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moiのブログ~日々のカフェ

北欧&フィンランドを愛するカフェ店主が綴る日々のあれやこれや

ヒッピ

2005-11-17 23:34:06 | コラム、というか
ールトが動いた!アールトがしゃべった!ってなにかの宣伝みたいだが、そうじゃない。フィンランドの放送局、YLEのサイトでみることのできるアルヴァー・アールトインタヴュー動画の話だ。

この情報は、サルミアッキとビールを愛する謎の東洋人サルミアッキネンさんからおしえていただいたのだが、この動画がみられるYLEのアーカイヴはかなりおもしろい。くだんのインタヴューは1962年7月2日のニュース番組からの映像で、よくわからないがフィンランド・アカデミーの会長への就任がきまったことかなんかをしゃべっているのだろうか?内容はともかく、アールトが動いている、アールトがしゃべっている、ただもうそれだけで感無量(?!)である。言葉がわからないぶん、あ、笑ってる、笑ってるよ、とかヘンなところに感動のツボがあるのだった。

また、1948年のヤン・シベリウスのインタヴューである。さすがにこちらは音声のみだが、当時83歳のシベリウスは「生涯に眉間に7本のシワを刻みつけた男」の名に恥じないくぐもった声で訥々と語っている。テンション、低いぞー。

だが、個人的にもっとも注目したいのは60'sフィンランドのヒッピー・ムーブメントにかんする映像である。そうか、ヒッピーの波はやはりフィンランドにまで到達していたのか。まちがいなく、この国はヒッピーが生息する最北端だったはずである。いったい、フィンランドのヒッピーの生態はどんなものだったのか。だいたいこんな北国で、ケルアックの『路上』よろしく放浪生活をしていたら、待ち受けているのは確実に「死」である。凍死。あるいは、夏のあいだだけ期間限定でヒッピーだったりするのだろうか。気になるところだ。

それはともかく、ひとつ《発見》もあった。「ヒッピー」はフィンランド語で「Hippi(ヒッピ)」という。ヒッピ、である。長靴下でもはいてるのか、おまえは。

中央線雲!?

2005-11-16 10:52:21 | コラム、というか
状八号線、いわゆる「環八」が通るここ荻窪近辺は、むかしから《環八雲》とよばれる公害の一種が出没することでもしられている。そして、この夏、世田谷~杉並一帯に水害をもたらした記録的な集中豪雨についてもまた、この「環八雲」との関係が云々されている。

で、この雲である。



この日の朝7時ごろ撮影した写真なのだが、これはいわゆる「環八雲」ではない。「環八」とは直角に、ちょうど「JR中央線」の線路に沿って東西方向にのびている。あえていうなら《中央線雲》!?



見渡しても、ほかにはまったく雲が見当たらないのに、なぜか屋根のような帯状の雲がずーっとのびていてただならぬ印象を受けたので、とりあえず写真におさめてみた。秋はいろいろな雲が出現するのでおもしろいといえばおもしろいのだが、そのぶん不穏な印象の雲も多くなるのでまぎらわしい。

あ、とりあえずmoiのCDプレーヤーはいまのところふつうに動いていますので。

いろいろな意味で、やばい

2005-11-15 11:25:27 | コラム、というか
ぶんの書いた字があまりにきたなすぎて、買い物に出たのはよいけれど、肝心の「買い物メモ」が判読不能。

どうやら「○ース」と書いてあるらしいのだが、「ソース」でも「ムース」でも「ジュース」でもない。じゃあ、いったいなんだ?スーパーの真ん中で、メモをじっとにらんでしばし考えてはみたものの、「答え」がどうにも思いつかない。やむなくほかの買い物だけして戻ってきたのだが、いまだにわからない。かといって、いまのところ買い忘れて困ったということもない。

いったいなに書いたんだ、オレ?

グロギ

2005-11-12 12:40:14 | コラム、というか
ィンランドをはじめ、北欧の国々でおなじみのクリスマス・ドリンクといえば「グロギ(グロッグ)」です。

かんたんに言えばスパイシーなホットワインということになるのですが、ワイン以外にもウォッカやアクアヴィット、マデラ酒を加えたり、ジュースをつかったノン・アルコールのものがあったり、またスパイスの種類もまちまちだったりして、いろいろなレシピにあたってみても「これが正しいグロギです」という答えにはたどりつけません。

じつは去年のいまごろも、季節のメニューとしてノン・アルコールの「グロギ」をだそうと思い試作を重ねてはみたものの、どうも納得のゆくものができずけっきょく止めてしまったのでした。

そして、ことしもまた思い出したかのように「グロギ」の試作をはじめました。先日は、リサーチがてら(?!)はじめて「moomin Bakery and Cafe」をたずね「グロギ」を飲んできました(画像)。

まあ、あまりレシピにはこだわらず、moiオリジナルのグロギをつくるつもりで試行錯誤してみたほうがよいのかな?と、いまはそんな感じです。無事完成のあかつきには、近々メニューにもおめみえすることでしょう。

北欧 白夜の湯

2005-11-10 22:40:48 | コラム、というか
欧ブームもついにここまできたか。正直な感想である。

その入浴剤の袋には、大きくこう印刷されているのだった。「北欧 白夜の湯」。袋には雪のつもったログハウス風の建物とモミの木のイラストが、さらにご丁寧なことに屋根の上にはサンタクロースまで描かれている。それだけでも、もうじゅうぶんすぎるほどのインパクトだと思うのだが、そんな程度ではゆるしてくれない。とにかく、ベタな北欧のイメージをこれでもかとばかり押しつけてくるのだ。「雪白 ユキノシタ成分配合」と書いたさらにその横には、わざわざ「ホワイトスノーの色」と念が入っている。ただひとこと言わせてもらえば、横文字に直せばいいってもんでもないだろう、そう言いたいところだ。

ためしに裏をみると、これまた気になる部分に気づいてしまった。「北欧 白夜の湯(愛称)」とある。この「(愛称)」がいかにも意味ありげだ。おそらくは、「登別の湯」とか「草津の湯」みたいに北欧のどこかに「白夜の湯」という温泉郷があって、金髪の老若男女がおそろいの浴衣姿で温泉まんじゅうの湯気の中そぞろ歩いているものと思いこんでしまう輩がいるんじゃないかという配慮からそうしているにちがいないが、はたしてそんな輩がほんとうに存在するのだろうか。よくわからない。フィンランドの地図に「温泉マーク」があったら、まあ、それはそれでうれしくないわけではないけれど。

ただ、たいがいブームとよばれるものがそうであるように、ここにもまたイメージ先行から生じる誤解が存在する。この「北欧 白夜の湯」の袋には「静寂の色と香りでくつろぎ星空入浴」とも書いてあるのだが、残念なことに「白夜」には「星空」は見られない。白夜なんだから。あえて言うなら「北欧 極夜(きょくや)の湯」となるのだろうが、はっきりいってそんな湯はイヤだ。

とはいいつつも、「白夜の湯」につかりながら思わず「はぁ~極楽、極楽」などとつぶやいてしまうぼくに、「ゲイシャチョコレート」をわらう資格はない。

「酉の市」へ行くときは

2005-11-09 23:32:31 | コラム、というか
としもそういう季節になった。「酉の市」である。

たしか去年も書いた気がするのだけれど、「酉の市」は物心ついたときから毎年欠かさず通っている、ぼくにとっていわばもっとも親しみぶかい年中行事のひとつといえる。商売人というわけでもないのに、なぜだか「酉の市に行くこと」はわが家の重要なイベントになっていた。そして子供の時分のぼくにとって、「酉の市に行くこと」はイコール境内に立つ「見世物小屋」とお詣りの後の「外食」であった。毎年「酉の市」を心待ちにしていたのも、まさにこのふたつがあったればこそ、である。

それが「商売人」になって、ぼくにとって「酉の市に行くこと」の意味もだいぶ変わった。切実になった、ともいえる。店を出してからは、それまでの新宿にかわって鎮守の神様である「天沼八幡」の「大鳥神社」に出かけるようになった。それでもやはり、「ささやかな楽しみ」としてお詣りの後にはどこかで食事を済ませてから帰るのだけは相変わらずだったけれど。

ことしも、「一の酉」だったきょう、店を閉めてから「酉の市」へと出かけるつもりでいたところ、お客さまのおばあちゃんの口からある衝撃の事実(?!)が告げられたのだった。いわく、「『お酉さま』で熊手を買ったらね、寄り道なんかしないでまっすぐ家に帰らなきゃダメよ。寄り道するとね、せっかくの「福」をそこに置いてきちゃうことになるからね」。ガーン!!!というわけでおばあちゃんも、買った「熊手」をいったん家に戻って置いてから、わざわざmoiに来てくださったのだという。いや、べつに帰り道に寄ってもらっても全然よかったんですけど・・・などと心のなかでつぶやきつつ、そうか、そうだったのか、道理でね、と妙に納得してしまったのだった。

そんなこんなで、当然まっすぐ帰りましたよ、家に。授かったばかりの「熊手」をしっかり抱きかかえるようにしてわき目もふらずに。でも、そんなときに限って魔が差すとでもいうか、不意にビデオが借りたくなったり、コンビニでなにか買わなきゃいけないような気になったりしてまったく油断もスキもあったもんじゃない。あぶないあぶない。邪念を払い払いしながら無事、家に到着!

さてさて、驚愕の新事実に揺らいだことしの「酉の市」、果たしてそのご利益やいかに。

コーヒーなみなみ問題

2005-11-07 18:09:43 | コラム、というか
moiでは、カップになみなみとコーヒーが注がれてでてくるのか、という問題です。

なんか飲みにくいなと感じているかたもいらっしゃるかもしれませんが、はじめにひとくち、ストレートで味わっていただきたいからというのがその答えです。といっても、べつにコーヒーに砂糖やクリームを入れないでほしいと言っているワケでは、断じてありません。お好きなようにたのしんでください。実際ぼくだって、ときには気分次第で砂糖やクリームを入れて日々のコーヒーをたのしんでいるのです。

とはいえ、コーヒーの味は千差万別です。酸味の強いもの、苦みの強いもの、すっきりとしたもの、濃厚なもの・・・。おそらく、ふだん砂糖やクリームを使われるかたは習慣的に、あるいはほぼ無意識のうちに一杯のコーヒーに対して使う砂糖やクリームの量を決めていらっしゃるのではないか、そんな気がします。けれども、その味に少なからぬ幅のあるコーヒーに対して、たとえば「角砂糖をふたつ」といったモノサシでは、つねに安定して「じぶん好みの味」をつくりだすことは容易ではないはずです。

ところが、moiではなみなみとカップにコーヒーがつがれているため、いきなり砂糖やミルクを入れると、場合によってはコーヒーが器からあふれてしまいかねません。そこでやむなく、最初にひとくちだけストレートでコーヒーを口にふくむことになります。「あ、わりとスッキリしてるな」とか「お、けっこう苦いな」とか。そして、そんな「味」の印象をいったんつかんでいただくことが、なにより「じぶん好みの味」をみつけるための近道だと思うのです。「いつもよりほんのちょっと砂糖を少なめにしよう」とか「クリームは多めのほうがよさそうだな」とか、いろいろ調節してみるたのしさもそこにはあるかもしれません。いままでその味にピンときていなかったコーヒーも、ちょっとした配合のバランスで好みの味に変わってしまう、そんなことだってあるのです。

というわけで、moiではコーヒーがなみなみ、なのですね。でも「なみなみ」すぎて、席まで運んでゆく途中、勢いあまってすこしこぼしてしまうことがときどきあります・・・スイマセン・・・。

数字にみるフィンランド?!

2005-11-06 23:50:05 | コラム、というか
に帰ったら、テレビで倖田來未というひとが97万枚もCDが売れたのにチャートの第一位になれなかったと悔しがっていた。

それにひきかえ、このあいだ紹介したフィンランドのバンド「Quintessence」は、CD8,000枚を売り上げただけで国内チャートの第8位になったらしい。

いかにもフィンランドの小ささを如実に物語るデータではある。

インカの絵

2005-11-05 16:25:44 | コラム、というか
れはインカの絵。当時3歳だったフィンランド人の女の子、「インカ」が描いてくれたものだ。



顔のように見えなくもないが、顔ではない。なにかというと、森と湖、夏のフィンランドの風景を描いている。そのときぼくら大人たちは、「ケサモッキ」と呼ばれる、フィンランド特有の素朴なサマーハウスについて話していたのだった。そのかたわらで、インカがおもむろに描きだしたのがこの絵だ。どうやら左はしの黄色い四角形が「ケサモッキ」であるらしい。

描きおわったこの絵をインカはプレゼントしてくれたのだが、じつはこの絵は「完成品」ではない。いや、もらったときはたしかに「完成品」だったのだが、すっかり「完成品」ではなくなってしまったと言うべきだろうか。なんか禅問答のようになってきたが、そうなのだ。そうとしか言いようがない。

その絵は最初、濡れていた。正確に言うなら、「濡らした絵」をくれたのだ。つまり「湖を描いたのだから、それは濡れていて当然だ」、そうインカはかんがえたのだろう。だからって本当に水で濡らすことはないだろう、そう思わなくもないが、そこがこどもの発想のすごいところである。かつてダリは「ロブスター柄のTシャツをつくって、本物のマヨネーズをつけて売ろう」と仲間たちに提案したそうだが、そうなるとダリはこどもで、こどもはダリなのかとますます禅問答めいてくるのだが、そんなことはまあどうでもいいことである。ただ、パフォーマンスという名前の「作為」がないぶん、こどもの絵のほうがずっとインパクトがあるとかんがえてしまうのはぼくだけだろうか。

そのインカもいまや7歳、小学生である。パワフルな「味」が、彼女の絵から消えていないことを祈るばかりである。

こどもの絵

2005-11-02 12:41:06 | コラム、というか
どもの描く絵がすきだ。それは、たとえば街でこどもの絵をあしらったジャケットのレコードなどを見かけると、内容にかかわらずついつい手にとってしまっている自分に気づくといった調子だ。

こどもの絵には「味」がある。「ヘタ」ではない、「味」である。「下手」というのは、いっぽうに「上手」という意識があって、それに対して「ヘタだ」ということにほかならない。けれども、無心に描くこどもにあって「上手」という意識は存在しない。だから当然「下手」も存在しない。すべからく「味」である。たとえば「ダダ」と名乗るひとびとは、この「味」に芸術的価値を見ようとした一群であったろう。けれどもその「試み」が成功しているとは言いがたい。というのも、かれらが描く絵はたいてい分別のある大人が作為的に「下手」に描いた絵にしか見えないからだ。こどもの絵は、こどもにしか描けないところに価値がある。

このあいだ、一冊の古本をみつけた。『子どもの絵-成長をみつめて-』という本だ。東山明と東山直美というひとの共著である。読み始めてまもないのだが、読んでいていろいろと発見があった。

まず、こどもの絵の表現をとおしてその発達過程をみてゆくと、成長までにいくつかの段階があるという。その過程は、あるいは「味」から「下手」へともいいかえられるかもしれない。はじめの段階は「なぐりがき」である。これはこれで「味」がある。つぎにあらわれるのは「円や線」だ。円と線だけで描くもっとも原初的な人物画(たいていは「おとうさん」だったり「おかあさん」だったりする)はこの時期に登場する。そして「認識力」の段階がつづく。数の認識が絵に反映されるようになるのがこの時期だ。「下手」の芽生えかもしれない。「正しい認識」イコール「正しい絵」という「ものさし」が、おとなから押しつけられるようになるからだ。あとは「空間関係」、「自己主張」、「写実・客観性」そして「持続力」へとこどもの絵は《発達》を遂げてゆく。

ここでぼくがおもしろいと思ったのは、「認識力」の段階である。「数」をおぼえることで、こどもは、それまで三本だったり七本だったりした手の指を「指は五本」という認識にしたがって絵を描くようになる。けれどもここがいかにもこどもらしいところなのだが、こどもの認識力はじぶんが興味をもったものごとにしか向けられない

それは、この本に登場するK子(四歳九ヶ月)が描いた「おとうさん」の絵である。指は両手ともにきっちり五本ずつ描かれている。ところが、だ。どうしたことかK子は、「おとうさん」のスーツのボタンを「20個ぐらい」描いてしまったのだった。どういうスーツなんだ。K子にはボタンの数は興味がなかった。そういうことなのだろう。すごいじゃないか、これぞ「こども」だ。「興味ないしー」とか言って無視しようとする「おとな」はすくなくないが、興味がないからといってボタンを20個も描いてしまう、それが「こども」の底力である。

分別あるおとなであるところのぼくとしては、こどもの絵に対してはこう言うほかない。こどもの絵はパンクだ。