TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

ピンポーン♪…の心理

2020年08月01日 | インポート
 バスの中の話である。
子供のころは、自分の降りるバス停がアナウンスされると、他人に押される前に、いちはやく自分でブザーを押すのが楽しみだったという話はよく耳にする。
隣にすわったお母さんが「まだよ、まだよ」と小声で諭している声がうしろのほうから聞こえる。子供のほうは今か今かと、ブザーをつかまんばかりに手をかざし、耳をそばだて、わくわくとその瞬間を待ち構えているのである。
 しかしそんなけなげさは、子供時代だけだ。
 長じると、今度は逆に、いかに自分がブザーを押さないでバスを降りることができるかに心をくだくようになる。ブザーに接触したことによる感染症リスクを避けたい、などという最近始まった話ではない。
降りるのが自分だけだとわかっているならよい。なるべく早く押して運転手さんにお知らせしたい。しかし、同じ停留所で降りる人がほかにもたくさんいるのなら、なるべく自分で押したくない。自分がブザーを押すという労力をはらったのに乗じて、他人が楽をしたとわかると、なんだか損したような気分になるのである。もちろん、たいした労力ではない。あくまでも気持ちの問題である。

 職場の力関係は、時間外の通勤バスの中にまで及ぶ。
副所長や課長などの管理職のかたがたは、わたしたち下っ端が同じバスに乗っているのを知っているせいか、絶対に自分でブザーを押そうとしない。たとえ目を合わさなくても、目の端っこで、存在を確認しているのだろう。通勤電車やバスでの立ち位置や座る場所は、ひとによってたいてい決まっているものだ。
「次は○○です」放送が流れる。
「しーん」
誰も押さない。信号をひとつ越えふたつ越え、職場近くのスーパーが見えてくる。
目的の停留所はもうすぐそこだ。
このままでは、運転手さんは誰も降りないものとみなして、通り過ぎてしまう……と、ついに、いたたまれなくなったどなたかが、耐えかねて押す。
「ピンポーン」
一同ほっとする。降りそびれずにすんだということに対して。そして自分が押さずにすんだことに対して。
朝っぱらから実にばからしい意地の張り合いであるが、それが今日一日の運勢を決めるかのようである。
圧力に負けてつい押してしまい、いざ降りようとすると、自分のあとからぞろぞろと出口に向かって出てくる人々を見ると、なにやら複雑な気分になる。
 そうした無言のさぐりあいがいたたまれないのか、バス停が案内されるやいなや、すかさずピンポンしてくださる同僚がいたが、彼女はこの3月で定年退職してしまった。彼女は保健師という立場もあり、日頃から気配りの人で、そういう性分はこんな場面にもあらわれるのだろうか。
 自分がやらなくても、ほかの誰かがやってくれるだろうという心理は、なにもバスのブザー押し場面だけに限ったことではない。

 一方では、今か今かと待ち構えている子供の存在を知りながら、わざと先に押しちゃうおとなげない気持ちもなんとなくわかるのである。


コメント (2)
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