日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

訪ね訪ねて麻布まで

2012-09-04 22:53:53 | 居酒屋
最近にしては珍しく、少し早めに職場を退けました。まだ一山も二山もありそうな情勢とはいえ、ともかく僥倖には違いありません。帰り道に一杯引っかけ明日への英気を養います。
近年ホームグラウンドの一つと化した感のある麻布十番の中で、意外にも有名どころを訪ねていないと先日申しました。その最たるものが「あべちゃん」だったわけなのですが、今日訪ねるのは聖地というべきもう一つの名店、鳥居坂下の「はじめ」です。何が聖地なのかといえば、居酒屋探訪の教祖と称される太田和彦師が、布教活動草創期の十数年にわたって居住したのが麻布十番であり、しかも当地でとりわけひいきにしていたのがこの店だったというのです。かくも由緒正しきこの店を、信者として一度訪ねずにはいられないということで、今回初の見参と相成りました。

本来ならばいち早く巡礼すべきこの場所に、今まで足が向かなかった最大の理由は、その店構えと世間の評判の二つに集約されます。すなわち、バーのような木戸がいかにも敷居の高さを連想させ、一見で入るのがためらわれたというのが一つ。そしてもう一つが、「とにかく高い」という定評でした。家庭料理を中心としたてらいのない品書きは何を頼んでも外れがなく、質の高さは認めるが、それにしてもこの値段はないだろうというのが、この店に対する世間の評価の最大公約数ではないでしょうか。今や我が世の春を謳歌するかのような口コミグルメサイトのレビューを眺めても、十中八九に「高い」の言葉が並ぶのは、やはり教祖が「東の横綱」と太鼓判を押す仙台の「一心」とこの店だけでしょう。実際のところ、一心については四年前に一度訪ねて、定評通りの高い店という以外の印象がほとんどなかったことから、この店に対しても同じ臭いを感じ取ったという次第です。
しかし、意を決して飛び込むと、木戸の奥に広がっていたのは何とも洒落た空間でした。入ってすぐ右に厨房があり、それを囲むようにやや風変わりなヘの字型のカウンターが8席分設えられ、さらに10人以上は楽に座れそうな多角形の大きなテーブル席がその奥に鎮座して、それがこの店の全てになります。築四十年は経ったであろう古びたビルの一室は何の変哲もない四角形ながら、坂の途中で半地下へ潜るように造られた独特の間口といい、斜め方向に造られた変わった形の客席といい、開店当時は時代の最先端を行く設計だったのだろうということが、建築の素人にも一目で感じ取れます。年代相応の古さにもかかわらず、むしろ斬新さを感じさせるのは、ただ古びるままにされているのではなく、念入りに手入れしながら長く大切に使われているということでもあり、カウンター越しに眺めるオープンキッチンが艶やかに磨かれているのはその証です。決して広くはない厨房に様々な什器が無駄なく配された機能美がよく、ベテラン、中堅、若手に分かれた三人組の板前の立ち振る舞いにも一切の無駄がなく、カウンター周りを鑑賞するだけでも酒が一合呑めそうな気がしてきます。
そんな店で出される品に外れがあろうはずもなく、カウンターに並んだ五つの大皿から選ぶお通しからして期待感が高まります。しかして選んだ茄子とみょうがの煮付けからは、見た目に違わぬ旨味が滲み出て、姿造りにした秋刀魚の刺身の美しさを見るに、そもそも勘定を気にしながら呑むような店ではないということだけは即座に得心できました。黒板二枚にわたる品書きはてらいのない居酒屋のそれで、そのどれもが酒を進ませる品々です。一人酒ではそう何品も選べはしないものの、品書きを隅から隅まで眺めつつ、序盤から終盤までの組み立てを頭の中で何通りも描いてしまうところが、他ならぬ名店の証といえるでしょう。凡庸と聞いていた酒の揃えも、白鷹の本醸造が湯煎で供されるなら何の不足もなく、高尚な地酒をグラスで売る酒場よりもはるかに好都合です。

唯一にして最大の難点といわれた勘定は、十分に腹を満たして新渡戸稲造、もとい樋口一葉でお釣りが来るといった見当で、口コミグルメサイトで聞く平均予算の半分程度で収まりました。安い品ばかりを選んだわけではなく、なじみの酒場と同じ調子で呑み食いした上での結果ですから、内容を考えれば真っ当な価格設定というのが自分自身の印象です。仮に平均予算と同程度の呑み食いをするならば、さらに3000円のうに丼と1500円するかにの味噌汁を追加できます。そのうに丼が、仮に北海道へ行ったとしても2000円はしそうな代物だということを考えると、この店が不当に高い価格付けをしているかのような世間の評価はいかほどのものかという気がしてきました。そんな世間の評価に惑わされ、この店を素通りしてきた自分は、今までかなりの損をしてきたのかもしれません。

はじめ
東京都港区麻布十番1-5-4 藤田ビル
03-3404-8736
平日 1700PM-2330PM(LO)
土曜 1700PM-2230PM(LO)
日祝日定休

白鷹×2
お通し
さんま刺
れんこんはさみ揚げ
おにぎり・なめこ汁
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