気づきの日々

毎日、何気ない言葉や思いつきに、ふと気づかされる時があります。
そんな日々のことを書いてみることにしました。

「削除本」と「完全版」

2013-02-12 13:13:10 | 日記

昨日のテレビドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖 」は、
興味深い内容だった。

今回の本は『時計じかけのオレンジ』。
私は本は殆んど読まないので内容は知らないが、
映画化されて話題になった事は知っていた。

ドラマの内容は、
この本の「読書感想文」が、実は盗作されたもので
その謎を解く鍵が、「削除された本」と「完全版」の
2種類の『時計じかけのオレンジ』が存在していた事だった。

最初に「削除された本」が出て、
2008年に「完全版」が復刻した。
なぜ、削除された本が最初に出たかと言うと、圧力に合ったから。
そして原作のラストを削除した内容で、映画を作ったものがヒットした。

時計じかけのオレンジ
削除された章
小説は21章から構成されるが、アメリカ合衆国で最初に出版された際、バージェスの意図に反し最終章である第21章が削除されて出版され、キューブリックによる映画も本来の最終章を削除された版を元に作られた。映画化に際して一部のエピソードを省略したり複数のエピソードをまとめたりすることはよくあることだが、第21章があるか否かにより小説の印象は相当異なる。このため、映画版は原作者であるバージェスが意図しない終わり方をしている。

その後、アメリカでも第21章は復活して出版されるようになった。日本語翻訳版では1980年発行の、アントニイ・バージェス全集二巻で見ることができたが2012年現在は絶版。だが2008年9月10日、早川書房から第21章を含む「完全版」(ISBN 4-15-120052-5)が発売された。

第21章では、回復したアレックスが新しい仲間たちと集い再び暴れ回る日々に戻るが、そんな生活に対してどこか倦怠感を覚えていたある日、かつての仲間のピートと再会。妻を伴う彼の口から子供が生まれたことを聞く。アレックスは自分も18歳になったので、そろそろ女でも作って落ち着こうと考え、暴力から卒業しようと決意する。しかし一方で、かつて犯した犯罪は全部若気の至りだと総括し、子供時代にはだれでも避けられない道だろう、俺の子供にもいつか若い頃の話をするだろうが暴力の道に進むことを止めることはできないだろう、とうそぶく。

なんと「第21章」がまるまる削除されていたんですね。
これでは内容が、原作とは180度違って終わってます。

この話を聞いて、ミヒャエル・エンデを思い出しました。
『はてしない物語』の内容を大幅に変更して作られた映画が
『ネバーエンディング・ストーリー』です。

ネバーエンディング・ストーリー
原作はミヒャエル・エンデの『はてしない物語』だが、原作の趣があるのは1作目だけである。また、その1作目もオリジナルの話とは終わり方が異なっている。

原作者ミヒャエル・エンデとの裁判騒動の発端は、契約書の見落としが原因だったと言われている。
決裂を決定的とする上で致命的だったのは、映画のラストシーンが、エンデの意図とは正反対であることである。
映画の主人公バスチアンは、本の世界「ファンタージェン」の力を借りて、現実世界のいじめっ子に仕返しをする。エンデはこれについて真剣に腹を立て「このシーンをカットして欲しい」と告訴に踏み切る事となった。裁判の結果は、エンデの敗訴となり、「ミヒャエル・エンデ」の名前をオープニングから外す事で、なんとか和解した。

しかも、このドラマのエンディング曲が『ネバーエンディング・ストーリー』なんですよね。
(*_*)

ドラマで言ってた言葉が印象的でした。

時計じかけのオレンジの作者。
 「バージェスは言っています。
 
「わたしたちは 書いたものを削除することはできる」
 「しかし 書かなかったことにすることはできない」
 
今は第21章は復活して「完全版」で出ているそうです。
 

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メンバーズカード

2013-02-10 23:45:57 | 日記

昨日、日記を見直していたら
去年の3/20に起きた出来事が目に留まった。
美容院のメンバーズカードが同じ苗字の男性と入れ替わっていた話。

いつ入れ替わったのか気付かないまま使用してて
カットが終わって受け取る時に、お店の人が初めて気づいた。

「お店の人にどうしますか?」と聞かれて、
取りあえずそれを受け取って、間違った男性客から
連絡があったら交換しますと、電話を待っていた。
お店の人も男性名の所に線を入れて、それを渡してくれた。

でも、それから連絡もなく、
私自身もそのカードを使うのが恥ずかしくて
お店を変えてしまい、そのままになっていた。

それから1年近くたってしまい、
今更返しづらいしなぁ…
ポイントは貯まると金券として使えて、半分近く貯まってた。
この持ち主に返さなくちゃ、悪い事したなぁと申し訳なくなった。

なぜ、あの時、そのまま返却しなかったんだろう…。
確か、ポイントが気になって自分のも貯まっていたから
返却してゼロになるなら、
これを代用しようかなという欲心があったからだ。
だから返却出来なかった。
なのに恥ずかしくてそれ以降は使えなかったし店も替えた。
やっぱり自分の欲心に、心が後ろめたさを感じていたと思う。 

間違えたのは店側だけど、その後の選択は私がやった。
その結果、使えない違う名前のカードを今も持っている…。

ふと、前に見た夢の「偽の身長」を思い出した。

2012. 12.16.(日)  旧暦 11/4

DSみたいな画面で何かをやってた。
私のマネージャー?みたいな人(男性)が
私の登録設定をしていたのだけど
身長と年齢?を全然違う数字で登録しているのが解って、
登録し直そうとしていた。
身長が「170」となってて、
「私を見たらそりゃ、ありえない数字でしょ」と
○○○に訂正しようとしていた。

「170ってなんでこの数字にしたのだろう、
どうせなら200にすれば、冗談だろうと笑えるのに・・・」
と思っていた。

この夢って、もしかしてこの事を言っていたのかなと思った。
メンバーズカードは折り畳み式で、DSみたいな画面だ。
170は間違えた男性の身長だったのかも。 

どうせなら200にすれば、冗談だろうと笑えるのに・・・」

これは3/20の出来事を象徴していたのかな。。。
前に、笑って記事に書いた記憶があるし…。
この出来事を思い出せと、見ていたのかもしれない。

このままじゃダメだと思って、昨日、美容院に返却しました。
事情を話したら、私のカードがあるか捜してくれて
それはちゃんと返却されていた…
それを受け取って、やっと正しい自分のカードが手元に戻った。

間違えられた相手の男性に凄く悪い事してしまいました。
1年近くかかったけど、やっと複雑だったカードの糸が
すっきり元に戻りました。
自分の欲心が事を複雑化していたと、凄く反省しました。

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イメージ

2013-02-04 13:29:26 | 日記

私がよく見ているテレビ番組に「アシタスイッチ」というのがある。
これは「2人のゲスト対談の様子を見て、何かを感じる」番組だけど
その人の「本音」というか「考え方」が垣間見られて面白い。

「へー、そういう人だったんだ…」と、
イメージとは違う部分に驚く事が結構ある。
ゲストによっては、「あまり興味がないなぁ」とか
「この人、ちょっと苦手」と思っている人もいて
見ようかどうしようか迷う事がある。
いわゆる「先入観」というヤツですね。

でも取り合えず見てから判断してもいいかなと思って見始めると
意外だった部分に出会う。

そうか、その人の「イメージ」を勝手に作りだしていたのは
私の方だったのかと気付く。
その人の一部分だけを見て、そう思い込んだり、勘違いしたり
そこから自分で勝手に「枠」を作って決めつけていたり。

本質は「いろんな角度から見ないと見えない」ものだよね。
「へー、そういう人だったんだ」と新たな発見をする度に
自分で作った「その人の外観」と正反対の「本質」を知る。

その人は初めからそういう人だったんだよ。
だけど、その人が作ったモノとか、発した言葉とかを見て
私が勝手に「その人全体のイメージ」だと決め込んでいた。

この人はこういう人だと、私が勝手に別のイメージを作りだしていた。
でも実際にその人が話する言葉を見聞きしたら、全然違う人だった。

ほんと、一部分で判断してはいけないなと、つくづく思った。
というか、勝手にイメージを作ってはいけないんだね。
30分、話を聞いただけで、その人が解る訳でもない。
親兄弟だって、全てを理解している訳ではないもの。
過去に会った時のイメージも、ずっと同じ訳ではない。
その人が変われば、発するイメージも変わる。

そうか、人はどのようにも変われるからこそ
会ったその瞬間を真っ新にして見たらいいんだ。
そうすれば、その時のその人が解る。
それだけで良いのかなって思った。

最近、記憶ってなんだろうと思っていたんだよね。
人は年を取ると記憶を次第に失くして行く。
父を見てて、特にそう感じた。
数か月前とか、数日前と決して同じではない。
でも昨日はちょっと変だったのに、今日は普通だという日もある。
「同じではない」からこそ、
以前と比べても意味がないことかなと思った。

「その時、その瞬間の父」を
真っ新にして見ていたらいいんだなって解った。
そうすることで、父の本質の部分が見えてくるのかもしれない。
過去の父のイメージと比較するのではなく
毎回、目の前にいる父を、真っ新な気持ちで見る。
そうすると知らなかった「新たな父の一面」が発見できるかもしれない。
父が日常生活で出来ない事は、私が後ろからホローすればいい。
そこはあまり重要ではないんだ。

目の前にいる父を、ちゃんと見れているのか?
そこが大切な気がした。
それを「目の前の現実」として見せられているように思える。

「その時、その瞬間の父」を真っ新にして見る。
それを出来るだけ心がけてみようと思う。。。

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形じゃなくて心

2013-02-01 14:52:39 | 日記

先日、テレビ番組を見て久し振りに泣いた。
テレビを見て涙が出たのは何年ぶりだろう…。

番組は「若い日本の和楽器演奏者たちが、
クロアチアで西洋音楽団と共演」するまでの様子を紹介していた。
1/27に再放送していたが、途中から見始めた。

西洋での演奏は3回目で、
2010年にフランスのモンサンミッシェル、
2011年のイタリアは、ローマ・ルッカ・フィレンツエ・サンマリノのイタリア4都市へ
そして今回の2012年は、クロアチアだった。

「西洋の場所で和楽器を使って日本と西洋の音楽」を演奏していたが
今回は「西洋の楽器(楽団)との共演」に初挑戦していた。

「陰の和楽器と陽の西洋楽器」
音やリズムがまったく違うのに、果たして合うのだろうか?
そんな気持ちで見ていたが、演奏後には素晴らしい笑顔が溢れてた。
観客だけではなく、演奏者たちも皆、幸せな表情をしていた。

演奏前に和楽器のリーダーがクロアチアの楽団員に話をしていた。
「自分たちのテーマ曲でもある『青いバラ』は、
「まだ見た事もない奇跡を実現したい」という想いで
不可能を可能にするという意味をこめて作られたと。
西洋と和楽器の融合、その奇跡を是非みたいと
そのような事を話されていた(と思う)。

奇跡は叶えてもらうのではなく、自分たちの手で作り出すもの。
そんな気持ちが伝わってきた。
人の心が「何かを感じて共振して」作り出すものなんだなと思えた。

ゲストの和楽器を前面に出し、オーケストラの楽団は後ろで
音を抑えながらもしっかりとホロ―するかのような
そんな優しさを感じた。

和楽器側も独走するのではなく、後ろの音と協調するように
そんな「お互いの気持ち」が音に表れてた。
とても幸せな心地良さを感じた。

そして演奏後のラストインタビューで語ってた。
今まで「西洋楽器と和楽器」はどこかが違うと感じていたが
そうじゃなかった。
「『楽器』じゃなくて、『演奏者』なんだなと気付いた」と。
私はこの時、「うん、うん、そうだよね…」と
胸にこみ上げるものがあって泣きました。

彼らは「既に誰かが引いたレール」の上を歩いているのではなくて、
誰も行ったことのない道を自分たちの足で歩いて作りだしてる。
しかも日本では「古い」と隅に追いやられていた和楽器で。
自分たちの出す音を楽しみながら。。。

本当に彼らは「不可能を可能にしている」先駆者なんだなと思った。
凄いなぁ、彼らの歩みは私にヒントを与えてくれている。

自分で作り出すもの、
何でもいいんだよ、自分の手で作りだしているのものなら。
それに「心」を込める。
その思考錯誤の中で見つかるモノ。
「そうか!」と気づくもの。
それが「宝」なんだと思う。

「形」ではなくて「心」。
私もそう感じ始めていたから
「『楽器』じゃなくて、『演奏者』」という言葉を聞いて
私の心も反応して、泣けてきたのだと思った。

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