moiのブログ~日々のカフェ

北欧&フィンランドを愛するカフェ店主が綴る日々のあれやこれや

緊張感

2004-09-30 23:34:43 | コラム、というか
前にせまった、イチローの年間最多安打記録の達成が話題になっています。もしこれほどまでに活躍していなかったら、たんなるかわいげのないヤツで終わってしまいそうですが、あの不屈の精神力(なんて凡庸な表現!)を前にしてはどんなヘソ曲がりでも脱帽せずにはいられませんよね。あの落ち着きはらった表情をみていると、はたして彼は人並みにプレッシャーを感じたりするのだろうか?、そんな疑問さえわいてきます。

それはそうと、moiによくおみえになる96歳のおばあちゃんは「長唄」をやっていらっしゃるのですが、本番前に緊張することはないといいます。いわく「だって緊張したら声がでないでしょ、ハッハッハッ」・・・おそれいりました。

才女気質

2004-09-29 23:49:45 | コラム、というか
たして中平康は、ジャック・タチの名前をしっていたのでしょうか。

ジャック・タチが傑作『ぼくの伯父さん』を撮影したのは1958年。一方、中平康は、今回キノ・イグルーがとりあげる作品『才女気質』を1959年に撮影しています。しばしば稀代のモダニストとよばれることでも共通するこのふたりが、ほぼおなじ時期にこれらの作品を残したということに、ぼくは驚かずにはいられないのです。

それぞれの作品は、古い価値観と新しい価値観との対立が引き起こす騒動をコミカルに描いているという点で共通しています。さらに、それぞれ「パリ」と「京都」という、伝統を重んじながらも、反面とびきり「新しもん好き」でもある街を舞台としているという点でも共通しています。そしてなにより、ここが肝心なのですが、それを見守るふたりの〈まなざし〉が似ているのです。ふたりの〈まなざし〉は「古きもの」と「新しきもの」、そのどちらか一方に肩入れするということはありません。「古きもの」には慈愛をこめて、「新しきもの」には「いいぞいいぞ」という感じではっぱをかけるように、そのすがたを描いています。余分なメッセージや批評をおりこまない、そんなリベラルな〈まなざし〉があってはじめて、このさわやかな軽みはうまれるものなのかもしれません。

そんなわけで、個人的には、「ジャック・タチがすき」というひとにこそ、ぜひこの映画をおすすめしたいとおもいます。いまだビデオ化、DVD化されていない作品だけに、この貴重な機会をお見逃しなく!

KINO IGLU #8 中平康 監督作品『才女気質』(1959年/日本/87 mins)
 10/16(土) 10/17(日) 
 CINEMA BAR「THE GRISSON GANG」(小田急線 読売ランド前)
 ご予約および詳細は、KINO IGLU(キノ・イグルー)のHPをごらんください。

ミディ・アプレミディの...

2004-09-28 13:27:49 | コラム、というか
文からおよそ1年半(!)、京都のパティスリーミディ・アプレミディよりうわさのロールケーキ「フロール」が届きました。いえ、ほとんど注文したことすらも忘れておりましたが。

ごらんのとおり、ごくふつうの、いたってシンプルなロールケーキ。きめ細やかな、でもしっかりとした弾力性のあるスポンジ生地、こうばしい表皮、バターとフレッシュクリームの上品な香りがふわっと漂う生クリームと、いずれも最高の原料をつかってていねいにつくられていることがわかります。さすが待たせるだけのことはあります。これまでのロールケーキにたいするチープな印象はすっかり覆されました。絶品です。最高の原料とていねいな仕事さえ心がければ、ごくシンプルなロールケーキですら、趣向を凝らした生菓子にもじゅうぶん匹敵しうる高級菓子になりうるということを、この「フロール」は身をもって証明したというわけですね。その意味では、庶民が食するべきものではないのかもしれません。いわば宮内庁御用達

1年以上の待ち時間を費やし、1本2,800円という価格を支払ってまで食べたいものかというと、そのあたりは判断のわかれるところでしょうが、気持ちとふところに余裕のあるかたは、ぜひ話のタネにチャレンジしてみることをおすすめします(すくなくともブログのネタにはなります)。なお、送料をふくめると4,000円を超えてしまったことを、参考までつけくわえさせていただきます。

ロケ

2004-09-27 20:03:58 | コラム、というか
京都立大学の映画サークル「KINO」の映画撮影に協力させていただきました。

ふだんはもろもろの事情により基本的にTV取材や撮影協力の依頼についてはお断りしているのですが、このサークルに所属しているのが常連のヤマグチくんということもあって、今回特別に(なんてエラそうに言うほどのことはないんですけど)OKさせてもらいました。暗~い音楽がその生活の核となっていた大学時代のぼくとくらべると、ひたいをよせあって役者の演技を一心に見守るかれらのすがたはとてもひたむきで、熱いものをかんじました(って、オヤジくさい発言ですね)。そして最後には、しっかり記念撮影にもまぜてもらって撮影終了(後々「誰だよ、あれ」とかいわないように)。

出演者&スタッフのみなさん、おつかれさまでした。よい作品にしてください。

ピンチ!

2004-09-26 23:37:06 | コラム、というか
リリングな体験をしました。なんと夕方の時点で、ストックしてあった牛乳がすべて底をついてしまったのです・・・いやぁ、あせりましたよ。

週末ということもあっていつもの倍ちかく仕入れてはいたものの、急な肌寒い陽気も手伝って、はいるオーダーはカフェオレやロイヤルミルクティーといったあたたかいドリンク、それにつめたいものもなぜかミルクをつかったメニューに集中し、気がついたときには残すところあとわずかといった状態に・・・。こういう商売をつづけていると、「きょうは○○の日」といった具合におなじメニューにオーダーが集中することもけっして珍しくはないのですが、こういう激しいのは、2年ちょっとやってきてはじめてでした(←まだ修業が足りんですね)。

こんなときバイトがいてくれたら、ちょっと買いに走ってもらうとかできるんですが、ひとりではそうもいきません。また、客足が途絶えたスキをみてちょっと買いにゆこうなんてかんがえたところで、こういう日は往々にしてそんな切れ目すらないもの。「牛乳売り切れました」なんてむっちゃカッコわるいよなぁとか、言い訳どうしよう(うし君がさあ、パペットマペットに誘拐されちゃってね・・・)とか、もうオーダーがはいるたびドキドキの連続でした。

けっきょく、ぴったり最後の一杯でオーダーの嵐はやみ事なきを得たのですが、もう、ほんと、心臓にわるいです。「電話くれれば買ってきてあげたのに」という常連のおじさんのお言葉、冗談でもありがたかったです。次回、電話さしあげます・・・

スイマセン、ネタがしょぼかったですかね?

アートと喫茶

2004-09-25 23:54:43 | コラム、というか
切れでご迷惑をおかけしていた小冊子「アートと喫茶」が再入荷しました(税込み315円)。

イベント〈アートと喫茶〉については、このブログでもたびたび触れてきました。この秋、都内12のカフェ/ギャラリーをリンクして行われる展覧会イベントで、moiでも参加企画として10/3(sun)までひらいみもさんのイラスト展「森のカモメ」を好評開催中です(もうご覧いただけましたでしょうか?)。

この〈アートと喫茶〉は、かつて植草甚一が暮らしていた街、経堂にあるappel(アペル)ROBA ROBA cafeというふたつのカフェ/ギャラリーの呼びかけで実現しました。このイベントのおもしろく、意義深い点は、ここにあつまった12のカフェ/ギャラリーは、原則としてすべて個人オーナーの店であるというところにあります。家賃がべらぼうに高いうえ、すまいと職場、遊び場が完全に切りはなされてしまっている「東京」という場所は、たとえば関西とくらべて、個人でことをおこすにはあまりにも不向きな場所です。結果、街にはチェーン店や企業のアンテナショップばかりがあふれ、店の数だけは多いけれどおもしろい店、個性的な店は少ない、そんな状況になってしまうのです。「個性的な店」といっても、なにも風変わりなコトをしている店という意味ではありません。「オーナーの『顔』がみえる店」、オーナーの人格や思いがさりげなく感じとられる店こそが「個性的」だとおもうのです。「そこに行かなければ出会えないなにか」があるからこそ、ぼくらは「そこに行く」のではないでしょうか。

そうした意味で、このイベントに参加している12のカフェ/ギャラリーはどれも、もちろんmoiもふくめて、唯一無二の個性をもった空間だとおもいますし、すくなくともそうありたいとかんがえて日々(それぞれのやりかたで)奮闘している店ばかりです。

山椒は小粒でもピリリと辛いなんていいます。「アート」とのふれあいをつうじて、この秋はそんなピリリと辛い空間を味わってみませんか?なんといっても、こういう空間を支えられるのはそこを気に入ってくれて、たびたび足を運んでくれるようなお客様だけなのですから。小冊子「アートと喫茶」は、そんなみなさんにとっての〈航海図〉としてきっと役立ってくれることでしょう。

弱点

2004-09-24 23:54:44 | コラム、というか
家さんは元刑事(デカ)である。そこで、かねてから気になっていたあのことを訊いてみた。

カツ丼で自白をうながす

ほんとうだった。コントの世界だけの話ではなかったのか。しかもかなり効果があるという。たしかに、たいがいのことは喋っちゃってもいいかなと思わせてしまう〈魔力〉が、「カツ丼」には秘められている。もうひとつ訊いてみた。

タバコで自白をうながす

またもや、ほんとうだった。これがじつは、「カツ丼」以上の破壊力をもっているというのだ。頑なな犯罪者も、一服のタバコをまえにしては思わず悔悛せずにはいられないらしい。タバコおそるべし、である。

ただし大家さんが現役だったのはもうずいぶんとむかしの話だ。自白をうながす術も、時代とともに進化しているとかんがえてしかるべきだろう。

プレステであそばせる→刑事さん、オレがやりました
浜崎あゆみをきかせる→刑事さん、ごめんなさい(泣きながら)

さしずめぼくなら、京都・千疋屋の欧風ビーフカツ丼六曜社地下店の「インド」がついたなら、あることないことぜ~んぶしゃべっちゃうこと必至である。そんな「自白」に信ぴょう性があるかどうかはべつとして。

ひとはみな、なにかしら弱点をかかえている。

フィンランドのギャラリーで

2004-09-23 23:11:01 | コラム、というか
ういえば、フィンランドではずいぶんとたくさんのギャラリーをまわった。まわってみて印象的だったのは、フィンランドのひとたちが「アート」とつきあうその姿が、いかにも自然で、リラックスしているように映ったことだ。

かれらはけっして高いお金を払って、高名な作家の作品を買うわけではない。ほんとうに気に入った作品を、ちょうど花瓶や一枚のスカートを買うような感覚で買っている、そんな印象だ。絵を買うという行為は、かれらにとって毎日をほんのちょっと気持ちよく生きるためのささやかな「投資」なのかもしれない。

港を見おろす丘にある、とあるちいさなギャラリーの昼下がり。絵を買うひとも買わないひとも、例外なく、飾られた作品の一枚一枚を丹念に眺め、オーナーと穏やかに会話し、そこには当然のように静かで豊かな「時間」がながれていた。そして、じぶんが好きなのはこの「時間」なのだと思った。東京ではついぞ忘れがちなこの「時間」と、ぼくはフィンランドで「再会」する。

ひとしきり絵をえらんだりした後で、オーナーに「あなたのお店にはいいお客さんがたくさんついているようですね」と話しかけると、「ええ、自分で焼いたケーキを持ってきてくれるひともいらっしゃるんですよ」と微笑みながら、ちょっと誇らしげに答えてくれた。気に入った絵を飾ること、おいしいケーキを焼くこと、そしてこのギャラリーを訪れること、そのどれもが、このお客さんにとっては等しく大切な「時間」なのだろう。

おだやかな「時間」をすごしたいからこそぼくは「絵」を飾る。そんな単純な答えにたどりついたのも、フィンランドのギャラリーですごした有意義なひとときがあったからこそ、といえる。

直すひとびと

2004-09-22 23:48:17 | コラム、というか
6月に、ひさしぶりにフィンランドをたずねて目についた光景がいくつか、ある。街のあちらこちらで出会った直すひとびとの姿も、そのうちのひとつだ。

古いアパートメントの彫刻をていねいにヤスリで磨きなおすひと、ビルディングで立て付けの悪い扉をなおすひと、閉店後のカフェで傷んだいすの脚をなおすひとなど、忙しそうに、でもいきいきと立ちはたらく直すひとびとの姿がその街ではごくふつうの眺めとして息づいていた。

ところで、近所の家具を修理してくれるおじいさんが廃業したという話をついこのあいだ耳にしたばかりなのだが、直すひとびとにまだまだ活躍の場があるフィンランドを、ぼくはつくづくすこやかな国だとおもう。

無に匹敵する音

2004-09-21 23:25:36 | コラム、というか
示があるときのBGMには、ふだんよりいっそう気をつかう。なにより雰囲気をこわさないことが肝心だ。開催中のひらいみもさんのイラスト展「森のカモメ」にもっともふさわしいBGMは、無音、もしくは鳥のさえずりや梢をわたる風の音じゃないかという気がしている。ただ、無音ではきっとお客さまが落ち着かないだろうし、自然の音となると集音マイク片手にどこか鬱蒼とした森の中をさまよわなければならないハメになる。そこで、無音に匹敵する音楽ということでえらんだ一枚がこれだ。キース・ジャレットがピアノ1台で数々のスタンダードナンバーを演奏したアルバム「The Melody At Night,With You」

これは特異なアルバムだ。

キース・ジャレットはここで、誰かのためではなく、たたじぶんのためだけにピアノを弾いているようにきこえる。おそらくは真夜中、さもなくばそろそろ空も白んでこようかという時間に、ひとりかれはピアノにむかっている。そこで奏でられる音楽は、長かった一日をゆっくりと沈静させるための音楽。あえてなにもかんがえず、指のおもむくままに耳になじんだメロディーをなぞってゆく。そのピアノはうたわない。かたまった筋肉をほぐすかのように、そこでおなじみの旋律はひとつひとつの音へとときほぐされてゆく。どこまでも純化された音がやがて行きつく先、それは無音の世界だろうか。

メロディーという意味をなすためでなく、反対に意味を「無」に帰してしまうために演奏するこのアルバムの特異性は、ありとあらゆる「演奏」というものに対する、いわばネガとして存在している。