紙モノ好き、そういう種族がいるらしい。っていうか、ほかならぬぼく自身がそうなのだけれど。
「紙モノ好き」というのは、よく店の片隅に無造作におかれているようなフライヤーのたぐいをチェックせずにはいられない、そういう人々のことである。ライブであろうと映画であろうと、あるいはさまざまなイベントであろうと、そのフライヤーが伝えようとする「情報」以上に、ぼくはもしかしたらフライヤーそのものがすきなのかもしれない。フライヤーに充溢する一球入魂な感じがすきなのだ。フライヤーは、いうまでもなく「目的」ではない。映画なりライブなりイベントなりに「関心」をもってもらい、そのうえ実際に足を運んでもらう、あるいは買ってもらうことこそが真の「目的」である。だからフライヤーのつくり手は、一枚のちいさな紙のうえであらゆる手練手管を尽くしその「目的」を果たさんとする。どんな写真、あるいはイラストを使うのか、どんなフォントをえらぶのか、そのひとつひとつに全神経を集中する。当然、そうしてつくられるフライヤーの完成度は高くなる。ときには、じっさいのイベント以上にフライヤーのほうが魅力的だったなんていうパラドックスだって起こりかねない。たとえばレコードやCDの「ジャケ買い」なんかも、そういう意味では「紙モノ好き」のなせるワザといっていいんじゃないだろうか。
さて、そんな「紙モノ好き」にとってはこのうえなく光栄な機会が先日めぐってきた。来月リリースされるあるCDのフライヤーのために、コメントを寄せてほしいという依頼だった。もちろん、快諾したのはいうまでもない。いやいや、このCDはホント内容も折り紙付きなのだから断る理由もなかろうというもの。「紙モノ好き」の名にかけて(?!)一筆入魂にてあたらせていただきましたよ。どうか、よりたくさんのひとの「耳」にとどきますように。
「紙モノ好き」というのは、よく店の片隅に無造作におかれているようなフライヤーのたぐいをチェックせずにはいられない、そういう人々のことである。ライブであろうと映画であろうと、あるいはさまざまなイベントであろうと、そのフライヤーが伝えようとする「情報」以上に、ぼくはもしかしたらフライヤーそのものがすきなのかもしれない。フライヤーに充溢する一球入魂な感じがすきなのだ。フライヤーは、いうまでもなく「目的」ではない。映画なりライブなりイベントなりに「関心」をもってもらい、そのうえ実際に足を運んでもらう、あるいは買ってもらうことこそが真の「目的」である。だからフライヤーのつくり手は、一枚のちいさな紙のうえであらゆる手練手管を尽くしその「目的」を果たさんとする。どんな写真、あるいはイラストを使うのか、どんなフォントをえらぶのか、そのひとつひとつに全神経を集中する。当然、そうしてつくられるフライヤーの完成度は高くなる。ときには、じっさいのイベント以上にフライヤーのほうが魅力的だったなんていうパラドックスだって起こりかねない。たとえばレコードやCDの「ジャケ買い」なんかも、そういう意味では「紙モノ好き」のなせるワザといっていいんじゃないだろうか。
さて、そんな「紙モノ好き」にとってはこのうえなく光栄な機会が先日めぐってきた。来月リリースされるあるCDのフライヤーのために、コメントを寄せてほしいという依頼だった。もちろん、快諾したのはいうまでもない。いやいや、このCDはホント内容も折り紙付きなのだから断る理由もなかろうというもの。「紙モノ好き」の名にかけて(?!)一筆入魂にてあたらせていただきましたよ。どうか、よりたくさんのひとの「耳」にとどきますように。