自分にとって音楽ってなんだろう・・・
そうだな小さい頃よく音楽が流れていた・・。
当時はラジオ・街の商店放送
今で言えば有線の様なものだろう・・
自然に歌が音楽が好きになっていた幼い頃
考えてみれば当時からポップス・民謡・流行歌は他の子供より好きだった・・。
やがて小学校から中学一年生となり凄く勉強に興味を持ちする様になった
学級委員の会計係りにもなりオール3が、オール4になった
そこへ衝撃が走った
「アゲハ~アゲハ~」と云う歌が流れてきてそれは当時の若い先生・生徒の気持ちや街の
流行歌を一変させた・・
そうビートルズの出現だった
いてもたってもいられず又兄弟も一足先にシングルレコード、LPレコードを月のおこずかい
すべて使い買う
それのレコードジャケット(曲の解説・英字の歌詞が出ている表紙)を持ち
何度も何度も歌い暗記するほど歌を練習した、中にはライチャスブラザーズの曲もあり、
ロック以外も全般的に好きだった。
こうして歌にのめり込み又周りも歌う事やエレキを持ち演奏出来ることがヤングの
ステータスシンボルだった、とてもカッコよく女の子にも当然・モテた
それはあまり気にしていなかったが、当時の女子高生は音楽の出来る男子を
放って置かなかった
全校で一番可愛い子が付き、この音楽で人生を生きよう
真剣に考えたものだ。当然勝負は東京
札幌の短大では不満だった・・。世に出るには東京で四年生の大学に入りステージを増やし
各オーディションに出てアッピールしてきた、大学の4年間は非常にアーチストとしての
修練の期間となりプロ級のものができ上がって来たと思う
当然、自信があったので、バイトもそう云う感じの所へ応募しオーディション審査も通った
本物の芸人・歌手・オペラ人・シャンソンの先生・作曲家・放送畑の超有名人が当たり前に
集う街「六本木」と云う所はそういった様々な本物との出会いやチャンスを作ってくれた。
この世界は自分から売り込んで行かないと当然上には出てこない、チャンスだけではダメなのだ
そんな中何かブレーキが自分にかかっていた。
電通の若い人が「あなたこんな事やっていて人生・良いんですか」と言っていたっけ
裏も表も何でも知っているこの業界のトップの方が、また作曲家の先生が
自分に強く芸能界入りを勧めなかった。
「お前はホッカイドウでいろ」と・・・
冷静に自分の人生を経営業と音楽家と二面性を持って考える様になっていた。
音楽で世界を席巻するより経営でやって行く方が、スリリングでやり甲斐があるのではないか
又、北海道へ戻って来てここでは現実があり、ススキノ以外で音楽で食って行くことなんか
出来なかった、当然何かしないと生活は維持できないので、東京である部長からアドバイス
を受けた「プロパンの販売店を振興住宅地で君はやって見たまえ」その教えを
実践し「ほくさん」に正社員で入った。
そうだな
そこから音楽は捨ててはいないが、作詞作曲活動はライブなど出て続けながら方向性は
経営業にシフトしていった。ネクタイ背広を長い間着て全くの営業マンだった、一方
声もどんどん出る様になりよくカラオケボックスの生ミュージックルームを借りエレキ・
フォークギター持参で、友のドラムを一人呼んで練習したり、ヤマハの防音ルームを借り
作った作品を演奏・動画撮影したりして自分で自分を評価したりしていた。
・・
音楽は自分の人生を豊かにしてくれ交友関係も増え、尊敬されとても良いものだ
しかしこれでプロとして食って行くのは並大抵のことではない。
一時上手くいっても続かないしそれで人生をルンペンの様に終わらせる事はある意味、悲惨だ
経営業の方は自分で法人登記作業を全て行い最近まで潰さないで維持して来ている
・・
半生を振り返りこれで良かったのか、まだ第二幕が俺に有るのかはわからない
だが、歌が異常に好きなことは変わらない・・・
これからも機会があったら有志出演で飛び込むかもしれない
その為に少し余裕も出て来たので、新しいオべーションを買おうかな・・とも
思っている。20万から40万円くらいだろう
平屋の家も建てたいし月賦か中古ギターでもいいか・・・
音楽は自分の貴重な友として、今後もそばにおいておこう