moiのブログ~日々のカフェ

北欧&フィンランドを愛するカフェ店主が綴る日々のあれやこれや

ショーロの祭典

2004-10-31 23:29:56 | コラム、というか
ョーロという音楽、ご存知でしょうか?

『ボサノヴァ』の林さんのテキストからかいつまんで紹介すると、日本でいえば明治時代、当時ポルトガル人が支配していたブラジルで突然変異的に生まれた音楽、それが「ショーロ」です。その音楽のベースとなっているのはヨーロッパの伝統的な舞踏音楽、つまりワルツやポルカといったクラシカルな音楽ですが、黒人奴隷たちが演奏することによって、そこに切れのいいリズムや即興といった要素がくわわり、いつしか独自なスタイルをもつ音楽に変身してしまったというわけです。ちなみに「ショーロ」という名前は、ポルトガル語の「ショラール(=泣く)」を語源にもつそうで、その音楽の特徴をまとめれば、「泣きのメロディー」をもち、インストで演奏されるブラジル独自のダンスミュージックということになります。またその音楽は、その後に誕生するサンバやボサノヴァのルーツのひとつともいわれており、前出の林さんの表現をかりるなら「晴れた日のカフェのBGMとして活躍しそうな、濃いコーヒーに似合う音楽」でもあります。そういえば、ショーロの名曲をあつめたCDに「カフェ・ブラジル」なんてタイトルのもありましたっけ。moiでもときどきショーロをかけていたりするので、あるいは耳におぼえのある方もいらっしゃるかもしれません。

すっかり前置きがながくなってしまいましたが、そんなショーロをたっぷり聴くことのできるコンサートがひらかれます。その名もずばり『ショーロの祭典』(11/17 WED 三鷹市芸術文化センター「星のホール」)。「ブラジル風バッハ」で知られるブラジルの国民的作曲家エイトール・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa=Lobos)の没後45周年を記念しておこなわれるイベントです。国内で活躍する5つのショーロ・バンドと、この日のために特別に編成されるアンサンブル・ヴィラ・ロボスが登場します。ヴィオラォン(ガットギター)やバンドリン、カヴァキーニョといったブラジル音楽には欠かせない楽器にくわえて、フルートやヴァイオリンも活躍する「ショーロ」は、クラシックやジャズを好んで聴くひとにもじゅうぶんチャーミングなはず。チケット料金も手ごろなので、なんとなく気になったかたは足を運ばれてみてはいかがでしょう。

余談ですが、ここでちょっとプチ・トリビア?!
公式サイトにある、このイベントを企画したギタリスト阿部浩二さんのポートレイト(「アー写」ってヤツですね)は、じつはmoiで撮影されたものです。へぇ~、へぇ~、へぇ~・・・。というわけで要チェック!ちなみに阿部さんは、日本を代表するサンバ・バンド「バランサ」のギタリストとして国内はもとより、本場ブラジルなどでも演奏しているほか、ライブではバンドネオンの小松亮太クレモンティーヌらとも共演している名プレイヤーでもあるのです。

というわけで、「ショーロ」という音楽のこと、すこし知ってもらえたらうれしいです。

gooブログ セレクション掲載中

2004-10-30 00:00:01 | コラム、というか
gooブログの公式サイト『gooブログ セレクション第7回』で、「moiのブログ~日々のカフェ」を紹介していただきました。

ブログをはじめたいきさつや、「店主」として書くことのおもしろさ、むずかしさなど、いつものごとく「語って」おります・・・。ご興味のあるかたはぜひ、のぞいてみてください。

このブログは、いわばmoi「支店」のようなものかな、とぼくはかんがえています。「支店」をおとずれた方が、「よし、こんどは『本店』にもいってみよう」とおもってくださったり、反対に「本店」をよくたずねてくださる方が「支店」にまで足をのばしてくださったり、そんなふうに行き来してもらえるようになればいいなとかんがえているのです(じっさい、そんな方も多いのはうれしいかぎりです)。

カフェにとって、「お茶をのんでいただくこと」を「あんこ」にたとえるなら、インテリアやBGMなど「雰囲気づくり」にあたる部分は、さしずめ「皮」のようなものといえるかもしれません。つまり、「あんこ」と「皮」の絶妙のバランスがあってはじめて、「カフェですごす時間」は特別な時間になれるのです。そうして願わくば、moiはそんなうまいまんじゅうのような店でありたいといつもかんがえているのです。

芸術の秋ですね

2004-10-28 23:39:41 | コラム、というか
もいよいよ深まり、アートをたのしむにはますますいい季節になってきましたね。というわけで、ちょっと興味をそそられるアートイベントをふたつほどご紹介しようとおもいます。

ひとつめは、西麻布のアートスペースSuper Deluxeでひらかれるイベント『EU文学祭・西と東の出会い』(11/7 15:00-23:00)です。これは、EU議長国であるオランダを中心に、加盟国であるイタリア、ドイツ、アイルランド、リトアニア、エストニア、そしてフィンランドの「作家」や「詩人」たちが母国語により自作をライブで朗読するとともに、それを島田雅彦、白石かずこら日本の「作家」「詩人」がその邦訳を朗読、紹介するという企画です。さらに「朗読」のあいまには「ミュージシャン」というよりは、むしろ「音響作家」といったほうがふさわしいパードン木村によるライブ演奏がはさみこまれます。ちなみに、フィンランドからは『ウンブラ/タイナロン』、『木々は八月に何をするのか』(ともに末延弘子訳・新評論刊)など日本でもいくつかの翻訳を通して紹介されているレーナ・クルーンが参加します。個人的には、リトアニアの詩人/映像作家で『リトアニアへの旅の追憶』で知られるジョナス・メカスに興味があります。
●詳しい情報は、こちらをごらんください。

つづいては、東陽町のティアラこうとう・小ホールでひらかれる向井山朋子ピアノリサイタル『for you』(11/9,10,11)です。現代音楽のスペシャリストとしてオランダを拠点に活躍するひとだけに、そのリサイタルも一筋縄ではいきません。なんとそのコンサートは、たったひとりの「聴衆」のためだけに演奏されるのです。各日10名限定、ひとり15分というルールにのっとって開催されるこのリサイタルで、客席にたったひとりだけの「聴衆」は、「音楽」を介して「アーティスト」と文字通り一対一の親密な対話をおこなうことになるのです。世界でたってひとりだけが耳にすることのできる音楽。それをいったいどんなふうに受けとめるか、それはまさに「聴衆」次第というワケです。「音楽」という時間芸術ならではの〈冒険的な試み〉といえそうです。なお、「お客さまがおすすめの江東区内の場所/空間」(!)での対話メインのワークショップという試みもあるようです・・・
●詳しい情報は、こちらをごらんください。

次回は、「おすすめイベント・スポーツの秋」編をお送りする予定です(ウソ)。

『ボサノヴァ』

2004-10-27 23:51:00 | コラム、というか
サノヴァを、こじゃれた音楽の代名詞のようにかんがえているひとって多いのではないでしょうか?だから、ボサノヴァはひとつの「生き方」であるなんて言ったら、ちょっとびっくりしてしまうひとだっていないとは限りません。でも、このちいさな本『ボサノヴァ』アノニマ・スタジオ刊)を読んで、いつ、だれが、どこで、どんなふうに「ボサノヴァ」をつくり、育てたのかということを知ると、つい気取ってそんなふうに言いたくなってしまうのです。

ボサノヴァを聴くのにぜひ知っておきたいエピソードや貴重な写真などが満載のこの本は、ボサノヴァが好き、あるいは気になるというひとにとって、まさに格好の「入門書」といえます。けれども、ぼくがこの本をおススメする理由はもっとべつのところにあるのです。ひとことで言えば、この本『ボサノヴァ』には「空気」や「匂い」があります。ボサノヴァが誕生した1950年代後半のリオの街のざわめきや、そこで暮らす若者たちの生活ぶりが活字をとおして伝わってくるようです。そして読みすすむうちぼくらは、最初ちいさなひとつの「点」でしかなかったボサノヴァが、その波紋をぐんぐんひろげて世界中を巻き込んでゆくさまを〈目撃〉するのです。

そしてもうひとつ、ボサノヴァを育てたのは「ひと」なんだというのもまたこの本から知ったことです。ボサノヴァの波紋は、「ひと」と「ひと」とをつなぎながら、それを原動力にどんどん大きくなってゆくのですね。「友情」や「恋愛」がボサノヴァを育んだ、そんなふうにも言えるかもしれません。ボサノヴァにおおらかさやある種の〈ヒューマニズム〉を感じるとしたら、それはきっとそういうことなのでしょう。

とにもかくにも、このちいさな本を手にいれれば、耳なれたはずの「ボサノヴァ」が俄然おもしろくなることまちがいなしなのです。

B5ブックス編『"BOSSA NOVA"』(アノニマ・スタジオ刊)はmoiでも好評発売中です(1,250円+税)

祝100回(だったのに)

2004-10-26 23:42:06 | コラム、というか
ょうはこのブログの、記念すべき(?)100回めのはずだったのだが・・・よくよくかぞえてみれば、きょうは第101回。どうやら単純な計算ミスをしていたようだ。と、いうことは・・・記念すべき第100回のネタが、うっ、キダ・タローだよ!しまった。みなさんもぜひ、しっかり胸に刻み込んでいただきたい。すなわち「100回めは1回しかやってこない」

話はかわって、マリメッコのテキスタイルでもおなじみのデザイナー脇阪克二さんは、毎日はがきに一枚絵を描き、それを自分あてに投函するのだそうだ。その日その日に感じたことをもっともうまく表現するための方法としてはじめたというその「日課」はすでに15年目にはいり、手元にかえってきたはがきもすでに6,000枚ちかくになるという(ちなみに、moiで販売している脇阪さんのポストカードは、その「6,000枚」からセレクトされたもの)。

脇阪さんをみならってというわけでもないのだけれど、このブログもいちおう「一日一ネタ」を目標としている。なにか書かなきゃという「目」をもって見れば、ただぼんやりとながめているよりも、はるかによく世界を見わたすことができるかもしれないとおもってはじめはしたのだが・・・。ぼくについていえば、「書くこと」で、ただ「見っぱなし」だった世界はようやくじぶんの「経験」として生きられ、その一部になる、そんな実感がある。いってみれば、ぼくにとって「文字」とは、カメラマンにとってのファインダーのようなものかもしれない。カメラマンが、ファインダーによって世界を切り取るように、ぼくも文字で世界を切り取る。そしてそれは、ときにかなり恣意的ではあるけれど。

腕のわるいカメラマンのようなこのブログではあるが、「100回」に調子づいたところで、もうしばらくはつづけてみたい、そんなふうにかんがえている。

夢の話

2004-10-25 23:09:09 | コラム、というか
うべみた夢の話でお茶をにごそうなんてちょっと安易かな?とも思いはするのだけれども、あまりにも愉快な(ボク的に)夢だったもので、すぐに忘れてしまうというのもなにかもったいない気がしてこうして書いている。

その夢の中で、ぼくはある映画の「特集上映」の企画を実現すべく東奔西走しているのだった。それは、「浪花のモーツァルト」ことキダ・タロー先生が「音楽」を担当した作品ばかりをあつめた「特集上映」であった。ぼくはあこがれのキダ・タロー先生に面会し、情熱的に説得した。そのかいあって、キダ先生はこの企画に快諾してくださったばかりか、そら色の専用リムジンでぼくをつぎの目的地まで送りとどけてくれまでした。しかも、そのリムジンを運転しているキダ先生の「付き人」というのが、なんと「力士」の高見盛なのだった。まさにセレブの嵐である。プランナーであるぼくは次なる段階、つまり配給会社の説得へとむかう。担当者は男女2名、手応えは十分といえた。とくに女性担当者はかなりノリ気な様子で、こう言った。「だって、いま『お笑いブーム』だもんね」。「浪花のモーツァルト」をつかまえて「お笑いブームだもんね」はないだろうと思ったが、気づけばぼくもあいづちをうち、同意しているのだった(キダ先生ごめんなさい!)。

夢というのは、ふだんから気になっていることがあらわれるものだと、以前どこかで耳にしたおぼえがある。たしかにここしばらく、ぼくはキダ・タロー先生のことが気になっている。廃盤になってしまったCD『浪花のモーツァルト キダ・タローのすべて』をずっと探しているし、やはり絶版になっている著書『コーヒーの店・大阪』も欲しくてしかたない(どこかで見かけた方は、ぜひご一報を!)。だから、夢にキダ・タローがあらわれたとしてもさほど驚きはしないのだけれど、いっこうにわからないのはなぜ?高見盛???

「夢判断」にくわしい方がいたら、ぜひおしえていただきたいものである。


西瓜糖

2004-10-24 23:16:56 | コラム、というか
めて一年にいちどくらいは、初めて口にするたべものと出会いたいものだ。見ただけで味が想像できてしまうというのではなんだかどうもわびしいし、そもそもいろいろな味覚と出会ってみたいという素朴な欲求のようなものもある。

きょうは「西瓜糖(すいかとう)」というものを口にした。もちろん、うまれて初めての経験だ。「西瓜糖」といってまっさきに思い出すのは、リチャード・ブローディガンの小説『西瓜糖の日々』であり、おそらくはそこから名前をつけたとおもわれる阿佐ヶ谷のカフェギャラリー「西瓜糖」のことである。そもそも、そういうたべものが、しかも日本に実在しているなんてことはぜんぜん知らなかった。そんな話をしたら、お客さまで「ジオライフ」という天然素材の食品をネットで販売されているKさんが、さっそくもってきてくださったのだ。

Kさんの話によると、「西瓜糖」というのはすいかの果汁を、砂糖などの甘味料を一切くわえることなく、ただひたすらことことと5時間ほど煮詰めたもので、利尿作用のある健康食品として各地で食されているのだそう。ちなみに「ホットケーキ」でやたらと有名な神田須田町のフルーツパーラー万惣では、ずいぶんむかしからこれを製造・販売しているとのこと。これも初耳。

一見したところ、「西瓜糖」は赤茶色をしたジャムのようにみえる。スプーンにすくってちょっとなめてみると、砂糖を一切使っていないとは思えないじゅうぶんな甘味がある。けれども、けっしてしつこい甘さではない。味は、・・・う~ん、すいかの味という印象はない。むしろ、キャラメルのような素朴なこうばしさがある。たしか麦芽でつくった水飴というのがこんな風味だったような気がするのだけれど・・・あまりさだかではない。Kさんにすすめられるまま、ミルクにティースプーン一杯弱ほどの西瓜糖をとかしこんで飲んでみたところ、なるほどキャラメルティーのようなまろやかな味がした。

小説を書くにあたってブローディガンが、はたしてこれとおなじものをイメージしていたかどうかはナゾだけれど、もっと奇想天外なものを想像していたぼくとしては、「あ、意外に食べれる!」なんて、まさに百聞は一見にしかずな感想をいだいたのだった。

※写真は「ジオライフ」様よりおかりしました。

無題

2004-10-23 23:48:24 | コラム、というか
曜日だというのにきょうはやけに静かな一日で、売上をおもうとなんともアタマのイタい一日ではありましたが、そのぶんいろいろな方々といろいろな話がのんびりできてたのしい一日でもありました。おつきあいいただいたみなさま、ありがとうございます。とりわけ、神戸からおみえの「地図が読めない女」さんには、いっしょに記念写真まで撮って(撮らせて?!)いただき、ありがとうございました。せめて旅が終わるまで「消去」されないことを祈っております。

それにしても、夕方の地震はかなり深刻な被害をもたらしているようです。ここ東京でもかなりの揺れを感じました。「余震」がなんどもあって、そのたびに火を消したりつけたりと右往左往していました。ただし、まずじぶんが避難した後で、おもいだして火を消しにゆくというじぶんの行動に、まだまだ「店主」としての自覚が足らんなと反省しております。

失われた週末

2004-10-22 23:15:41 | コラム、というか
という二文字が、ぼくの生活から消えてひさしい。週末のすべては、そのことばが呼びおこすあのときめきのようなものにあるといってもいい。だから、「週末」を失うということは、そんなときめきのようなものを失うことにひとしい。

たしかに、月曜日が定休のmoiでは、日曜日の夜が「週末」といえなくもないけれど、残念なことにあまりそこに「ときめきのようなもの」は感じられない。月曜日は、たしかに店はしまっているけれど、実際ぼくが休んでいるのかというと案外そうでもないからだ。銀行や郵便局に払い込みにいったり、店の備品やたりない食材を買いにでたり、はたまた取材がはいっていたりと、月曜は月曜でけっこう忙しかったりするものなのだ。そんなわけで、「あしたはこれやんなきゃな」なんてことをつらつらかんがえているうちに終わってしまうのが、ぼくの「週末」の現実にほかならない。

かつて、ぼくの生活にまだ「週末」があったころ、それはあまりに無為に過ぎていた。週末になったらあれをやろうとか、ここに行こうとか、いろいろ思い浮かびはするのだけれど、いざ週末になってみると結局なにもせずに終わってしまうのもいつものことだった。それでも、いまにしておもうと、そんなふうに過ごす「週末」もそれはそれで悪くなかった。だいたい、「週末」までの「ときめき」こそがほんとうの「週末」なのかもしれないからだ。

土曜の放課後の、あの高揚した開放感を思い出すとき、ぼくはなんだかちょっとだけ切ない気分になる。