水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

1959年、水俣病の終わり(① 見舞金契約)

2006年10月10日 | 水俣病
1959年12月30日、チッソと水俣病患者の間で、見舞金契約が結ばれた。その趣旨は
(1)チッソは、水俣工場からの排水が水俣病の原因とは考えていない。
(2)将来、水俣工場の排水が原因と分かっても、チッソに何も要求しない。
(3)死亡者に30万円、生存者に10万円を、見舞金として支給する。

チッソ側が一方的に有利な契約であった。チッソが水俣病患者の死亡者・生存者に出すのは、一度限りの見舞金であった。チッソは水俣工場の排水には責任を負わないし、チッソの経済的負担をこの見舞金を最後とし、将来はチッソにどれだけの原因があることが判明しても、カネを出さないとするものであった。
働き手が水俣病に罹患した水俣湾の漁民家族にとって、わずかの金額の、たとえ1回だけの最後の見舞金でも、年末の貴重な収入であった。
水俣病はこれで終わりであった。
この見舞金契約が精神的束縛となり、裁判によるチッソの責任追求は、新潟水俣病の提訴(1967)よりも、1年遅れた(1968年6月14日)。
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1959年12月25日、見舞金契約の交渉中、厚生省には「水俣病患者診査協議会」が作られ、水俣病患者の認定作業を行うことになった。
水俣病認定の作業は、チッソの見舞金対象者を確認することから始まり、現在に至っている。誰が見ても水俣病と見えても、認定審査会による認定を受けない限り、チッソからの見舞金を受け取ることができなかった。認定審査会による患者の絞り込み作業は、チッソの支払いをできるだけ少なくすることが目的である。
つまり、見舞金契約で水俣病は終わるはずであったが、見舞金をもらうための認定作業がさっぱり進まかった。水俣病患者の戦いの相手は、チッソから、チッソと認定審査会の連合軍との戦いになった。
このような行政と大企業の連係は、行政(通産省、厚生省)が主体になり、1959年以前には水俣病の原因追求を妨害したり、水俣病認定作業を遅らせるような基準を作ったりした。



写真左が百間排水路方向。いくつかの排水口からメチル水銀が排出されて、百間港にメチル水銀が100トン以上も堆積した。魚介類を通して、水俣湾の漁民とその家族に水俣病を発症させた。
右が丸島排水路方向。途中、メチル水銀が排出されることはなく、丸島港にはメチル水銀は堆積しなかった。しかし、丸島の漁民の中には、百間港で水銀汚染された魚介類を通して、水俣病を発症する者が多かった。



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1 コメント

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Unknown (can hydroxychloroquine get you high)
2021-07-09 17:47:34
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