江戸時代の結婚は必ず第三者が介在した。当人の意思よりも、親や目上の人の判断
が優先されていた。庶民は見合いをして決めた場合もあったが、武士は”武士たる
もの、娘の姿形を品定めするなど、浅ましい行為”と考えれれていた。
大名クラスの縁談は将軍かそれに準じる身分の高い人が話を持ってくる。
云われた方は目上の人に断るわけにはいかないので、たいていは承知する事になる
各藩の上級武士も似たようなもので、家格が釣り合っており、適齢期の男女がいれ
ば親同士で話がまとまってしまうのです。
又、下級武士でも、手続きが必要で双方から願いを出し、藩庁の許可をもらわなけ
ればならなかった。許可さえ下りていれば、式を挙げなくても、夫婦と云う事にな
った。ところが、式を挙げないうちは、同棲はおろか、会う事もなかった。
この様に家と家との結びつきが重視された結婚では、恋愛結婚はありえなかった。
恋愛と結婚は別と考えていた武士も多かったようです。
そんなことで、家に縛られがちな男女の関係よりも、男同士の恋愛のほうが、
純粋な関係を結べると考えられていた。
もともと男色は、女人禁制の仏教寺院の中で発達したもので、女色は罪でも、男色
修行の妨げにならないとされていた。現代からみれば、おかしな理屈に思えるが、
戦国時代になると、男色は武士の間でも盛んになっていく。
理由は単純で危険な戦場には女性を連れていけなかったからです。
身のまわりの世話をする小姓が男色の相手を務めた。織田信長と森蘭丸な有名です
が、戦場に明け暮れる武士の間では、同士的な連帯感や主従の絆を強める役割も
果たしていた。その後平和な江戸時代に入っても衆道(男色)は将軍から大名、
下級武士まで広く浸透していったのです。例えば家光の相手の一人、小姓上がり
の老中、掘田正盛は家光が死ぬと、後を追って殉死してしまった。
このように武家に男色が広まった背景に、信義や忠誠心があった事は事実だがそれ
以前に武家の結婚制度に問題があり男色に走る武士が増えたという事もいわれる。
byビンちゃん
(株)夢の設計社
歴史の謎を探る会より