日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

四谷赤坂麹町

2012-09-05 22:35:43 | 居酒屋
今日も職場が早く引けました。暇になったのかというとそうではなく、前の工程が滞って先へ進めようがなかったというだけのことで、その分のしわ寄せは後日へ回ることになります。とはいえ、今日余った時間を来週に回すことは当然ながら不可能で、来週は再び修羅場となるのでしょう。せめてもの埋め合わせに、二日続けて帰り道の一人酒へと繰り出します。本日訪ねるのは荒木町の「おく谷」です。

思うに、都心の町でも荒木町ほど独特の風情を放っている町というのもそう多くないのではないでしょうか。車力門、柳新道、杉大門と南北方向へ三本の通りが並び、そこからいくつもの小路が枝分かれして、心惹かれる酒場が軒を連ねる様子は、同じく花街を出自とする神楽坂としばしば比較されます。しかし、幾多のマスメディアに取り上げられて広く知られた神楽坂と違って、この荒木町が同様の場で取り上げられることはまずありません。神楽坂を名所とするなら、この荒木町はさしずめ穴場ということになるでしょう。このような関係として、このblogでも何度か引き合いに出すのが花見の名所と穴場で、高遠城址と伊那公園・春日城址、松本城と城山公園・アルプス公園、五稜郭公園と函館公園など枚挙には暇がありません。そして、これらに共通していえるのは、純粋に桜そのものを鑑賞したいなら、名所よりもむしろ穴場の方が適しているということです。この理屈からすると、呑み屋街の情緒という点で荒木町に勝るものはないといっても過言ではないかもしれません。
その荒木町の中でも、自分がとりわけ心惹かれるのが柳新道であり、その柳新道で最も多く通ったのがこの店です。しかし、語弊を承知でいうなら、それはこの店が荒木町随一の名店だということではありません。思うに、居酒屋の真髄である居心地のよさとは、店そのものの善し悪しもさることながら、その店が並んだ呑み屋街の佇まいにも依存しています。桜の名所が本数や枝振りだけで決まるのではなく、周囲の地形や点景、遠景などによって大きく左右されるのと同様の理屈が、居酒屋にもそのまま当てはまるということです。三本並んだ通りの中で最も細くて薄暗く、車の往来もないこの通りに、活気あふれる大衆酒場は似合いません。立派な一枚板のカウンターを設えた板前割烹も今ひとつです。それではどんな店ならよいのでしょうか。その問いに対する答えを体現しているところにこそ、この店の真価があると私は思います。
まずよいのが店構えで、木造モルタル二階建ての狭い間口をほの暗く照らすスポットライトが、静かな柳新道には似合っています。引戸をくぐれば手前にテーブルが二つ鎮座し、奥の厨房をL字のカウンターが囲んで、十数人入れば満席といった見当です。面積からしてもう少し詰め込めそうなところ、あえて手が行き届く数の客席を設え、だからといって無駄な隙間を作るわけでもなく、ほどよい広さの店内がよい雰囲気を出しています。客席を照らすのは傘を被った電球が四つとダウンライトが一つのみながら、不思議なことに薄暗さは感じず、やはり過不足なく心地のよい明るさです。特徴的なのは簾を随所に使うところで、カウンターの頭上にも壁面にも簾が掛けられて涼感を演出しており、要所要所に置かれた民芸品と鉢植えがよいアクセントを添えています。

しかし意表を突くのは、かくも純和風の店内とは裏腹に、コックの白衣をまとった彫りの深い店主の顔立ちが明らかに洋風寄りだということです。もちろん「東洋人としては」洋風というだけのことなのですが、そんな店主の風貌そのままに、出される品もやや洋風に寄っています。この「やや洋風」というのが重要で、この店でもし純然たる洋食が出てくれば、確実に違和感を覚えることでしょう。今日いただいたラタトゥイユにしてもコロッケにしても、居酒屋の肴として成立するかどうかの際どいところを突いてくるということが総じていえます。居酒屋好きにとっては、会津の名店「籠太」に少なからず存在する洋食寄りのメニューを思い浮かべてもらえば、大筋において間違いはないと思います。
このような品書きで悩ましいのは、酒というよりビールに合うものの方が多いということで、普段は一杯目からいきなり酒ということも珍しくない自分も、この店ではビールから始めるのが常です。もちろん純和風の肴が一切存在しないわけではなく、いきなり酒という通常の選択も不可能ではありません。しかし、黒板の品書きを眺めると「やや洋風」の組み立ては何通りも考えつくのに対して、序盤から終盤まで純和風で貫く組み立てというのは、大抵の場合一つしか存在しないのです。この日の品書きでいうなら、まず平目の昆布〆、次に油揚げ、その次に秋刀魚の肝醤油をいただいて、最後は名物のこしょう茶漬けで締めくくれば、和風の献立としては完璧です。ところが、そんな構想をまとめ上げるには少なくとも10分は必要で、最初の一杯をそこまで引き延ばすこともできません。おそらく一つしかないであろう純和風の組み立てよりも、融通がききやすい洋風の組み立てを念頭に置く結果、一杯目は自ずとビールを選択し、その流れで洋風の組み立てになだれ込み、しばらく時間が経ったところで純和風の組み立てを思いついても、時すでに遅しというのがいつもの流れです。とはいえ、品書きの中で真っ先に目を引かれるのが洋風の肴であるのは事実で、緻密な組み立てよりもその場のひらめきを優先するなら、この店ではやはり洋風を選ぶのが順当なのかもしれません。そんな洋風と和風の間の葛藤は、風情を放つ店構えと並んで、この店を訪ねたときの楽しみの一つでもあります。

おく谷
東京都新宿区荒木町8
03-3351-6451
1800PM-2230PM(LO)日祝日定休

モルツ・明鏡止水
お通し(かぼちゃ煮付け)
ラタトゥイユ
特製かにコロッケ
やきそば
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