気づきの日々

毎日、何気ない言葉や思いつきに、ふと気づかされる時があります。
そんな日々のことを書いてみることにしました。

自立

2012-02-25 15:45:48 | 日記

今朝、10時前後にインターホンが鳴り、出てみると
マンション出入り口の玄関に立っている、知らない男性の顔が写った。
「〇〇さんですか?」と聞いてきたので、
私は「いえ、違います」と言って切った。

しばらくして今度は11時半頃に、またインターホンが鳴り、同じ男性が立っていた。
「〇〇さんとは、違いますか?」
2度目なので相手も少し申し訳なさそうにしていたが、私は気味が悪くなって
「違います」とはっきりと返事して切った。

これは「何なのだろう?」と暫く考えていた。
宅配?だったら、電話するなり、宅配ボックスに入れるはずだよね?
もしかして何か犯罪にでも関係しているのかな?
2度も確かめているなんて、やっぱり変だよ。
しかも〇〇さんなんて、うちのマンションにはいないんじゃないかな?

理事長なんだし、警察に連絡した方がいいのかなぁ?
でも、ぁゃιぃ…ヾ(¬。¬ )だけでは、どうしようもないしなぁ。。。
管理員さんに一応話しておいた方がいいかなと思って連絡すると、
「〇〇さんの親類の方とかで、部屋番号を聞きにいらしたけど
セキュリティ上の問題で、個人情報は教えない規則だと言って断ったのに…
私が席を外して外回りを掃除している時に、また入って連絡していたのかな…」
と話されてました。

その後で私の部屋まで管理員さんが訪ねて来られて、事情を詳しく話されました。
個人情報の問題が重視されてきている世論の風潮もあり、
管理会社としてはそこに気を配って徹底しているとのこと。
住人以外の人は顔見知りであってもドアを解錠したりしないし、その辺は徹底している。
「顔見知りだから開ける」というのは公平差に反するから。
だから引っ越しの時も階数のみの表示で張り出しているし、そこは変えられないと。

引っ越し時の表示については、以前からいろいろと反論があったんですよ。
それではどの人が引っ越したのか、どこに新しい人が入ったのか解らない。
これからマンション住民の絆を深めようとしている時に、これは問題ではないかと。
引っ越しくらい、部屋番号を表示しても良いのではないかと何度も聞かされました。
私に言うくらいだから、管理員さんには何度もこの事で抗議されていたそうです。
でも管理員さんは、自分の仕事はマンション管理の仕事であって、
人付き合いを深める事ではないし、セキュリティ上の問題があると思えるから
表示はしないというのが管理会社の方針だからと、はっきりと拒絶されてました。

だけど管理員さんが冷たい人間かというと、逆なのです。
立ち入らないけど、遠くから見ている(配慮している)というスタンスなのです。

同じマンション住人に高齢の一人暮らしの方が住んでいらして
「自分は明日死ぬかもしれない」という不安を管理員さんに何度も話されていたそうです。
その時管理員さんが話されたのは、
「そんな考え方は良くないよ、周りを見たらもっと高齢の人が元気に働いている人もいるよ。
年が上だから先だとも限らないし、頭で考えることが自分の未来を作っているのだから
もっと視点の方向を変えてみないと!」と励まされたそうです。
するとその方は「そうなのか!もっと周りにはいろんな人がいるんだね」と納得して、
自分からいろんなところへ動いて参加されるようになったそうです。

決して無関心ではないのです。
関心があるからこそ、立ち入らないで「自立」するのを見守っている。
そんな事を管理員さんの話から感じました。

あー、私も同じスタンスだなと思ったし、
やはりこれからは自立支援が一番大事なのかなと感じました。

311が起きた後は、「絆」が深く身に染みました。
みんなが助け合って、共に手を取り合って支え合っていく。
そんな「絆」が大切だなと当時は思ってました。
だから理事長を就任した時も、監事さんの「絆を深めて助け合う方向」に賛同しました。
そういう方向で動こうと思ってました。

だけど、「マンションでもっと絆を深める為に、まずは「お茶会」でも始めよう」と
言われた時、戸惑いました。
マンション住民の全員が、それを望んでいる訳ではない。
組合費を使うのであれば、これはどうなんだろうかと。
そんな関係が煩わしくてマンションを選んでいる人もいるし、
助け合いで絆を深める事は大切だけど、どこまで立ち入るべきかを悩んでました。

そして任期を終える頃にやっと、その答えが見つかりました。
やはり「絆」と「助け合い」は、違うのではないかと思います。
助け合う事は一見素晴らしい事のように思えます。
自分ではなかなか出来ないと思うし、困った時にこそ助けてもらえると嬉しいものですよね。
自分も次は困っている人に手を差し伸べようと思いますよね。

でも助けるということは「依存」することになりませんかね?
今ボランティアで若い人たちが東北へ行って手伝ってます。
それはとても素晴らしい事だなと思います。
私にはとても出来ない行動力だから、凄いなと思います。

でも、ボランティアの人達が去ると、次のボランティアを望むようになる。
ずっとボランティアを受け入れることしか考えなくなるような気がします。
そういうシステムで果たして、地域全体が自立の方向に向かえるのでしょうか?

まず自立する為に何が必要か?
最初にそこから考えて支援できてこそ、自立の方向に向かうのではないかなと
1年たってようやくはっきりと理解ができました。

だから「絆や助け合い」は真逆の方向なんだと思います。
手を差し伸べる限り「その手に依存」すると思うのです。
依存したら、次の手をまた欲しがります。
そうするうちに「差し伸べる手」が当たり前になってきます。
それではいつまでも自分で立って歩けない事になりませんかね。

それは私の場合でも言える事です。
今普通に生活しているいろんなシステムが「差し伸べられている手」である事に気付いてない。
だから「依存」している事にもなかなか気付けないでいる。
それが「当たり前」だと思っている自分を自覚してます。

それに気付けるようにならなくてはいけないのではないかな?
それが「自立」に向かう一歩なのではないかな?

マンションの役員をやって、この「答え」を得る事が出来ました。
自分で兎に角考える。
人任せにしない。
そうやって自分なりに努力をすることが、小さな一歩なんだなと理解しました。
理事長らしきことは何もやってません。というか、できませんでした。(笑)
そういう部分は、ほとんど監事さんがやってくださったと思ってます。
そこは本当に感謝しています。
ただ、「自立の方向へ向かう」という譲れない部分では対立しました。
その対立も、意味がある事だと私は思ってます。
対立から和合へ向けて、私の新しい努力が待っていると思います。

このマンション内で、自立へ向かうためにどうしたらよいかを考える一歩となりました。
多干渉ではなく、遠くからいつも配慮しているけど、
それぞれが自立していて、お互いを認め合うというスタンス。

理事の役員はもうすぐ終わりますが、今後もこの事を引き続き考えていきたいなと思います。

そう言えば「絆」という字は、糸を半分に切るという意味でもあるのかなぁ。。。
半と言う点の形も外側に向いてるし。。。
やっぱり助け合いの絆は
「これまで自立できてた糸を半分に切って、外側の依存に向かわせる」に見えてくるなぁ。
テレビで率先して広げている事自体、ぁゃιぃ…ヾ(¬。¬ )意図を感じるし…。
私って、やっぱり見方が捻くれているのかなぁ。。。(;^_^A アセアセ・・・

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落ちる

2012-02-22 15:52:18 | 日記

今日は2月22日。
エジプトのアブ・シンベル大神殿の奥にまで光が届く日らしいです。
アブ・シンベル神殿
この神殿では、年に2回神殿の奥まで日の光が届き、神殿の奥の4体の像のうち、
冥界神であるプ
タハを除いた3体を明るく照らすようになっており…

こちらにその写真が載ってます。↓
アブ・シンベル大神殿
1年のうち、10月22日と2月22日の2日だけ、朝日が東から西へ真直ぐに差し込み、
一番奥の至聖所の4体の像を照らす神秘的なスペクタクルがあります。

ということは、10月22日と2月22日の2日だけは、自分の心の一番奥にある闇の部分まで
光が当たる日だということになりますよね。
この日に自分の一番古い記憶を辿って行くと、一番奥の闇が見えて来そうな気がしました。
内観にピッタリな日でもあると思います。^^

それで自分の古い記憶を辿って行ったのです。
一番古い記憶って何だろう…。

ずっと気になっているイメージがありました。
実家の隣の家の土手から私が落ちたシーン。

隣の地主の家は実家と逆向きにあり、実家が左で隣が右側にあり、
右側の端から小さな小道の坂を登って隣の家に行きます。
なんとなくピラミッドの三角形みたいですね。(笑)
実家は左端から正面向きに階段があって三角形ではありませんが…。

土手の高さ(ピラミッドの頂点)は、2~3mです。
そこから私が落ちたような記憶があるのですが、
この事を母に聞いても「そんな記憶はないけどねー」と言われてました。
母が下にいたのか、母に抱かれていた私が下に落ちたのかは覚えてませんが
とにかく「落ちた」ようなシーンが頭に残ってます。
これって、過去世でピラミッド階層から落ちたという記憶なのかなぁ。。。

私は小さいころから「上に登る」事が好きな、ヤンチャ娘でした。
箪笥の引き出しの出っ張った金具を足場に登って、上に置いてある「ボタン」が入った小箱を取ったり、
庭の松の木に登って、母が作ってくれた人形を置き忘れてきたり…。
(うわっ!これって無意識で人形を生〇に捧げてないかい?(;゜д゜)ゴクリ…)
過去世でやっていたのかもしれないですね…。
そうか、この部分が自分の一番奥にある深い闇なのかもしれない…。
アステカの猫神の夢も、ここに繋がるんだよ、きっと。
生〇を捧げていたことに対する私の闇側の因縁を解くことなのかな。

幼少時の写真や記憶の中にもたくさん、上に昇って災難にあっている私の記憶があります。
箪笥に登って滑って足を怪我して、包帯グルグル巻きの私の写真が残っていたり、
松の木に置き忘れた人形が虫にヤラれてボロボロに変わり果て、母に怒られたり…。

そう言えば、成長して「階段から落ちる」災難も二度経験してます。
あー、これってそういう意味だったんですかね。(苦笑)
すべて私の「不注意」から起きた災難でした。

意識しなくても「落ちる」経験を何度も繰り返してました。
これって過去世で「落とされた」と思って恨んでいる事に対する因縁だったのかな…。
もしくは、人を蹴落としていた側だったのかも・・・。生贄の人形の件もあるしなぁ…。

多分、登るのが好きな性格だから出世の階段を好きで登ってて、途中で誰かに落とされたとか、
変な逆恨みを持っていたのかな?もしくは人を蹴落としたから、自分が落ちるのが怖い?
自分が出世欲で登らなければ別に落ちない訳だし、
落ちた原因も自分の不注意なんですよ、きっと。
誰かに嵌められて落とされたとしても、それを呼び寄せた想念が自分にもあったのだから、
やっぱり自分の責任で落ちたのだと思います。

そうかぁ。。。
たくさん、有ったな「落ちた」事が…。
短大卒業後の就職試験に落ちまくったし…。
これも後で自分で気付きました。
あんな自分、自分が雇い主なら絶対避けるよ!って。。。(笑)
面接試験が苦手なのは、自分の事が良く解っていなかったんだなと今なら思います。

そうか、
高所恐怖症も、この「他への責任転嫁」が原因で恐いのかなぁ。。。
「落とされる」と感じている自分が居るのかも…。
誰にも落とされないんだよ、落ちるのは自分に問題があるから。
そういう事を気付く為の因縁だったのかなと思いました。

そして生〇を捧げていた側という「加害者」の闇の部分も自分は持っていたのです。
その過去の自分の間違いに気づき、自分も過去世で加害者の立場だったからこそ、
現世でのいろんな目にする「加害者」を責められないのかなと感じます。
現世では関わっていなくても、過去世で関わっていたのかもしれないのですから。
だからこそ、それでも生かされている今に「感謝」して「他を許す」事が大切なのかなと感じました。

過去世の事を何も知らないからこそ、「許す」事が大きな意味を持ってくるんじゃないのかな。
だから前世の記憶がなくて正解なんだよ、きっと。。。

過去世でいろいろと被害者側だった方、ごめんなさい。m(_ _)m
今世では決して繰り返しません。それは肝に銘じてます!

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