TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

最後の言葉

2022年04月23日 | インポート
前にも書いたが、かかりつけのクリニックが今月いっぱいで閉院になる。
昨日はその最後の診察であった。
午前と午後の診療の間に行われるミーティングも、最後とあって、順番待ちの列が伸びている。
感染症対策のために15人しか部屋にはいれないのだ。
2週間前に来たときは、16人目で残念な思いをしたので、朝も早よから出かけた。
来月からも、カウンセリングやミーティングは継続予定とあるから、これでパタリと、先生とお別れというわけではないのだが、やはり医師としての先生と会うのは最後。
朝から気の重いことこのうえない。
クリニックの前には7.8人のメンバーが集まって雑談をしている。
どうやら15人枠に入れそうだ。
知り合いの女性と二言三言話す。
それだけで気持ちが落ち着く。

ミーティングでは、順番に話したいことを話し、それに対して先生がコメントをする。
最後とあって、感謝の言葉だけで終わるかた、途中で泣きだすかた、切迫した問題を抱えているので是非とも今日この場で、意見を聴いて帰りたいという気迫がみなぎっているかた、……とさまざま。
今日明日にどうにかしないといけない具体的な問題を抱えていないわたしは(というか、解決しようのない問題ばかりなのだ)、なんとなく居心地が悪くなる。しかしせっかくの機会である。
わたしなりの大事な話をしようと、
「最後ぐらい、よかったね、と言ってもらえるような話題があったらよかったのですが、相変わらずだね、といわれそうなことばかりで………」と前置きをすると、先生やおら、話を遮って(よくあることなのだ)、
「そういえは、TOMATOさん、あなたのいいところを生かした文章はできたかい? いところ、というのは意地悪さです」と。
これまた普通ではあり得ないのだが、イジワル、というのも先生から発せられると、誉め言葉なのである。
「いえ、まだ、その空っぽなので…」と急に場をとられてわたしがどぎまぎしていると、本の出版についての先生のうんちくが始まる。
そして先生だけが話し終わると、それじゃあ次の人、と隣のかたに話す順番がうつる。
……って、わたし、ほとんどひとことも話してないんですけど……とあっけにとられる。(これもまあ、わたしに対してだけでなく、誰に対してもよくあることなのだ)。
しかし考えてみれば、先生は最後だからこそ、その人にとって一番大事だと思われることを先生のほうから話してくれたのだ。
わたしはつい、理屈をこねまわして終わってしまうことが多い。
自分でこの話をしようと計画してきたことが、必ずしも今のわたしにとって必要なこととは限らない。
自分の頭には限界があるのだ。そこを先生は示してくれた。
他者だからこそ見える大事なことを。

ミーティングは、そういうわけで、わたしにとってはちょっとしたハプニングに終わったが、悪くはなかった。

午後からの診察では、ひたすら別れを惜しんで泣き続けて終わり、という展開を夢想したが、やはり、それは(わたし)らしくない。
映画ドライブ・マイ・カーの話なんかをしてみる。
映画には、家族を殺したと思っている人が登場するが、事実はともかく、大事なのは、その人にとっての真実なんだと思う。
わたしもそういう意味では、50年間ずっと、弟の死に責任を感じてきた‥というようなことを話す。
ああ、やっぱり理屈っぽくなってしまった。感情を表現するのは本当に苦手だ。

診察時間もそろそろ、最後に近づく。
カルテにはわたしの歴史がぎっしり詰まっている。
捨ててしまうのは実に残念、無理だろうなと思いつつ、いただくわけにはいかないですよね? と聞くと、それはダメだと即答が返ってくる。同じことをお願いした人がほかにもいたのかしら、と思うほどの素早いお返事。
5年経ったら”溶解”処分するのだそうだ。

そして最後に、先生の近著を差し出してサインを求める。
裏表紙に、いつもの字で、わたしの名前と今日の日付、先生の名前をサラサラと書いて、「毎日を大切に」というメッセージをひと言。
今のわたしに一番必要で、むずかしい課題である。


コメント (2)
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