水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

熊本地裁判決(1973)は間違いだったかも?

2006年10月12日 | 水俣病
水俣湾を埋め立てた親水公園から、恋路島を見ながら、1973年3月20日の熊本地裁の裁判の勝者は誰で、敗者は誰か、ゆっくり話し合った。夕闇がせまる頃、うしろのエコグランドから、谷村新司と大黒摩季の野外ジョイントコンサートの歌声が、せつなく聞こえてきた。




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●熊本地裁におけるチッソの主張
チッソが水俣工場で使用していたのは無機水銀である。触媒として使うとメチル水銀が生成され、それが工場排水中に含まれるとは知らなかった。1950年代、1960年代の化学工業の国際的水準において、アセトアルデヒドの製造工程でメチル水銀が生成されることは知られていなかった。また、メチル水銀が水俣病の原因であることも予見できなかった。したがって、チッソは水俣病に対して責任はない。

◆熊本地裁はチッソの主張を厳しく批判した。
チッソは工場排水による被害者が出た段階で、排水の有害性に気づいたはずである。排水中の有害物質を最高の技術で調べ、排水中の有害物質を取り除かなくてはならなかった。
排水中に何らかの有害物質の存在することに気づいたのに、死者が出るまで何の研究調査も、具体的対策も講じなかったということは、悪質な人体実験である。
化学工場のような有害物質を排出する工場では、最高の科学技術を用いて排水中の有害物質を検出し、有害物質の排出を止めなくてはならない。それができない場合には、工場の排水を止めるか、工場の操業を止めなくてはならない。


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1973年の熊本地裁判決は、間違いだったかもしれない。
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熊本地裁判決は、1950年代の化学工業に、1970年代の知識を求めた。
工場が有害物質を含む排水を海に流すことは、当時の化学工場の常識であった。製紙・鉄鋼・メッキなどの工場は、海に未処理の排水を流していた。自然界には浄化作用があり、有害物質を含む、汚れた工場排水はきれいな水になると思われていた。海が工場排水のために汚染されることは、あり得ないと考えられていた。
レイチェル・カーソン女史の「沈黙の春」は1962年刊行である。川・湖・海が化学物質で汚染される恐怖を描いた。レイチェル・カーソンは、化学実験で考えたのでもなければ頭で考えたのでもない、子宮で考えたのだ、と批判された。
和訳は当初「生と死の妙薬」として1964年に出版された。翻訳は青樹簗一だが、実名ではない。大学研究者としてのポストを失うことを恐れ、仮名で翻訳出版した。
つまり、1960年前後は、日米ともに自然界に放出された化学物質が人体に大きな害を与えるとは、研究者においてさえ、知られていなかった。
それを熊本地裁が、チッソの技術水準で有害物質を発見できる、と判断したことは誤りである。チッソは排水中の有害物質を検出できなかったのであるから、有害物質を除去できるまで操業を中止すべきであった、と厳しく判断する方が妥当だろう。
当時の科学技術の水準はそんなに高いものではなかった。それに民間企業は最大の利益を求める組織体であり、法で禁止されない限り、あらゆる活動が許されるのであり、当時の法体系では、工場排水を河川・湖・海に流すことは違法ではなかった。

1956年 水俣病第一号患者がチッソ附属病院が公表。
1959年-熊本大学医学部が水俣病はメチル水銀中毒と発表。
1962年-レイチェル・カーソン「沈黙の春」、アメリカで発売。   
1963年-入鹿山熊大教授、水俣工場排水中から有機水銀検出。
1964年-「沈黙の春」を「生と死の妙薬」として、翻訳者匿名で発売。


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政府は水質二法による規制をしなかった。これが不知火海汚染の原因であった。
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1958年に「公共用水域の水質の保全に関する法律(法律第181号)」と「工場排水等の規制に関する法律(法律182号)」が制定された。通常は、「水質保全法」と「工場排水規制法」、現在はあわせて旧水質二法といわれる。
旧水質二法は1950年代に顕在化した水質汚染問題、水俣病・イタイイタイ病への対策として制定された。しかし、旧水質二法は問題水域を個々に指定したため、規制内容に徹底を欠いた。当時の経済企画庁は力が弱く、通産省に押し切られる形で、チッソ水俣工場の排水域を、水質二法の適用外とした。
このため、法的にチッソの工場排出を止める根拠を失った。チッソはメチル水銀を含む工場排水を水俣湾に、1958年からは不知火海に流し続けた。
政府は1958年以降の不知火海汚染を止める法的手段はあった。しかし、行政の不作為というより、通産省のチッソ養護の姿勢のため、不知火海にメチル水銀が拡散し、水俣病は不知火海沿岸に拡大した。チッソ水俣工場の排水を法的にあえて規制しなかった通産省の責任は重大である。

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熊本県は漁業調整規則で、工場排水を規制しなかった。これが水俣病拡大の第2の原因であった。
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熊本県知事には、熊本県漁業調整規則32条によって、チッソ水俣工場の排水を規制できる権限があった。権限を行使し、チッソに対し総水銀の「除害設備」設置を命じて、工場排水を規制すべきであった。
しかし、熊本県はチッソ水俣工場の存続を優先し、水俣病拡大をおさえるための行政責任を果たさなかった。水俣病患者の増加よりも、チッソ水俣工場を存続させる方が重要であった。


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水俣病患者は1977年から環境庁の「52年基準」で認定されない限り、チッソの補償を受けられなくなった。石原環境庁長官が、1973年熊本地裁判決を空文化した。
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1973年の熊本地裁の判決でチッソの姿勢が厳しく糾弾された。しかし、水俣病患者は、熊本県の選出した審査委員による水俣病認定という審査をパスしない限り、何の補償も受けられなかい。
水俣病認定審査は最初のうちは大半がパスできたものの、1977年に国が認定基準を設定(52年要件)すると、水俣病の認定審査を通らない人数の方が多くなった。
例えば、1978年は認定125人、棄却365人であった。
1979年には認定116人、棄却657人であった。
水俣病患者の敵は、チッソから、認定審査会に代わった。認定を求める裁判が続出した。
1973年の熊本地裁判決の意義は、認定審査会に伝わらなかった。審査委員会はチッソの補償金を低くおさえるため、認定申請の多くを棄却した。特に不知火海沿岸漁民の認定申請には、非常に冷たかった。
52年基準つまり患者切り捨ての審査基準を設定した時の環境庁長官が、現在東京都知事の石原慎太郎である。


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2004年、最高裁は52年要件は誤りと断定したが、政府は誤りでないとしている。
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2004年、関西水俣訴訟団の最高裁判決で、52年要件全部を満たす水俣病患者ばかりではないと述べた。司法の判断基準では、水俣病特有の症状が一つでもあれば、水俣病と認定できることになった。
しかし、政府は52年要件を存続させる姿勢を変えないことを表明した。この結果、水俣病認定には最高裁のような典型的症状一つでもOKとする場合と、水俣病審査委員会の52年要件(判断基準)のように複数の病状現れた場合には水俣病と認定する場合と、2つの基準が存在する状態になっている。

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政府は52年要件を続けることで、水俣病患者の新規認定をおさえている。
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2006年9月、環境省大臣の水俣病認定についての私的諮問委員会において、委員の柳田邦夫が、水俣病認定審査基準の見直しの答申文を書いた。しかし、環境省職員が環境省見解と異なる答申文は答申文ではない、として、受け取りを拒否。52年要件(判断基準)は存続することになった。
チッソの利益に熊本県・国の財政支援をしない限りは、認定水俣病患者の医療費、年金を払えない。
県・国は財政難のため、水俣病患者の認定を棄却することで、支出をおさえようとしているのである。


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