劇場型性格の人

2009-06-30 | 介護日記

事は一本の電話から始まった。
昨日の午後3時過ぎ、私の携帯に父から電話が入った。
病院のスタッフと打ち合わせ中だった私は娘に電話を手渡した。

何の連絡もないことに腹を立てての電話だったようだ。
娘が状況を説明しても聞かず
父はいつものように一方的に話しまくり、
話しながら勝手に興奮し始めたらしい。

「オレを誰だと思ってるんだ!オレは夫だぞ!
夫を差し置いて・・・云々カンヌン」
娘が「私○○だよ、ママじゃないよと言ったら“あわわ”
って何か言おうとしたけどアタマに来たから切っちゃった」

父には何回も明日は一日忙しくなるから我慢してね、と念を押し
当日午前中には娘にもう一度事情を説明しに行って貰ったのだが。

母の検査がまだ続くのでとにかく一度父の所に戻ることにした。
混乱していたら可哀そうだと思った。
それに可愛い孫にそんなこと言っちゃって
きっとバツが悪い思いをしてるに違いないし、と。

家の中は真っ暗で父は布団に入っていた。
「ごめんね、待ってた?具合悪い?」声をかけても返事をしない。
娘が電気を点けた。
「電気を消せエエエ
怒声が響く。

ああ、もうこの先は書けないかな・・・・・

「どこに連れて行った」
静かに説明する
「聞いてないぞ」
静かに反論する。
「本当に行っちゃうと思ってなかったんだああ」
まるで駄々っ子だ、
話しにならないので帰る、と告げる。
「帰る前に元に戻せ、いますぐつれて来い」←おばあちゃんを
「殺すかもしれないぞ」←私を
「勝手に来て勝手な事しやがって」←勿論私
「お前なんか娘でも何でもない」

あああ、もうやめた。
こんな「」の文章ではあの父の芝居じみた罵声は表現できない。

幸いだったのは今まで私にしか向けられたことのない父の本性を
娘がシッカリ見てくれた事だ。

「娘じゃない」と言ってくれたので
「では、縁を切りましょう」と言って出て来た。

売り言葉に買い言葉ではなく本気で言った。
父が生きていく上での援助は最大限する。
あとはもう自分の責任で生きていってもらう。


この数日、眠れなかった理由は何となく分かっていた。
父がどう出てくるか怖かったのだ。
多分こうなるだろうと思ったとおり、否、それ以上の父だった。
パチパチパチ
今日は観客が二人だったから怒鳴りがいがあったでしょう。



家から離れての2ヶ月間の介護生活。
ご近所さんの協力で何とかやってる我家の生活にも限界がある。
何よりも仕事を始めなければこの介護生活は支えられない。
父にはある程度分かってもらえたと思っていた。
母を自宅で看る事は不可能だという事、その理由。
いくつものその理由。

母の介護食をどうするか
トイレのケアをどうするか
酸素と人工呼吸器の管理はどうするのか
歯磨きは勿論身体の清潔をどうするのか
24時間看ていないと生きていけない人を
誰が世話するのか。

母は現実的だった。
私が感傷的になって「家に帰りたい?」と聞いた時
かぶりを振って「無理だね!」と即答、
正直私は心の底からホッとした。
私の住むこの近辺で病院を探す事も検討した。
母は喜んでくれたが、静岡で過ごす方を選んだ。


もういい。
出来る事はやった。

3日には母に会いに行く。
それまではもう何も考えまい。


















お天道さまさま

2009-06-29 | 介護日記

昨日、親戚六人で盛り上がった席で一人朝食をとっている。
介護サービスタクシーや、今日も手伝いに来てくれる娘から電話が入る。
忙しい午後になるだろう。
天気予報を裏切り、外は晴れ。
正面には富士山も姿を現した。
お天道さまも私の味方だもんね!


ここが故郷

2009-06-28 | 介護日記

叔父と母と父と従姉妹たちと私と、法事でも揃わなかったメンバーが病院の喫茶室で写真を撮り合い盛り上がった。

叔父も元の独り暮らしに戻れる見通しはなく、退院後の老健探しにこれから従姉妹たちは奔走しなければならない。

母は明日から療養型病院での生活が始まる。

三人の中では最年長の父が無理を承知の独り暮らしとなる。
7月からは母も居ない。
無論私も居ない。

晩御飯の用意と明日の朝食をセットしての帰り道、土手に車を止めてしばらく安倍川の景色を眺める。

父がこよなく愛する静岡の景色。


やばい!心を奪われた!

2009-06-28 | 猫達や犬やメダカや
庭の隅に井戸がある。
2日前からその蓋の上を毛足の長い真っ黒クロの美猫がネグラにしている。
門扉は井戸の横だから朝出るときどうしても目が合ってしまう
緑がかった金色の目が魅力的
話しかけたくなるのを必死でこらえる
仲良くなったら連れて帰りたくなっちゃうじゃないか
それにしても何て魅力的な猫だ