水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

水質二法はチッソを対象外

2006年10月01日 | 水俣病
1958年に「公共用水域の水質の保全に関する法律(法律第181号)」と「工場排水等の規制に関する法律(法律182号)」が制定された。通常は、「水質保全法」と「工場排水規制法」、現在はあわせて旧水質二法といわれる。

旧水質二法は1950年代に顕在化した、水俣病・イタイイタイ病への対策として制定された。しかし、旧水質二法は問題水域を個々に指定したため、規制内容に徹底を欠いた。工場排水に含まれる鉛・カドミウム・有機水銀などをまとめて規制することができなかった。いわゆるザル法であり、1960年代の阿賀野川水銀汚染(第2水俣病)やイタイイタイ病発生を容認する結果となった。



旧水質二法の制定は1958年、水俣病の原因がメチル水銀と判明する前年の法である。工場排水による海洋汚染が、人間の健康・生命に深刻な影響を与えることは分かっていた。チッソ水俣工場はアセチレンからアセトアルデヒドを製造する、世界最先端技術であったため、水質二法の適用外になった。チッソ水俣工場が適用外になったのは、当時の通産省のトップの方針といわれている。
チッソ水俣工場のメチル水銀放出について、通産省の認識はきわめて甘かった。旧水質二法は、水俣病対策としては、何の役にも立たなかった。1973年の熊本地裁判決では、旧水質二法に関しての行政の不作為が厳しく批判された。
工場排水を一括規制できるようになったのは、1970年に水質汚濁防止法が代替法として制定されてからのことである。
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満州閥というものがある。旧満州国や現北朝鮮あたりで利権を手にして、敗戦で満州国崩壊後には、利権(金品)を手に無事に帰国し、戦後日本の政治経済を牛耳った。利権の源泉は、満州の現地中国人御用商人にアヘン売買の権利を売ったことにあった。その利権の周辺に、植民地主義者が大勢集まった。
チッソを創設したのが野口遵である。野口コンツェルンは、戦前戦中は有力財閥であった。植民地北朝鮮に進出し、安い水力発電を利用して肥料を生産し、北朝鮮・満州農民に販売した。日本にも輸出した。
1958年制定の水質二法を骨抜きにしたのは、満州閥の首相岸信介の意を受けた通産大臣池田勇人であった。池田勇人は1960年の岸信介のあと、首相になって高度経済成長路線を突き進んだが、各地で公害問題・環境問題が深刻になった。



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