。
★愛媛
近畿以西の高校野球界において、愛媛が広島と双璧をなしてきたことについては既に述べました。両県とも草創期から商業校が全国区の盟主として君臨してきたこと、その前に幾多の好敵手が立ちはだかってきたこと、近年その盟主が衰退したことについても。これに対して愛媛が広島と大きく異なるのは、今なお公立校が圧倒的に優勢だということです。すなわち、広島の歴代強豪校といえば呉港、広陵、如水館など私立が多いのに対し、愛媛では西条、今治西、川之江、宇和島東といった具合に公立校がほとんどで、選手権の歴代出場校の中で私立は済美だけ、選抜を含めても他には新田と帝京五しかありません。その済美も初出場以来10年間で4回の出場と穏当な水準で、選手の構成も県内出身者が中心。野球強化校の草刈り場となった香川、明徳義塾が独走する高知といった具合に、制度の歪みを露呈している隣県に比して、古くからの強豪と新興勢力が切磋琢磨するという点において、愛媛の高校野球界はまことに健全です。
旧制中学がせいぜいだった徳島と香川に対し、愛媛には藩校を発祥とする伝統校が二つあります。一つは文政年間創立の松山東、もう一つは享和年間創立の小松です。松山東は当然ながら県内最古の旧制中学でもあり、春夏各1回の甲子園出場経験を有します。それに加え、公式記録において松山商に含まれる昭和25年の全国制覇は、松山東と松山商が統合されていた3年の間に達成されたものであり、優勝校の名には今なお松山東が刻まれています。
この松山東を筆頭に、かつての高等女学校が松山南と松山北、戦後の新設校が松山西と松山中央を名乗り、東西南北と中央が揃うところは高松と同様です。県内では今治にも東西南北の4校が揃っており、近年済美と勢力を二分する今治西だけでなく、南と北もそれぞれ甲子園出場経験を有しています。
愛媛の職業校で注目するのは、全国4校の商船高専のトリを飾る弓削商船です。商船高専という物珍しさもさることながら、弓削という字面と響きに趣があり、因島から橋一本で渡れそうな距離にもかかわらず、紙一重のところで離れ島になっているという立地も秀逸。例年初戦か二戦目で姿を消す無名校ではありますが、同じ島の弓削が撤退した後も、毎年春、夏、秋と単独校で出場し続けているのは見上げたものです。
★高知
明徳義塾の独走が長年続いているという点では面白味のない高知大会ですが、少なくとも歴史については興味深いものがあります。
四国から複数の代表が選ばれるようになったのは昭和23年からで、それ以前は四県が一つの代表枠を争う厳しい時代でした。その時代に優勢だったのが、既に全国制覇を達成していた香川、愛媛の両県であり、後塵を拝し続けたのが徳島、高知の両県です。四国が南北2大会に分割されるまでの間、徳島と高知が全国大会に駒を進めたのはそれぞれ2回、1回しかありませんでした。つまり、徳島と高知が全国の舞台に進出してきたのは、実質的には香川、愛媛と分離されてからなのです。
このような経緯もあり、高知が初めて出場権を獲得したのは、戦後最初の大会が開かれた昭和21年のことです。しかし、その後の戦績は実に見事なものでした。戦前の出場が一度もなかった県は埼玉、滋賀、高知、宮崎、沖縄の五県ですが、その中でも高知の戦績は突出しています。優勝2回、8強以上が20回、87勝55敗で.613の勝率は、優勝1回、8強以上12回、64勝45敗で勝率.587の沖縄を大きく上回っており、勝率五割を切る埼玉、滋賀、宮崎などとは比べものになりません。第一回から出場している香川でさえ65勝なのですから、30年以上の遅れをとりながらの87勝が、いかに偉大な記録であるかが分かります。
高知県勢の歴史でもう一つ特異なのは、県立校がほとんど登場しないということです。まず、高知県勢初にして戦後最初の四国代表となったのは私立の城東、つまり現在の高知でした。さらに、その後高知と覇権を競うに至った高知商は、公立は公立でも市立です。この二強時代から、間髪おかずに明徳義塾が台頭した結果、高知では市立か私立のどちらかがほぼ一貫して代表の座を占めるという、全国的に見てもきわめて特異な歴史をたどったのでした。
歴代の出場校を数えても、選手権では上記の3校と土佐、追手前、伊野商、宿毛の6校という少なさで、県立の代表は追手前、伊野商、宿毛の3校が各1回のみ。選抜に対象を広げても、伊野商、中村、追手前、室戸、安芸の各1回が加わるに過ぎません。つまり、春夏を通じて6校が延べ8回出場しただけということです。数としては圧倒的多数を占める県立校が、ほとんど出場の機会をもたなかったという点でも、高知の特異さは際立っています。
歴史以外にもう一つ特筆すべきことがあります。四国一の面積と、その面積以上に広く感じる県土です。
高知から空路に頼らずその日のうちに帰京しようとすれば、五時過ぎの列車で出発しなければなりませんが、五時過ぎが最終列車という条件は北なら函館、南なら鹿児島と同じです。しかもそれは高知駅の発車時刻であり、中村、宿毛といった高知以西から移動しようものなら、さらに二時間前後が加わります。陸路を移動する場合、高知はそれだけ到達困難な場所なのです。しかも、列車が走る場所ならまだよいものの、県内には室戸に土佐清水など列車でも到達できない場所が少なからずあり、道路も対面通行の自動車専用道がせいぜいで、内陸の道路事情は紀伊半島といい勝負。私自身、かつて足摺岬を訪ねたとき、高知からの移動に丸一日を費やしてしまい、あまりの遠さに驚いたという経験があります。
このように、新幹線、高速道路といった高速移動の手段がほとんどなく、鉄道網も道路網も充実しているとはいえないだけに、移動の労苦は和歌山などと並ぶ全国屈指の水準です。そんな中、今年は「室戸対清水」などという突拍子もない組み合わせが初戦でいきなり実現しました。それぞれ室戸岬と足摺岬を擁し、地図の上でも地の果てだと一目で分かる場所です。陸路をたどれば軽く200km以上の距離を隔てた両校は、バスに延々揺られて球場に向かうのでしょうか。そんな想像をめぐらせるのも、高知大会における楽しみの一つなのです。
それでは、お約束の伝統校ネタで締めくくりましょう。明治11年に設置された高知最古の旧制中学といえば、現在の高知追手前です。高知の中心街を貫く追手筋に面して重厚な校舎を構え、高知城の天守を間近に望む同校こそ、名実ともに県内一の伝統校と呼ぶにふさわしく、それどころか立地と佇まいにかけては全国屈指ではないでしょうか。それだけに、同校以上の伝統校があると知ったときには意表を突かれました。明治6年創立の高知小津がそれで、旧土佐藩主が創立した私塾を起源とし、今年で創立141年となります。両校を双璧とし、かつての高等女学校が高知丸の内を名乗るかと思えば、戦後の新設校が高知西、高知東、高知南を称するなど、高知の校名は固有名詞と東西南北の折衷型です。
★愛媛
近畿以西の高校野球界において、愛媛が広島と双璧をなしてきたことについては既に述べました。両県とも草創期から商業校が全国区の盟主として君臨してきたこと、その前に幾多の好敵手が立ちはだかってきたこと、近年その盟主が衰退したことについても。これに対して愛媛が広島と大きく異なるのは、今なお公立校が圧倒的に優勢だということです。すなわち、広島の歴代強豪校といえば呉港、広陵、如水館など私立が多いのに対し、愛媛では西条、今治西、川之江、宇和島東といった具合に公立校がほとんどで、選手権の歴代出場校の中で私立は済美だけ、選抜を含めても他には新田と帝京五しかありません。その済美も初出場以来10年間で4回の出場と穏当な水準で、選手の構成も県内出身者が中心。野球強化校の草刈り場となった香川、明徳義塾が独走する高知といった具合に、制度の歪みを露呈している隣県に比して、古くからの強豪と新興勢力が切磋琢磨するという点において、愛媛の高校野球界はまことに健全です。
旧制中学がせいぜいだった徳島と香川に対し、愛媛には藩校を発祥とする伝統校が二つあります。一つは文政年間創立の松山東、もう一つは享和年間創立の小松です。松山東は当然ながら県内最古の旧制中学でもあり、春夏各1回の甲子園出場経験を有します。それに加え、公式記録において松山商に含まれる昭和25年の全国制覇は、松山東と松山商が統合されていた3年の間に達成されたものであり、優勝校の名には今なお松山東が刻まれています。
この松山東を筆頭に、かつての高等女学校が松山南と松山北、戦後の新設校が松山西と松山中央を名乗り、東西南北と中央が揃うところは高松と同様です。県内では今治にも東西南北の4校が揃っており、近年済美と勢力を二分する今治西だけでなく、南と北もそれぞれ甲子園出場経験を有しています。
愛媛の職業校で注目するのは、全国4校の商船高専のトリを飾る弓削商船です。商船高専という物珍しさもさることながら、弓削という字面と響きに趣があり、因島から橋一本で渡れそうな距離にもかかわらず、紙一重のところで離れ島になっているという立地も秀逸。例年初戦か二戦目で姿を消す無名校ではありますが、同じ島の弓削が撤退した後も、毎年春、夏、秋と単独校で出場し続けているのは見上げたものです。
★高知
明徳義塾の独走が長年続いているという点では面白味のない高知大会ですが、少なくとも歴史については興味深いものがあります。
四国から複数の代表が選ばれるようになったのは昭和23年からで、それ以前は四県が一つの代表枠を争う厳しい時代でした。その時代に優勢だったのが、既に全国制覇を達成していた香川、愛媛の両県であり、後塵を拝し続けたのが徳島、高知の両県です。四国が南北2大会に分割されるまでの間、徳島と高知が全国大会に駒を進めたのはそれぞれ2回、1回しかありませんでした。つまり、徳島と高知が全国の舞台に進出してきたのは、実質的には香川、愛媛と分離されてからなのです。
このような経緯もあり、高知が初めて出場権を獲得したのは、戦後最初の大会が開かれた昭和21年のことです。しかし、その後の戦績は実に見事なものでした。戦前の出場が一度もなかった県は埼玉、滋賀、高知、宮崎、沖縄の五県ですが、その中でも高知の戦績は突出しています。優勝2回、8強以上が20回、87勝55敗で.613の勝率は、優勝1回、8強以上12回、64勝45敗で勝率.587の沖縄を大きく上回っており、勝率五割を切る埼玉、滋賀、宮崎などとは比べものになりません。第一回から出場している香川でさえ65勝なのですから、30年以上の遅れをとりながらの87勝が、いかに偉大な記録であるかが分かります。
高知県勢の歴史でもう一つ特異なのは、県立校がほとんど登場しないということです。まず、高知県勢初にして戦後最初の四国代表となったのは私立の城東、つまり現在の高知でした。さらに、その後高知と覇権を競うに至った高知商は、公立は公立でも市立です。この二強時代から、間髪おかずに明徳義塾が台頭した結果、高知では市立か私立のどちらかがほぼ一貫して代表の座を占めるという、全国的に見てもきわめて特異な歴史をたどったのでした。
歴代の出場校を数えても、選手権では上記の3校と土佐、追手前、伊野商、宿毛の6校という少なさで、県立の代表は追手前、伊野商、宿毛の3校が各1回のみ。選抜に対象を広げても、伊野商、中村、追手前、室戸、安芸の各1回が加わるに過ぎません。つまり、春夏を通じて6校が延べ8回出場しただけということです。数としては圧倒的多数を占める県立校が、ほとんど出場の機会をもたなかったという点でも、高知の特異さは際立っています。
歴史以外にもう一つ特筆すべきことがあります。四国一の面積と、その面積以上に広く感じる県土です。
高知から空路に頼らずその日のうちに帰京しようとすれば、五時過ぎの列車で出発しなければなりませんが、五時過ぎが最終列車という条件は北なら函館、南なら鹿児島と同じです。しかもそれは高知駅の発車時刻であり、中村、宿毛といった高知以西から移動しようものなら、さらに二時間前後が加わります。陸路を移動する場合、高知はそれだけ到達困難な場所なのです。しかも、列車が走る場所ならまだよいものの、県内には室戸に土佐清水など列車でも到達できない場所が少なからずあり、道路も対面通行の自動車専用道がせいぜいで、内陸の道路事情は紀伊半島といい勝負。私自身、かつて足摺岬を訪ねたとき、高知からの移動に丸一日を費やしてしまい、あまりの遠さに驚いたという経験があります。
このように、新幹線、高速道路といった高速移動の手段がほとんどなく、鉄道網も道路網も充実しているとはいえないだけに、移動の労苦は和歌山などと並ぶ全国屈指の水準です。そんな中、今年は「室戸対清水」などという突拍子もない組み合わせが初戦でいきなり実現しました。それぞれ室戸岬と足摺岬を擁し、地図の上でも地の果てだと一目で分かる場所です。陸路をたどれば軽く200km以上の距離を隔てた両校は、バスに延々揺られて球場に向かうのでしょうか。そんな想像をめぐらせるのも、高知大会における楽しみの一つなのです。
それでは、お約束の伝統校ネタで締めくくりましょう。明治11年に設置された高知最古の旧制中学といえば、現在の高知追手前です。高知の中心街を貫く追手筋に面して重厚な校舎を構え、高知城の天守を間近に望む同校こそ、名実ともに県内一の伝統校と呼ぶにふさわしく、それどころか立地と佇まいにかけては全国屈指ではないでしょうか。それだけに、同校以上の伝統校があると知ったときには意表を突かれました。明治6年創立の高知小津がそれで、旧土佐藩主が創立した私塾を起源とし、今年で創立141年となります。両校を双璧とし、かつての高等女学校が高知丸の内を名乗るかと思えば、戦後の新設校が高知西、高知東、高知南を称するなど、高知の校名は固有名詞と東西南北の折衷型です。