日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

この季節の楽しみ 2014(12)

2014-06-27 23:14:48 | 野球
高校野球の全国大会展望もこれで十日目、本日は北陸の残り二県を取り上げます。

石川
奇跡的に残った公立校の聖地富山とは対照的に、かなり早い段階から私立勢に席巻されたのが石川の高校野球界です。
今でこそ私立校が幅をきかせる東北でも、それらの多くが台頭してきたのは昭和50年代後半から60年代にかけてです。茨城の常総学院、埼玉の浦和学院などが頭角を現わしたのも、昭和60年代に入ってからでした。私立勢が古くから優勢だった地方といえば、三大都市圏と南北海道、宮城、栃木、長野に広島などごく一部に限られており、大半の地方では昭和60年前後まで公立校の天下だったわけです。しかしながら石川では、公立校中心の勢力図が昭和50年代の初頭から一変しました。昭和37年、昭和47年に初出場していた金沢と星稜が黄金期に突入し、昭和51年の第58回から、今世紀最初の第83回まで、26大会中21大会で両校が代表の座を占めたのです。
宮城と奈良に続き「二大政党制」が確立したかに見えた石川大会でしたが、その翌年、文字通り彗星のごとく出現したのがご存知遊学館です。快進撃はその後も続き、同年を含む12大会中5大会で代表権を獲得。今世紀の13大会で数えれば、金沢と遊学館が5回で並び、星稜の2回に大差をつけました。史上最高の名勝負と語り継がれる箕島戦、松井の五打席連続敬遠など、甲子園に幾多の伝説を作った星稜の時代は去ったかのようにも見えます。
しかし、長い歴史を振り返れば、五年十年、あるいはそれ以上の低迷を経て復活した名門も少なくありません。新たな二大政党制が確立するのか、三国時代に突入するのか、あるいは新勢力が台頭するのかについては、少なくともあと十年経たなければ判断のしようがないでしょう。とはいえ、石川の高校野球界が三十年に一度の転換点にあることだけは間違いがなさそうです。
ちなみにその遊学館、初出場した当時は創部二年目の快挙として話題になったものでした。しかし、正真正銘の新設校だった常総学院、大阪桐蔭などとは違い、同校が長い歴史を持つことは知る人ぞ知る事実です。明治37年創立の女子校を、共学化の上改称したという来歴は、昨年の青森代表である聖愛に通ずるものがあります。

ところで、古くから私立王国となった石川ですが、それ以前の公立全盛期に双璧だったのが金沢泉丘と金沢桜丘です。各4回の出場は、今なお上記の私立御三家に続く石川県勢4位の記録として残っています。
特筆すべきは、両校が県内屈指の伝統校でもあるということです。金沢泉丘は明治26年創立の石川県尋常中学、後の金沢一中、金沢桜丘は大正10年創立の金沢三中を発祥とします。地方における公立の伝統校の格式は、都会人の感覚からは信じがたいほど高いものです。私は金沢を訪ねたとき、学習塾の校舎に泉丘、桜丘両校の合格者数が大きな幟で掲げられているのを見て、両校の由緒正しさを改めて実感したことがあります。

石川で最後に取り上げるのはおなじみの高専ネタです。同大会には石川高専、金沢高専の二校が出場します。前者は国立で、金沢の東隣の津幡という意表を突く立地が高専らしく秀逸。後者は全国に3校しかない私立高専の一つです。神奈川のサレジオ高専には野球部がないため、地方大会に登場するのは三重の近大高専を合わせた2校のみということになります。

福井
福井といえば、鳥取と並び、例年出場校が32未満となる数少ない大会の一つです。シードされれば即16強、最低4勝すれば甲子園という環境は、4勝してもまだ16強という都市部のチームには天国のように映るのでしょう。しかし、ぬるま湯に浸かっているからといって、福井県勢が必ずしも弱いわけではなく、北陸三県の中では出場回数、勝率ともに最高です。
出場回数に差がつくのは、もちろん一県一代表でない時代があったからであり、その時代に君臨したのが敦賀でした。17回の出場は、22回の福井商に次ぐ2位であり、2校ある次点の7回に大差をつけています。特に戦前は独壇場といった感があり、敦賀商時代の大正14年に福井県勢として甲子園初出場を果たして以来、九年間で八回出場を果たすなど、福井県勢11回の出場のうち10回を占めました。戦後最初の代表となったのも当然ここであり、旧制中学、高等女学校と統合されて現校名となった後も、計6回の出場を果たしています。昭和30年代以降は全盛期の勢いを失うものの、昭和54年、55年と連続出場を果たし、15年前にも代表を獲得しているのが、今やすっかり普通の県立高となった桐生などとは違うところです。

富山ほどではないにしても、公立校が今なお優勢なのが福井大会であり、福井の真打ちといえば福井商です。22回の出場は、福井工大福井、敦賀気比ら私立勢に大差をつけており、今世紀も四連覇を含め13大会中9大会を制しました。つまり、茨城における常総学院のような、頭一つ抜けた存在ということになります。
出場回数が同等以上の公立商業高校といえば、28回の県岐阜商、26回の松山商、23回の徳島商、同じ22回の広島商に高知商の5校があります。しかもただ出場回数が多いだけではなく、県岐阜商、松山商と広島商は全国制覇の経験を持ち、残る2校も選抜の優勝経験を有る名門中の名門です。しかし、これらの錚々たる古豪に比べ、福井商には特異な点が二つあります。
一つは戦績です。南北海道で北海を取り上げたとき、選手権に20回以上出場したチームの中で、同校が勝率最下位であることを紹介しましたが、負け越しているのもその北海と福井商、徳島商の2校のみなのです。選手権では最高が4強1回のみで8強もなし、選抜でも準優勝、4強、8強が1回ずつという戦績は、上記の5校に比べると明らかに見劣りします。
もう一つ顕著に異なるのは歴史です。上記5校は、どれも県内における高校野球の草創期から、盟主として君臨してきたという歴史を有します。それに対し、草創期における福井の高校野球界に君臨したのは前出の敦賀です。戦前における福井商の全国大会出場は、昭和11年の1回のみであり、二回目は37年も後でした。そこから40年の間に、二度の四連覇を含む21回の出場を積み上げたわけです。金沢に星稜など、その時代から台頭してきた私立校はいくつかあっても、公立校がこの時代に頭角を現わし、その後数十年単位で君臨したという例は他にありません。遅咲きの公立校として全国随一の存在といえるのが福井商なのです。

歴代の出場校を語るときに欠かせないのが、福井工大福井とともに7回出場している若狭です。敦賀が低迷期に入った昭和30年代から40年代にかけて、武生、三国とともに三国時代を形勢したのがここでした。実は藩校から続く伝統校でもあり、県内では藤島も同様の歴史を有します。

北陸地方を縦断したところで、四日分の試合結果が集まりました。東海地方へ転戦する前に、明日はこれらの試合結果を振り返る予定です。
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