雲と空  

日々のこと、相撲のこと。

2年目のバレンタインデー

2007-02-13 08:41:12 | 愛すべき家族・隣人たち

 妹が うちのつれあいにくれたバレンタインチョコ。

 
 私が 妹の旦那にあげようと用意してたもの と全く同じだった。



 
 世の中には こんなにたくさんチョコが溢れているのに~~~

 ・・・・これって 2年連続。 
 

謎の女

2006-12-11 08:55:16 | 愛すべき家族・隣人たち
何かのおりに 娘がポロリともらした。

「おとうやんの電話(携帯)に 知らない女の人の写真があったんだよねー」


えぇ!? そうなん!!  

つれあいの携帯は 休日はそこらへんに出しっぱなしなので
見るのは簡単なのだけど 携帯を持っていないので
操作方法のわからない私・・・。

私が扱えないと思って そんな写真入の携帯でも
安心して不用意にほっているか!(ますます悔しい~ 
でも まずは事の真相を確認しなくては。

しかたないので 第一発見者の娘から詳細を聞き出そうとする私。

「どんな女の人やった? 髪型の違うおかあやんとか 知っとー人やないと?」

「いや、知らん人よ。髪が長くて上の方で結んどった。」

(お、それは本当に知らない人だ!!  だ、誰だ!?)


「どんな顔して写っとった?」

「うーん、ふつうの顔。」

(これ以上は無理だな・・・。質問の切り口を変えよう。)


「いつ 見たん? おとうやんが見せてくれたん?」

「いや、○○(名前)が 一人で電話をあけたら写真がでてきたよ。」

(えぇぇぇ~!! 大胆にも待ちうけ画面に使ってるのか!?)


勝手に他人の携帯をいじるのは悪いことと重々承知です。
でも でも でも ちょっとパカッと開いてみるくらい 
そのくらいいいよね? ね? ね?

だって 携帯は すぐそこに出しっぱなしやし・・・。

ドキドキ・・・
勇気をだして開けてみます!
パカッ・・・ 


そこには・・・・!!!!

 動物園で娘がひざのうえにのせたモルモットをなでている写真・・・


はぁ????

横からのぞきこんできた娘が 
「ほらぁ 知らん女の人が写っとるやろ?」


娘のとなりには 小学生くらいの女の子が座っていて
娘のモルモットをのぞいてる。
確かに髪を頭の上で結んでる・・・・。

ま、小学生(低学年)にしては色っぽい顔立ちだけどさぁ・・・
こういう場合普通 「女の人」ではなく「お姉ちゃん」だろうよ・・。

娘に踊らされた・・・。
悪気はないんだろうけどねぇ。 


必見!!

2006-06-15 22:42:26 | 愛すべき家族・隣人たち
世ではさかんに少子化問題が取り上げられています。

「では どうすれば良いのか?」の 話の流れの中で
”小さな子どもを持つお父さんたちが忙しすぎる”のが原因のひとつではないかと
言われています。  (そうだ、そうだ!

仕事が忙しすぎ疲弊した毎日を送ることにより
起こるセックスレスや母親任せの育児。

そう「母親任せの育児」ですよ!!

頼れる実家はない、頼りたい夫は深夜しか帰ってこない(話も聞いてくれない)・・・
子育てが ”孤育て”  になってます!! 
たとえ母親がもう一人子どもが欲しいと思っても
この状況下では 幼い上の子と共に赤ん坊の育児を一人で抱えることが
現実的に考えらず ふみきれない、というのです。 (  まさに、その通りだ!!


毎週の子育てに関する連載の中で 
月に1度くらいは 父親の育児参加の重要性 について
母親の生の声と共に説いてあったり 議論されたりしています。


毎回 それを深く深くうなずきつつ読みながら
これを つれあいにぜひぜひ読ませたい!! と 
切望しているわけであります。


ところがですよ、 なぜだか知らないけれど
こんな記事が掲載されている日に限って いつも彼は寝坊するのです。

そして 新聞を開くこともなくバタバタと出かけていくのでした・・・・


なぜ なんでしょう・・・・。


虫の知らせなのか 動物的勘というのか・・・  悔しすぎます。 








実践:てくてく旅

2006-06-03 23:57:46 | 愛すべき家族・隣人たち
つれあいが 「長崎街道をすべて歩いてみたい」などという
壮大なことを言い出しました。

私が毎日見ているテルの「街道てくてく旅」が影響した?・・・ありえねー。

理由は よくわかりませんが 1ヶ月ほど前に 市内にある
街道沿いで古い町並みを再現保存しているところを見に行ってから
なんだか メラメラ~とやる気の炎が燃えてきたらしいです。(燃えやすいタチ

何でも格好から、道具から、主義の彼は すぐにネットで調べ
同じように歩いている人たちの愛読書、長崎街道歩きのバイブルなるものをピックアップし
早速本屋へ走りました。

で、買ってきました。

たくさん・・・。

合計 1万円もかかっているらしい・・・・。

私が毎日数十円をきりつめて安いスーパーへ行っているのに 
私が1900円の服でさえ 迷いに迷って買わずに我慢しているのに   

彼は
スピード違反したり・・・
本の大量買いをしたり・・・
これから始める趣味の道具をいきなりそろえたり・・・  

ほんの一瞬で 私の1ヶ月の努力を消費(浪費?)します。 

本当に最後までちゃんと歩くんだろうな・・・。(歩かんと承知せんぞ


           


そうやって始まった我が家の「長崎街道てくてく旅」。

今日で2回目です。

今日は 約20kmの距離を5時間かけて歩きました。

娘が自力で歩いている間は あっちフラフラ こっちフラフラ
全然進まないので ベビーカーに載ってくれてからは
結構気合入れて さくさくっと歩きました。




しかし 今日は暑かった~。  

なんで よりによってこんな季節にこんな企画なんでしょう??? 


ま、でも こんな季節だからこそ よりやせられるかも?と
期待を抱いて この企画に乗てみたワタシ。


今日はたくさん歩いたので さぞかしやせたことだろう!と
ワクワクしながら 体重計にのってみました♪



  やせてない・・・ 

 ( むしろ 少し 増えた!? )



あんなに暑い思いして 黒くなって 汗もたくさんかいたのに・・・


2回の休憩がそんなにいけなかったのかー!!


(・・・・ま、2回目はマックポテト食べたけど・・・・。)


う~ん、休憩 入れちゃだめなのかな? (無理です・・・
それとも たまーにたくさん歩いてもあまり効果ないのかな?(やっぱ毎日?


基本的には 毎週土日どちらか1日のみ で 続けていく予定です。
(雨天 は お休み)


あぁ 本当に長崎まで行きつけるのでしょうか?

無事 完歩できた暁には ごほうびに

「松翁軒のカステラを一人で一箱食べる」

という野望を持ってこれからも頑張ります!!(これじゃ、痩せんな・・・ 









じいちゃん

2006-04-27 17:55:21 | 愛すべき家族・隣人たち
サチ☆さんのところを読んでいたら うちのじいちゃんのことを思い出したので 思い出話を少し書くことにします。


うちのじいちゃんはずっと白ふんどしでした。
買っていたのか ばあちゃんのお手製なのか今となってはなぞです。
最後はオムツになりましたが それまではずっとふんどしを通しました。
たぶんパンツははいたことないと思います。明治生まれの頑固者です。

タンスの中には新品のふんどしが2枚くらいありました。
そのとき使っているのがかなりくたびれていたので 
新しいのを使うようすすめたのですが
「これは何かの時に使う!」と 頑なにとっていました。
「何かのとき」って何のときだろう???
勝負下着らしいです。


晩年は ひげをのばしていました。
口の周りに真っ白なひげがふさふさとあってサンタクロース風でしたが
本人は憧れの(たぶん)
「乃木大将のようにしているのだ」と言ってました。



じいちゃんは心配性でした。
私が妹と二人で暮らしていたときは 何かで連絡がつかないことが
2、3度続いただけで 
「まったく連絡がつかないがどうしてゐるのだ。これを見たら すぐに電話しなさい」
と はがきが届いたものです。
アメリカに行っているときは
「わけのわからぬ国なので十分に気をつけて 時がくればすぐに帰ってくるように。」
と手紙が届きました。
”わけのわからぬ国”って・・・・ 




よくしょーもない用事で呼び出されました。 
まぁ寂しいのだろうなと思い 車で30~40分かけていつも出かけてました。
すだれを付けてほしい、とか あまり得意でない用事のときは
そんなことは適任者(父:息子)が隣に住んでいるので
そっちに頼んでくれんかねーと ちょっと困りましたが。

ある日は 「時計をやる」と呼び出されました。
「たくさん持っとるけど わしはこんなにいらん。 少しおまえにやる。」
と 3つの腕時計を出してきました。
うち まともに動いているの1つだけ。
あとの2つは電池切れ、そのうえ表面にひびアリ・・・
まさか たった1つの動いているのをもらうわけにもいかないので
マシなほうのひびアリを1つもらいました。
「1つでいいんか? もう1ついいぞ」って言ってましたけど遠慮しました。
でも そのとき 一緒にばぁちゃんの形見の小さい小さいダイヤ入り指輪もくれました。
「ここに置いといたらそのうちどうなるやもしれん。(確かに 叔母はそういう人なので・・・) 
 今のうちにおまえにやっとく。」と。


呼び出されなくても たまには おかずをちょっとだけ持って
一緒に晩御飯を食べるために訪ねました。
当時じいちゃんのところには毎日ヘルパーさんが来ておかずを作ってくれていました。
ヘルパーさんの手料理はとても美味しかったです。
それなのに じいちゃんはいつも私が持っていったさして美味しくもないおかずから
手をつけてくれていました。
そのとき初めて この人意外と気を遣う人なんだ、と知りました。

たいしておしゃべりもせず 二人で相撲を見ながら
食べていたことが多かったような気がします。

そして いつも「わしはこんなに食いきれん。おまえみんな食え。」と
私にたくさん食べさせてくれました。私はいつもろくなもの食べてないと
思っていたようです。 (一応主婦なのに・・・
そして いつも遠慮なく食べていた私ですが ヘルパーさんは
まさか自分の手料理をこんな歳のいった孫が完食していたとは
知ったらびっくりしたことでしょう。




晩年は多少は穏やかになったじいちゃんも 私が子供の頃は
頑固でひどかったです・・・。

島根の隠岐の島から こちらに出てきて とある店に丁稚(かな?)として入り
修行後 自分でその商売を始めました。
商売上 車はどうしても必要なのですが
教習所の教官と喧嘩してすぐにやめてきたそうです。
あぁ どんなひどい喧嘩をしてきたか 想像できそうです。

その後 息子である私の父が18歳になり免許をとるまでは
ずっと 二人で自転車を使って配達をしていたそうで
それはもう大変だったと思います。

店では よく近所の人と将棋をさしていました。
勝負が佳境に入ると お客さんが来ても
「あんた、ちょっと待っとき」と長時間待たせてたようです。
電話の応対もひどく かかってきた電話に
自分の名前は名乗らず まずは「あんた 誰ね?」  
商売人とは思えないこの応対・・・

それでも まぁまぁ どうにか食べていけていたのですから
そういう時代だったんでしょうね。
あとは まわりの親切な人々にずいぶんと助けてもらったんだと思います。


じいちゃんは ビビリ屋でほんのちょっとしたことでも不安になるので
病院にはよく行っていました。
頭がかゆい とか 膝がかゆい とか・・・。 医者泣かせ?
そのおかげか もともと強靭な肉体を持っていたのか
毎日結構タバコを喫うわりには たいした病気もせず長生きしました。

亡くなる前年 なんとなく体調が悪いということで病院に行ったら
癌だと言われました。 でも 歳が歳で治療のしようもないし
進行もおそいし 何よりビビリ屋なので告知はしませんでした。

幸いたいして痛むこともなく・・・

この頃は認知症が出始めていたので もしかしたら痛みに関してもにぶくなっていたのかもしれませんね・・・

最後は コタツに入っていつものようにテレビを見ながらうたた寝してる・・・と
思ったら あれ? じいちゃん動かん!?
という最後だったそうです。
それまで「眠るように死ぬ」のをドラマで見るたびに「ありえん!!」と思っていましたが あるようです。
3年前の春 じいいちゃんが 92か93のときのことです。
歳は本人もあやふやでしたので。(笑)
生年月日はわかっているので計算すればわかるのですが 面倒なので
まわりも皆いつも幅を持って ○歳か△歳ということにしてました。

特に前兆なんてなかったのですが
父から電話がかかってきたとき もしかしてそうかな、と思いました。
だって 父から電話がある用事なんて他にないし・・・。

急いでかけつけたら じいちゃんは普通の顔して寝てるようでした。
ばあちゃんが死んで以来 寂しそうだったし
その他じいちゃんをとりまくいろんなことを考えると 
変な話ですが ちょっとホッとしました。
もちろん死んだことはとても悲しかったけれど でも なんだか
じいちゃんお疲れさん、これで良かったかもね、安心してゆっくりしな、と思いました。
今頃 天国でばあちゃんや 息子(私の叔父)と仲良く・・いや 喧嘩しながら
暮らしていることでしょう。
 

心残りは最後の数ヶ月 私はつわりで苦しくって外出はほとんどできず
ぜんぜん会いに行けなかったこと。
認知症が出だしてから 電話での話は心もとなかったので
実際に会って妊娠を報告しようと思っていたのに 結局言えずじまいでした。
ごめんね、じいちゃん。
ばあちゃんには タッチの差で結婚も言えんかったしね、
なんだかいつもワンテンポ遅い私です。


妹と二人 4年ほど じいちゃんちで暮らしました。
その頃は 私も子供だったし じいちゃんもまだたいそう頑固で
よくしかられたし 言い争いもしました。
お金を貯めて1日も早くうちを出よう、といつも妹と話していました。
でも あとで振り返ってみると やっぱりよいことばかり思い出しますね。
それに 当時は嫌だったことも過ぎてみれば なんだか笑って語れるように
なるしね。


ばあちゃんが死んで じいちゃんが死んで
私には帰ることのできる場所(実家)というものが無くなったような気がします。
そういえば 妹もおんなじこと言ってたな・・・。
あぁ つまり今の家族を大切にしなければ! 
ってことですよね。へへへ。

そういえば じいちゃんが死んだとき つれあいが私を心配して2日ほど会社を
休んでそばにいてくれました。
その日は出張の予定だったのですが 取りやめて
朝から方々に電話をかけて急遽休むことを謝っていました。
「え?奥さんのお父さんじゃなくて おじいさん!?!?!? で 休むの?」
などとまわりから言われていたようですが・・・。
このことを思うと本当にありがたくてありがたくて 感謝の気持ちでいっぱいです。
そして私も彼のためにもっともっといろいろ・・・と一瞬は思うのですが・・・なかなか。 

なんか センチな思い出話になってしまいました。
近いうちにお墓参りに行こう。
おしまい。