気づきの日々

毎日、何気ない言葉や思いつきに、ふと気づかされる時があります。
そんな日々のことを書いてみることにしました。

オリンピック

2021-07-23 14:24:56 | 日記
最近ケルマデックさんの「時空の超え方」という本を読んでいるのだけど、物事の捉え方が面白いです。そういう見方があるのかーと目から鱗です。
古くからある物語の世界は我々の日常に現れているそうで、超簡単な世界平和のつくり方という項目が面白い。
荒ぶるゲルマンの神ヴォーダンの神話は、この日本ではみんなに愛されるドラマになっていて、それが阪神対巨人の試合だそうです。
なるほど、どちらも「神対巨人の戦い」ですね。
それで阪神対巨人戦が行われる事で、世界は最終戦争を回避している事になるそうなんです。
大難を小難に回避みたいなものかな〜。面白いですね。
野球ってあまり興味がなかったけど、そういう観点だったら戦争よりも平和的な戦いの方を応援したくなります。

そこでオリンピックが意味をなしてくるのかと納得しました。
コロナ禍のオリンピックって、無理して開催しなくてもいいんじゃない?と思っていたけど、元々のオリンピック開催が平和的目的だった事を考慮したら、日本でこの時期に開催される意味が大きいなと感じました。
開催されることで、日本は戦争よりもスポーツの戦いの平和を選んだ事になり、それは野球と同じく世界戦争を回避している事に繋がっている。
そして世界各国から訪れた選手たちがそれぞれの母国に、無意識でその平和への思いを持ち帰る事になるんですね。
それって凄い事なのではないかな〜。
だからオリンピックは参加することに意義があるんですね。
そう思ったら、オリンピックを応援したくなりました。

開催されることで不安視される新たなコロナの変異という問題もありますが、何か別の見方も出来るのかもしれません。
オリンピックの初期の起源に「伝染病の慢延に困った王が神託で『争いをやめ競技会を復活せよ』という啓示に始めた」とあります。
なんか今と重なる部分があるなーと思いました。

平和的な祭典という原点で、今夜のオリンピック開会式をみようかな。😊


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そらのこと

2021-07-22 17:09:49 | 日記
今日は実家で飼っていた猫「そら」について書きます。

そらとの出会いは、2017年5月26日でした。
実家で掃除をしていたら庭の花壇の方からかぼそい鳴き声が聞こえてきました。
最初は鳥?と思ったのですがあまりにも長く鳴いているので探したら、草むらの下で小さな子猫が震えながら鳴いていました。
「ここにいるよ」と必死で鳴いているように感じました。
生後一ヶ月くらいかな?なぜこんな所にいたのかは判りませんがマンションはペット禁止を煩く言われていたので、そのまま実家で保護することしました。



そらはやんちゃで、甘えん坊で、とても可愛かったのですが、時折私に大切な事を教えてくれました。
「行きたい場所へは、何としてでも絶対に行くんだ!」という強い意志。


道なんてないのに、自分でルートを探して家の中へ入ったり、外へ出たり。
外は危ないからとドアを閉めて家の中で飼っていても、自分で出格子の屋根の敗れた天井から外への出口を見つけ出して遊びに出掛けてました。
きっと外の世界を見てみたかったのでしょうね。
行きたい場所へは何がなんでも、自分で道を見つけて行くんだよ♪と言っているようでした。

私の手作りゲージがお気に入りの場所だった「そら」。

そして一年後にお祝いをした数日後、そらは突然実家から姿を消しました。
その数週間前にも3−4日帰ってこない日があって、外が凄く怖そうな様子を見せていたので、野良の雄猫にやられたのか怖い思いをしていたのでしょう。
でもそれでも外に出て行くことをやめなかったのです。
そしてとうとう帰ってこれなくなりました。
近くを何度も探しに行ったけど見つからず、保健所にも連絡したけど情報がなくて、きっと帰ってこれない事情が出来たのでしょうね。

どこかで元気に生きていてくれたら嬉しいけど、数日後、自動給餌器のそばに設置していた見守りカメラの映像に大きな白い玉が夜の遅い時間に上に昇っていくのが見えて、もしかしたらそらなのかなと思えたのです。
大好きな家の餌を食べにそらの魂が来たのかなと思えました。
でも最後の姿を見守ったわけではないので、もしかしたらどこかで生きてくれている可能性もあります。

去年父が亡くなった翌日に葬儀の準備で実家へ行った時、そらと似ている毛並みの猫が花壇のそばを横切ってました。
思わず「そら?」と声かけしたら、後ろを振り返ってこちらを見て動きません。
何か思い出そうとしているのかもと「そら?」と駆け寄ったら、慌てて隠れるように逃げて行きました。

私の中では生きているのか亡くなっているのかわからない状態のまま時が過ぎ、ブログにもずっとそらの事は書けないままでした。
そして一昨日やっとそらの事が書けて、トップページのそらの写真を眺めていたら気付いたのです。
写真をずっとそのままにしていたのは「解らないから動けない」という私の心を写していて、私の意識はずっと止まったまま過去を見ていたんだなと思いました。
それはそらに限らず他の事でも同じでした。
「どっちなのか解らないから動けない」という状況がずっと続き、それが解る状況は訪れないままでした。
解らないからどちらも選択できずに保留にしたままで、だから状況が全然動かなかったのかと納得できました。
「解らない状況」は取り敢えずそこで手放して、未来で必ず会えるからと前を向く。
生きていたら必ず会えるし、会えなかったとしても魂はいつも感じる事が出来るのだから。
私は「未来で会える」を選択し「もう会えないかも」は選ばない事にしました。
どちらを選ぶのも自由で、その意識の未来が来るのなら私は会える方を選ぼう。

果たして未来でどんな形で会えるのかはお楽しみです。
成長したそら?そらの子供?そらの生まれ変わり?次元の違う世界でのそら?。
どんな形でも何か懐かしい感じはすると思うので楽しみにこれからを生きようと思います。

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欠けの捉え方 喪失感

2021-07-20 12:19:16 | 日記
次に生きている中で感じる喪失感について感じた事を書きたいと思います。
既にあったものが無くなるという欠けの喪失感。
大切な人を失う、自分の所有していた大事なモノを失う(自分で無くした、誰かに盗まれた)
そう言った時、喪失感を感じると思います。
最初はあったのに、今は自分の元にない。
 
人にしろモノにしろ、形あるものは常に変化しています。
ただ、今まで側にあったものが無くなるというのはとても辛いです。
生きている中で家族や恋人、友人知人、ペットなど誕生とお別れの繰り返しを何度も経験し、その度に喜びと喪失感を味わいます。
特に喪失感は、もう二度と逢えないという事実がそうさせるのでしょうね。
病気とかでさよならの準備期間があると心の整理も少しは出来るのかもしれませんが、突然去ってしまうケースも多々あってそちらの方はやるせ無さも大きいと思います。
私もここ数年で父と兄を病気で亡くし、天涯孤独の身となってしまいました。
ペットの猫は、保護して一年目のお祝いをした数日後に帰ってこなくなりました。
今となっては、もっと母や父や兄とそしてペットと会って話しておけば良かったと後悔する事も多いです。
でも毎朝手を合わせて話かけているせいか、不思議と魂が側にあることを感じます。
もう二度と逢えないのだけど、思い出は私の胸の中にあり、今も魂を感じることが出来、そして未来もいつも一緒にあると感じられる。
夢でもたまに逢えます。
過去、現在、未来と魂は永遠に側にあり続けて私を見守ってくれているように感じます。
今、父が、母が、兄が、こんな事を言っているのではないかなと、そう感じる事も多いです。
これは過去の思い出のシーンではなくて、ちゃんと今も一緒に私の中で存在し続けているという事です。
だから形はなくても魂をちゃんと感じる事ができているので、寂しいという感覚は薄らぎました。
形は見えないけど、決して存在していないわけではないのですね。
月と一緒です。
満月は目に見えて会う事ができるけど、新月は見えないから会えない。
でも例え見えなくても、月はちゃんとそこに存在している。
人間の目には見えなくても存在している魂はたくさんあるという事ですね。
これも多様性と言えるのかな。
家族を亡くして感じることは、今生きている大切な人たちともっと会って話しをして理解を深めたいという思いが強くなった事です。
過去に戻って会いたい人に会う事は出来ないけど、生きていればこれから先に会う事は可能なのです。
今は会えない事情があったとしても、未来は会える可能性が限りなく広がってます。
だから過去の苦い経験をふまえて、今できる事を探して行った先に、自分が行きたい未来に行けるような気がします。
コロナ禍の時代でも過去を経験して解ってきたことがあるし、制限があっても今出来る事はたくさんある。その制限さえも、自分が作っている狭い世界のモラルなのかもしれない。
今出来る事を見つけて自分が望んでいる方を選んで行った先に、望んでた未来へと繋がって行くと思える。
だからこれからの世界は他人の価値観で進むのではなく、自分のオリジナルな価値観で創造して行きたいなと強く思ってます。

喪失感については、まだ「見える世界と見えない世界の境界線」が自分の中でもやっとしてているので、また別の感じ方が出てくるかもしれません。
その時に、また書きたいと思います。
 
 
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欠けの捉え方 劣等感

2021-07-19 12:25:07 | 日記

欠けには大まかに2種類あると思う。

生まれつき欠けていたと思う「身体的な欠点(劣等感)」と、生きていく中で欠けを感じる「喪失感」。

身体的な欠点は、人と比べた時に違いを感じるもので言わば「ないものねだり」。

すでにあるものを見たら、それこそが自分の「オリジナル」で自分にとっては最高傑作=唯一無二の存在。

最初からそれが自分にとってはパーフェクトの状態で、なくてもたいして困らない。

美的感覚なんて時代によっては随分と変わっていくもので、人の目で見た一般的な世界よりもオリジナルという概念こそが一番の強みだと思う。

だけど目は自分以外のものに向いているからこそ、成長過程でその違いにも気付くし劣等感も感じてしまう。

大いに感じる事で、次の「劣等感を消化する」事が出来るのだと思う。

私も身長が低くて随分と劣等感を感じて生きてきた。

人からすればそんなに気にするような事ではないのだろうけど、自分にとってはとても重要な問題に感じられた。

 

29歳の時、初めての海外旅行でドイツに行った時、トイレで手を洗っている私を見て「チャイルド?」と話しているのが聞こえた。

土産店に入ったら、東洋の子供だと思われて「シッ、シッ」とあからさまに手で追い払われた。

初めての外国での「あからさまな差別体験」だった。

それから随分と劣等感は消えなかったが、歳をとるにつれてあまり気にならなくなった。

底上げの自分の居心地の悪さから、等身大の自分の心地良さに変わっていったのかもしれない。

若い頃、化粧をするのが当たり前の時代に素顔を人(知らない人でも)に見せるのが凄く恥ずかしかったが、今は素顔でもたいして気にならなくなった。

それと似ている気がする。

先日、冨永愛さんが長身が故のコンプレックスを未だに抱えているという動画を見て、私と逆で同じなんだなーと実感した。

長身だからこそモデルという仕事が出来るのだけど、やっぱり小さい人が羨ましいと今でも思うと。

自分に無いものを見ていても、結局その穴は埋まらないんだよね。

それは自分の過去の苦い体験から沸き起こって強烈な劣等感となるのだけど、それが全てではなくて見えてなかった部分も随分とある。

人の目を通して自分を見るのではなくて、自分の目でちゃんと見てみると違った価値観があって、見えてなかったものが見えてくる。

自分にないものは生きていく中でたいして困らないということ。

ちょっと不便だけど別になくても困らない。

自分では劣等感に感じていることさえも、人によってはその状態をあえて欲しがる人もいる。

姿形は、その人だと認識できさえすれば大した問題ではないのかもしれない。

むしろその人のオリジナルという部分が自分にとっては今世での最高傑作だということ。

あえてその姿形で生まれてくるのを選んできたのだと思うから。

それを生きていく中でいろんな感情を経験して、そういう風に感じられるようになるだろうと。

だからみんな一人一人が違っているからこそ、素晴らしいのだと思います。

多様性の時代って素晴らしいなと思う。

 

長くなったので「喪失感」は次に書きます。

 

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色の原点

2021-07-18 13:00:12 | 日記

私の一番古い記憶での色。

幼馴染と小学校1、2年とも同じクラスで、いつも一緒に居て隣には彼が居ることが当たり前だと思っていた。

小三でクラスが別れて1人になった時、初めて「寂しい」と感じた。

そこから彼を意識しだして好きだった事に気付いた。

1人が寂しい = 彼が好きだった

寂しさの方が最初だった。寂しさを埋める為に彼を求めていた?

1人になったのは私自身に問題があったからではなく、環境の変化で別れたという事。

私が成長する為にあえて1人になる必要があったと、今ならそう思える。

寂しさを埋める為に人を愛する(求める)のではなくて、その『寂しさ』を手放して1人の人間として相手を愛する。

自分で自分を満たし、それができて初めて人を無償の愛で愛する事ができるのかもしれないなと思った。

私が見ていたのはいつも自分の方で相手ではなかった。

だから私は初対面の相手の顔をなぜか覚えられない=相手をちゃんと見ていなかったのかもしれない。

 

私は人と付き合う事がとても苦手だった。

私の事を昔から知っている友人達とは普通に楽しく付き合えるのに、知らない人にはつい身構えてしまう。

自分の心をうまく出せない。

足りない事が多くて「ありのままの自分」にずっと自信が持てなかったのかもしれない。

人と比べる方ばかり見ていた。

でもありのままの自分を好きになれば良いだけの事だった。

うまく出来なくてもいい。それはそこから成長ができる「伸び代」があるという事だから。

ただ「今のありのままの自分」を認めて、成長を見せていけばいい。

人と比べるから違う事に欠けを感じるけど、同じでなくて良いんだ。

自分自身は最初からオリジナルというパーフェクトで生まれてる。

初めから欠けているものなんてなかったんだ。

足りないのではなく、生きているだけでそれだけで自分にとっては充分に「足りている」状態。

その状態が小さいか大きいかの違いだけで、それは魂の成長の大きさなんだと思う。

生きているという事は、それを限りなく大きくできるチャレンジでもある。

生まれてくる前に、自分は今回の人生で大きく成長するよ♪と自分に超えられる試練(設定)を作って生まれて来ているのかもしれない。

私の色の原点を考えてみて、私が今回の人生でやりたかった事が見えてきた。

「寂しさ」を手放して、自分自身を満たし、ちゃんと無償の愛を育てる事。

多分、それをやろうと望んで生まれて来たのではないかな。☺️

昔からなぜか計算高いというか損得勘定で動いていた自分がいることに気付いていたが、そのサガがやっと納得できた😅

邪念を捨てて、自分自身を満たして大きく育ちなさいと生まれる前の自分が言ってるような気がしてる。

 

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