音楽好き
高校の時が一番、好きだったかなぁ音楽
バンドを組み、手を挙げステージに立ち、5グループくらい真似をされたんだか、競って出た
有志出演。そいつらとも卒業で離れそれぞれ札幌に残るやつ、東京へ出る者、名古屋、東北、弘前の
大学へ行きめだつもの、中には音楽追求するのなら海外だとハワイへ行き、どうしてたか
活動をしていた奴もいると聞いた。
自分は東京へ行ったのは良いが、何をどうして良いか分からず、学園祭に出ようと学祭の
実行委員会を探しステージに立ちたいと申し出る。
フォークコンテストに出て自分をアッピールしょうとするが予選落ち
そのうち、四年が過ぎ卒業の時が否応なくやって来た
ほとんど90%の学友は田舎へ帰り自分は音楽を追求しょうと東京へ残留する。
同期は離れて3人くらいしかいなく寂しい思いをしたな、
ある日、アンを見ていると
「六本木・城・弾語り募集、時給 1000円」と言うのがあった。
オーデションがあり、井上陽水の「心模様」他3曲を歌う、4人くらい応募に来ていたか
自分が採用となる。
◇
そこからだ、今にして思えばチャンスは20回はあっただろう。
「城」は成城大学の「ジョウ」を取り学園の柔道の主将であった、ある書籍会社の社長が
第二飲食部として昔は牧場だった六本木のサイロ を大規模リフォームして開業した会員制の
クラブでツタの絡まるお城の様な風貌の秘密の基地だった。
そこへすぎやまこういち、佐々木勉、そのCBSソニーの兄、文化放送の部長、日テレの重役や
女子アナウンサー、電通、ヤナセ、有名総合商社、モデル、シャンソン歌手など
そうそうたるメンバーが来て夜な夜な歌い踊り飲み、大騒ぎだったのだ。
当時流行りだして来たオールディーズをいち早くコピーし60曲位歌い疲れたあたりから
リズムボックスを使いライブ感を出しバンド風に源調でヘビーに歌った。
乗るわ乗るわ異様なムードだった、入りきれず近くの店に待機してもらう始末
2時閉店まで繁盛していた。
そこで2年だったか社長が来て、君もデビューしたいからこうして音楽をしてるんだろうと
「ツトムに合わしてやる・と呼ぶから自分の思う曲を演奏してみろ」と言われたんだ・・
自作を3曲歌った、途中で もういいと言われ3番目の「愛の季節」を歌ったところ、
黙って考え込む様に聞き入っている。
「ふ~む、これはクラシックの様な感じで中々いいぞ、でもサビの所はいらないな」
と言ってくれたのだ。
帰ってもう感激だった。ホリプロの審査員をしていた先生は色々あり壮年時代に他界された。
思えば自分は手に余るほどのチャンスがあったにもかかわらず、どこか自分から追いかけて
行かなかった。
何といえばいいのだろう、芸能人になりたいんじゃなくてシンガーソングライターになりたい
って思っていたんだ・・。今にしてお見えば「ハングリー精神」あっての世界だ
どこか若くして音楽で食えてしまって「弾語り」で満足してしまった自分がいる。
そこだろう。
◇
先生の言葉も強烈に心に残っている。
「おい、ホッカイドウ、お前はなぜ芸能界に入りたいんだ、うん いいか
お前はホッカイドウでいろ、それでいいじゃないか・・・」
このアドバイスを忘れていない