気づきの日々

毎日、何気ない言葉や思いつきに、ふと気づかされる時があります。
そんな日々のことを書いてみることにしました。

そらのこと

2021-07-22 17:09:49 | 日記
今日は実家で飼っていた猫「そら」について書きます。

そらとの出会いは、2017年5月26日でした。
実家で掃除をしていたら庭の花壇の方からかぼそい鳴き声が聞こえてきました。
最初は鳥?と思ったのですがあまりにも長く鳴いているので探したら、草むらの下で小さな子猫が震えながら鳴いていました。
「ここにいるよ」と必死で鳴いているように感じました。
生後一ヶ月くらいかな?なぜこんな所にいたのかは判りませんがマンションはペット禁止を煩く言われていたので、そのまま実家で保護することしました。



そらはやんちゃで、甘えん坊で、とても可愛かったのですが、時折私に大切な事を教えてくれました。
「行きたい場所へは、何としてでも絶対に行くんだ!」という強い意志。


道なんてないのに、自分でルートを探して家の中へ入ったり、外へ出たり。
外は危ないからとドアを閉めて家の中で飼っていても、自分で出格子の屋根の敗れた天井から外への出口を見つけ出して遊びに出掛けてました。
きっと外の世界を見てみたかったのでしょうね。
行きたい場所へは何がなんでも、自分で道を見つけて行くんだよ♪と言っているようでした。

私の手作りゲージがお気に入りの場所だった「そら」。

そして一年後にお祝いをした数日後、そらは突然実家から姿を消しました。
その数週間前にも3−4日帰ってこない日があって、外が凄く怖そうな様子を見せていたので、野良の雄猫にやられたのか怖い思いをしていたのでしょう。
でもそれでも外に出て行くことをやめなかったのです。
そしてとうとう帰ってこれなくなりました。
近くを何度も探しに行ったけど見つからず、保健所にも連絡したけど情報がなくて、きっと帰ってこれない事情が出来たのでしょうね。

どこかで元気に生きていてくれたら嬉しいけど、数日後、自動給餌器のそばに設置していた見守りカメラの映像に大きな白い玉が夜の遅い時間に上に昇っていくのが見えて、もしかしたらそらなのかなと思えたのです。
大好きな家の餌を食べにそらの魂が来たのかなと思えました。
でも最後の姿を見守ったわけではないので、もしかしたらどこかで生きてくれている可能性もあります。

去年父が亡くなった翌日に葬儀の準備で実家へ行った時、そらと似ている毛並みの猫が花壇のそばを横切ってました。
思わず「そら?」と声かけしたら、後ろを振り返ってこちらを見て動きません。
何か思い出そうとしているのかもと「そら?」と駆け寄ったら、慌てて隠れるように逃げて行きました。

私の中では生きているのか亡くなっているのかわからない状態のまま時が過ぎ、ブログにもずっとそらの事は書けないままでした。
そして一昨日やっとそらの事が書けて、トップページのそらの写真を眺めていたら気付いたのです。
写真をずっとそのままにしていたのは「解らないから動けない」という私の心を写していて、私の意識はずっと止まったまま過去を見ていたんだなと思いました。
それはそらに限らず他の事でも同じでした。
「どっちなのか解らないから動けない」という状況がずっと続き、それが解る状況は訪れないままでした。
解らないからどちらも選択できずに保留にしたままで、だから状況が全然動かなかったのかと納得できました。
「解らない状況」は取り敢えずそこで手放して、未来で必ず会えるからと前を向く。
生きていたら必ず会えるし、会えなかったとしても魂はいつも感じる事が出来るのだから。
私は「未来で会える」を選択し「もう会えないかも」は選ばない事にしました。
どちらを選ぶのも自由で、その意識の未来が来るのなら私は会える方を選ぼう。

果たして未来でどんな形で会えるのかはお楽しみです。
成長したそら?そらの子供?そらの生まれ変わり?次元の違う世界でのそら?。
どんな形でも何か懐かしい感じはすると思うので楽しみにこれからを生きようと思います。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 欠けの捉え方 喪失感 | トップ | オリンピック »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事