彼は何を考えどう云うつもりでこの間、また戦後を生き抜こうとしたのか・・
進駐してきたアメリカ軍に対しフレンドリーで日本の戦争の後始末や米の進駐軍支配に協力
して行こうとしていた近衛・・・。
しかし 彼の情報が集まる内に、GHQに呼び出され強烈な取り調べが始まりそれは延々と
吐くまで細かく拷問の様に続けられた。
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彼は天皇家から見れば縁戚にあたり、古くは藤原鎌足の末裔である。
当初 東京帝国大学哲学科で学んだが、それでは飽き足らずマルクス経済学に傾き、共産主義者
の河上肇や被差別(根はユダヤ人の末裔とされる)出身の社会学者米田庄太郎から学ぶため
京都帝国大学へまで転学した。そして社会主義思想に深く傾倒する。
この思想はアシュケナージユダヤが、金貸しとなり1800年代から巨額の資本をあらゆる
手段で構築し国際金融資本家としてロシアに中国に共産主義思想を芽吹かせ蔓延させた。
世界を分断し国と国同士を互いに戦わせ漁夫の利を得ようとするグローバル思想にいつしか
近衛も傾倒していったのである。
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やがて1918年「英米本位の平和主義を排す」を近衛は発表する。
政策研究団体である「昭和研究会」を尾崎秀実、平 貞三、和田耕作らの中心人物として
立ち上げる。
元老・西園寺公望の推薦により第一次近衛内閣を組織する、この時風見 章は内閣書記官長で
ある。
近衛は「治安維持法」違反の共産党員や「二・二六事件」の逮捕服役者の大赦を主張した。
これに西園寺公望は反対しそれは ならなかった。
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深い原因不明の盧溝橋事件が7月7日コミュンテルンの策謀の疑いのもと起き、これを機に
日中戦争が勃発した。
直ぐにこれはいけないと日本本部は支那駐屯司令部・香月清司に対し騒動の不拡大を
宣言して今井武雄らの奔走により停戦協定が締結された。
・・・しかし近衛は朝日、読売新聞、日銀総裁、政財界人らの意見、要望に共鳴し
「北支派兵声明」を出し事実上の紛争続行を許す形をとった。
当然、アメリカ・イギリス等は日本のこの動きを中国を取ろうとする侵略行動と見て日本を
仮想敵国として警戒を強める結果となって行き、ズルズルと日本は引き返せない大きな戦争
に向け軍需産業をフル回転させて行き覇権国イギリスと米国からの貿易で富を蓄え出していた
経済大国への育ち盛りの時期に、大国を敵に回す動きをして行くのである。