moiのブログ~日々のカフェ

北欧&フィンランドを愛するカフェ店主が綴る日々のあれやこれや

みえないもの

2006-02-10 23:56:46 | 「突難」になる
MRIの検査結果がわかった。異常なし。「聴神経腫瘍」という病気が「難聴」を引き起こしている可能性もあるということでの検査だっただけに、ひと安心。とはいえ、
異常はないのに症状はたしかにあるというこのふしぎ。

科学の進歩とともに、病気は「みえるもの」になった。たとえば手術というのは、「みえる」からこそ有効なわけだ。いっぽうエイズのように、「みえる」のに現在の医学ではまだ手の打ちようのない病気というのも存在する。ところが、ぼくがいま患っている「急性低音障害型感音難聴」という病気は「みえない」のだ(だから「特定疾患」、いわゆる「難病」という話なのだが)。

いつか科学がいっそう進歩をとげれば「みえる」ようになるのか、はたまた相変わらず「みえない」ままなのか。検査結果がクリアであればあるほど、また一方では釈然としない。人間のからだの複雑さをあらためて思い知らされた出来事だった。

MRIの恐怖

2006-02-07 23:09:52 | 「突難」になる
かりつけの大学病院で「MRI」による検査をうけてきた。もちろん生まれてはじめて、である。

巷には「FBI」とか「NTT」とか「PTA」とか、意味不明な「アルファベット三文字」がのさばっているが、この「MRI」というのもよくわからない。なんでも、「Magnetic Resonance Imaging」の略らしいのだが。日本語に直すと「磁気共鳴画像」。ますますわからないのだった。とにかく、TVドラマなどでよくみかけるアレ、横たわったままトンネルのような中にはいっていき、からだの輪切り写真を撮影するアレである。

ものすごく音がうるさいらしいということで覚悟はしていたのだが、これがまた凄い音で・・・。いちおうヘッドフォン状のものをあてがわれはするものの、耳の状態がわるいときだったら発狂するかも。だが、それ以上にしんどかったのは中の狭さ。正確にはわからないけれど、天井までの距離は15センチ強くらいだろうか。しかも全身拘束されていて身動きもできないので、その息苦しさったらない。ああ、早く終わらないかなぁ、いや、できることなら一刻も早くここから抜け出したい。引田天功の気持ちがほんのすこし理解できた瞬間だった。

それにしても、もしあそこで不意に「くしゃみ」がでてしまったらどうなるのだろう。もちろん、検査に支障がでるのは当然として、しっかり頭を拘束された状態では首を痛めやしないだろうか、さらに真上で打ち上げ花火が炸裂したようなものなので鼻水はもろ顔の上に、しかも手で拭うことすらできない・・・ああ、恐ろしい。MRIでもっとも恐ろしいのは、まちがいなく「くしゃみ」である。

日々の鍼灸 (7)

2006-02-06 18:36:27 | 「突難」になる
週につづき、「新所沢」に行ってきた。相変わらず耳の調子がよくならないのを見かねたIさんが、信頼できる鍼の先生を紹介してくださったのだ。

「新所沢」までは、中央線と西武線を乗り継いで約1時間ほどの「旅」である。それでも、はじめIさんからこの話をうかがったとき、「これはちょっとした『縁』かもしれないな」と思った。というのも、学校に上がるまでの数年間、ぼくはその街に暮らしていたことがあるからだ。まさか病気のおかげで、三十年ぶりにこの街を再訪することになろうとは思いもしなかった。人生わからんもんです。

「縁」といえば、いまmoiがあるのはぼくの生まれた病院からほんの100mほどの場所である。さんざん探し歩いたあげく、ようやくみつけた場所が偶然にも「そこ」だったのだ。そのことを知った父親はひとこと、「おまえはハトか」と言った。たしかにこうなってくると、じぶんにゆかりのある「土地」をなにか目にみえない「縁」に導かれて辿っているような気になってくる。「帰巣本能」なのか、これは?「ハト」なのか、おれは?つぎに向かうとしたら、そこは「高島平」のはずなのだけれど。

日々の鍼灸 (6)

2006-01-28 23:44:05 | 「突難」になる
前中、フィンランド語教室のために店をあける。

ポストをのぞくと広告や請求書(汗)にまじって、お客様からのあたたかいメッセージが添えられたポストカードなど・・・ありがとうございます!また、通りがかりのご近所の方なども何人か声を掛けてくださりうれしい限り(よかった・・・まだ忘れられてなくて)。さらにきょうは、ユッシさん(「オーロラ写真」なごめます)が差し入れを持ってきてくださったり、moiのウェブサイトを制作してくださったデザイナーのえつろさんが顔を出してくださったりと、みなさんからたくさんの「力」をわけていただいた一日。そして午後は、鍼。

店をお休みして一ヶ月、けっして辛い思いばかりではないのは、こうして日々みなさんのあたたかい気持ちに接しさせていただいているせいにちがいない。「有り難い」という美しい日本語を、なんどもなんども心のなかで噛み締めています。

日々の鍼灸 (5)

2006-01-26 23:56:05 | 「突難」になる
や病院での診察のあとは、どこかでコーヒーを一杯のみたくなる。できればおいしいコーヒーを。それは、いまじぶんが置かれている状況を一杯のコーヒーで「リセット」したいから、にちがいない。そして事実、一杯のコーヒーにはそういう「力」がある。帰りにコーヒーをのんだ日とそうでない日とでは、その後の気分になにかおおきな隔たりがあるように感じられるからだ。

じつは、そんなこともあるのだろうなということは、日々のしごとのなかでも感じてはいた。moiの近所にはわりと大きな病院があるので、通院されている方やご家族が入院されている方、またときには入院中の患者さんらがたずねてくださる。そしてそんな方々のことばや表情から、いまここで一杯のコーヒーをのむ「理由」を汲みとることはむずかしいことではない。そうして気がつけば、いまぼくは逆の立場からそれを「反証」しているわけだ。

残念なことに、いまぼくが鍼に通っている「新橋」にはここぞという喫茶店がみあたらない。そこで、てくてく「銀座」まであるくのだ。わざわざ気分を「リセット」するために。銀座でいちばん落ち着くのは、やっぱりカフェーパウリスタ。ここには京都のイノダコーヒに通じる「空気」がある。いつだれが訪れても自然体で迎え入れてくれるような、「老舗」ならではの鷹揚さとでもいおうか。moiをつくるとき、こういう「空気」が感じられる店になればとかんがえていたのだが、実際やってみるとやはりこういう「空気」は「時間」がつくるものであって、一朝一夕につくれるようなものではないと気づいた。あたりまえの話だ。

いろいろなことに気づいたり気づかされたりと、そんな毎日である。

日々の鍼灸(4)

2006-01-25 22:18:47 | 「突難」になる
の帰り道の丸の内線で、落とし物をみつけた。空席になった向かいのシートに転がったそれは、よくみると会社の制服などにつけるネームプレートのようだった。どうやら前に座っていた客のものらしいが、あいにくぼくはずっと本を読んでいたので、それが男性だったか女性だったかすらもおぼえていない。とりあえず終点の「荻窪」で駅員に手渡そうとそれ拾いあげてみたところ、それは「三○東京U○J銀行」(「じゅげむじゅげむ」かお前は)の「タナカさん」のネームプレートなのだった。

たしか、以前ぼくがはたらいていた会社では、「ネームプレート」の紛失は「罰金&始末書」だったような気がする。もちろんくわえて、再発行にあたっては総務のひとからみっちりお灸をすえられる。なので、ネームプレートをなくしましたというのは、かなりプレッシャーのかかる事態といえる。うっかりそれをトイレに流してしまった同僚の女の子は青くなっていたし、べつの同僚などは紛失したことをなんとかごまかそうと、その場しのぎで、ぼくから借りたネームプレートをつけてそしらぬ顔で仕事をしたりしていた(それでなんとかなっていたのだから、まあ会社も会社である)。

ぼくがはたらいていたユルい会社ですらそうなのだから、「銀行」などというおカタい業種にあってはとてもじゃないがこんな程度では済まされないだろう。始末書&罰金はあたりまえ、丸坊主くらいは覚悟しなきゃならないのではないか。時すでに遅しかもしれないが、「タナカさん」、もしこのブログをみていたら「東京メトロ」までお問い合わせを。

片手にお灸 首には置き鍼

2006-01-22 16:38:49 | 「突難」になる
のむかし、♪片手にピストル 心に花束~という歌い出しのヒット曲がありましたが(35歳以上限定)、こちらはというと、鍼灸院が日曜日でお休みのためこんなことになっちゃってます。♪片手にお灸 首には置き鍼~(35歳以上の方は節をつけて歌っていただいても結構です)。ったく、ジジくさいったらありゃしない。

日々の鍼灸 (3)

2006-01-19 23:37:36 | 「突難」になる
のう、きょうと10分間の「置き鍼」をする。鍼を打たれる瞬間、ゾクゾクっと鳥肌が立つのでてっきりよく効いているのかと思いきや、べつにそういうわけでなく、たんに緊張して身構えているせいらしい。なーんだ、がっかり。

さて、いままで、とりたてて「鍼灸」とか「漢方」といった東洋医学に関心を抱くこともなかったのだが、ただ毎日ぼーっと鍼を打たれているだけというのも癪な話なので、とりあえず「鍼灸」について書かれた本などよんでみようと思ったのだった。

○松田博公『鍼灸の挑戦-自然治癒力を生かす-』(岩波新書)

よく、「鍼灸上級者」のひとはこんなことを言う。「鍼灸には、けっこう『相性』があるからね」。それをてっきり、ぼくは鍼灸師の先生との人間的な相性のことかとばかり思っていたのだが、どうもそういう話ではないらしい。

まえがきで、この本の著者は日本の鍼灸界の現状を「スタンダードなき、百花繚乱である」と指摘する。ひとくちに「鍼灸」といっても、その手法や考え方、得異分野はさまざまである。ところが、「無数の流派、会派に分かれ、相互に矛盾する理論とわざを展開」している鍼灸界の現状を、患者はもちろんのこと、そこに身を置いている人間ですら「総体として把握できていない」というのだ。

となると、こうした現状のなかで患者が自身のニーズにもっともふさわしい鍼灸師をみつけるというのは至難の技であり、その試行錯誤がときに「相性」という表現になって会話に登場してくるのではないだろうか。

ぼくは縁あってたまたまこの本と出会ったわけだが、どういう流派、会派が、どういう考え方にのっとって、どういう治療をおこなっているのかについて、現場の鍼灸師たちの言葉とともに簡潔にまとめられたこの本は、これから鍼灸をはじめようというひとにとって「相性のいい」鍼灸師と出会う、あるいは近道になるかもしれない。

日々の鍼灸(2)

2006-01-17 23:20:41 | 「突難」になる
灸2日め。置き鍼はとりあえず5分、鍼の本数はきのうより増えていた(と思う)。

「突発性難聴」という病気は、片側の耳の聴力が突然落ちてしまうという病気である。体力的にはじゅうぶんなのに、耳の調子はなかなかよくならない。これが、この病気のジレンマといえるかもしれない。はじめのうちは、多少耳が聞こえにくいくらいすこし我慢すればなんとかなるさ、と思っていた。じっさい、聴力の低下だけだったらなんとか生活してゆくことはできるだろう。耳鳴りだって、うっとうしいにはちがいないが、だんだんと慣れてくるのかもしれない。

では、なにがいちばんツラいのかというと、それは

音割れと響き

である。ただこればかりは、じっさいに体験したひとにしかわからないと思う。日常のありとあらゆる音が、壊れたスピーカーを通して聞かされているかのように歪んで聞こえるのだ。ひどいときには、音で気が狂いそうになる。静かなフィンランドが心から恋しくなるのはこういうときだ。

moiのお客様で、5年ほど前に「突発性難聴」を患ったというSさんは、メールのなかでこんなふうに書かれている:

街にあふれる音音音・・・トラック、バイクはもとより、店内BGM、電車のアナウンス・・・さらに、音の洪水の中でヘッドフォンから音流してる!!!!「狂っているな、この世界は」と本気で思いましたよ(笑)

まさに!もし、かの谷崎潤一郎がいま生きていたら、『陰翳礼讃』の続編としてこんなエッセイを著したはずである。『静寂礼讃』

とにもかくにも、いまの東京では「静かな暮し」は無理だと思う。「耳」を悪くしてはじめて気づいたのだが、ぼくらの「耳」はいまや、刺激物を摂りすぎて「味蕾」の死んでしまった舌のようなものだと思う。

「味」や「光」や「音」を享受する権利がぼくらにはある。「味」も「光」も「音」も、ぼくらはもっと大切にしなければならない。五感で受け取る情報は、ほんらい生き物が生きてゆく上でとても重要な意味合いをもつものであったはずである。五感が鈍るということは、つまり生き物にとって死を意味する。だから都会に暮らすひとは、すくなくとも一年に一度くらい、五感をフラットな状態に戻すため静かな場所で時間をすごす、そうした機会をつくるべきだとつくづく思う。いっぱいあることが豊かさである、そういう考え方はそろそろ卒業してもいい頃合なのではないだろうか。

日々の鍼灸 (1)

2006-01-16 23:42:07 | 「突難」になる
じめて体験フェア、継続中です。きょうは生まれてはじめて「鍼灸」というものに挑戦してきました。いわゆる「ハリ」です、中国四千年の神秘なわけです。発症以降おこなっている病院での治療がいまのところあまり改善に結びついてはいないようなので、きょうからしばらく、ネットでみつけた「突発性難聴」の治療に実績のある新橋の鍼灸院に通ってみることにしました。

生まれてはじめての「鍼」ということでかなりドキドキしたのですが、カウンセリングの後、肩や背中のマッサージ、つぎに首、耳の周辺のマッサージ、そして最後に難聴になっている耳(ぼくの場合は右耳)の周辺に鍼を打っていきます。今回ははじめてということもあり鍼はすぐ抜いてしまいましたが、これからは様子をみながら5分、10分と「置き鍼」をしてゆくそうです。院長先生によると、ぼくぐらいの度合いの難聴の場合、発症から3週間以内に治療を開始したひとについては全員完治しているそうです。ぼくの場合すでに4週間ほどになりますのでリスクはあるものの、まだまだじゅうぶん完治する可能性はあるという話でした。病気になる前から肩や背中のこりや血行の悪さには悩まされてきましたし、いままで経験したことのないことを経験してみる、というのも、場合によってはひとつの突破口になるかもという気持ちで今回「鍼灸」を取り入れてみることにしたのですが、はたして今後どのように推移してゆくのか、いまはすこし楽しみでもあります。

帰り際に、この鍼灸院でまとめた「突発性難聴」の治療経験をまとめたパンフレットを数冊手渡されたのですが、これがとてもていねいにまとめられていて突難治療にかんする情報源として参考になりました。実際、スタッフの方もこれまでの経緯や症状について熱心に耳を傾けてくださるので、こうして吸い上げられた情報がパンフレットとしてまとめられ、ぼくら患者にフィードバックされているということなのだと思います。ネットなどもそうなのですが、経緯や症状を他人に聞いてもらう、あるいは患者どうしで情報を共有するということは、こうしたストレス性の病気の治療ではとても大切なことのように思います。それだけで、肩の荷がちょっとおりたような感覚になれるからです。耳鼻科での治療はどちらかというと「受け身の治療」で、いわれるままに点滴をし、薬をのむといった感じだったので、その治療の前段階でのアプローチの仕方がまったく対照的だっただけにちがいがとても印象に残りました。

ちなみに画像は、帰りがけにみつけた「香川・愛媛せとうち旬彩館」で購入した「六時屋タルト」。愛媛銘菓のタルトというと、まずなんといっても「一六タルト」を思い出すわけですが、なんでも県内ではこちらのほうがメジャーだとか。京都の生八ツ橋における「聖護院」と「おたべ」みたいなものでしょうか?味は、一六タルトにくらべ、すべてにおいて「控えめ」で「あっさり」している感じでした。おみやげとしてのインパクトをかんがえると「一六タルト」でしょうが、自宅でお茶のアテとしてたべるなら「六時屋」、そんなところでしょうか。それにしても、いま東京のあちらこちらでみかける地方物産館、ふらりと入ってしまうとついつい余計なものまで買い込んでしまいそうになるのでかなりデンジャラスです。