MiddleDayTripperの徒然記

気ままな中年オヤジの独り言

民主党Aは浜松城を出なかった家康か?挙兵しなかった三成か?!

2011-06-02 22:56:54 | 永田町のおバカさん

欠席や棄権等、田中真紀子・三宅雪子氏ら15人(読売新聞) - goo ニュース

織田信長と同盟を結び東進政策を取った徳川家康は一向一揆を制圧して三河を統一すると北条と挟撃する形で遠州に進出。1572年に大井川以西を制圧すると居城を岡崎城から浜松城に移した。その直後に戦国最強と言われた武田信玄が京を目指して浜松に侵攻して来た。盟友信長から「援軍が到着するまで時間を稼げ」と言われた。浜松城に向かってきた信玄は突然、西に向けて軍を進め始める。家康の家臣の中には三河一揆で敵味方に分かれた者も多くいて、彼らは家康の動向に注目していた。家康がこのまま城に篭ったまま三河を侵攻しようとする信玄を見過ごしたら、彼らは家康を見限ると予測し、信玄は心理戦を仕掛けた。
家康は浜松城を出て追撃すると三方原(現在の浜松基地の北側)で信玄が魚燐の陣を敷き迎撃体制を取っていた。家康も鶴翼の陣で応戦するが戦力差(33,000:11,000)でされ、損害2,000以上の一方的な負け戦となった。家康は逃げ帰った際の自画像を描かせて「顰め像」と称して戒めの道具とした。

1600年。上杉景勝が家康は豊臣秀頼の上洛命令に背いた事を理由に諸将を集め会津討伐に出陣した。景勝が敵対する石田三成と謀っている事は承知の上だった。三成挙兵の情報が入ったのは家康が下野小山に入った時だった。家康は軍議を開き、諸将に三成挙兵を伝え「三成についても良い」と言うと、秀吉恩顧だが、三成と敵対関係にあった福島正則が「家康に味方する」と口を開くと、他の武将らも追従。さらに掛川城主の山内一豊は「城を家康に明け渡す」とまで言い出すと東海道の城主らも追従して家康は東海道を支障なく通行できるようになった。
挙兵した三成は伏見城を皮切りに近畿や近江、伊勢、美濃の東軍城を攻略していった。西に向かう東軍の先鋒は清洲城に到着すると、織田信秀の岐阜城を簡単に攻略して美濃赤坂に着陣。三成は大垣城を拠点として西軍諸将を集結させたが、東軍は攻めてこない。家康の本隊が到着しても攻めてこないばかりか、陣を引き払い西へ向かう素振を見せた。三成は「佐和山城を攻撃される」と慌て、関ヶ原へ向かった。
家康は28年前に信玄にやられた戦法を三成に仕掛け、得意な野戦に持ち込んだのだった。

さて2011年6月2日に民主党本部で行なわれた茶番で総統を担ぐ民主党Aの議員達はどうだったんだろうか?

城に篭ったままの家康だったんだろうか?

挙兵した自公に呼応しなかった三成だろうか?

ウソツキ前首相や原口ら民主党Aを公言しておいて「反対票」を入れた連中も民主党Bとやっている事は同じで、被災者を人質にしているだけだ。

総統やマキちゃんにしても欠席や棄権と言う中途半端な対応しかできず、口先だけと言うことが分かった

いずれにせよ「AもBも民主党はウソツキ」と家臣ではなく有権者に見限られた。

 

 


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