「八朔御馬献上」
八朔とは8月1日の事でこれから向かう秋の収穫が無事豊穣でありますよ
う祈念する農耕儀礼であったのが後に農村から出た武士達がこの日を主従がお互い
の信頼関係を確認する為寄り合いを開いたり、馬や太刀等を贈答した。
特に天正18年(1590)8月1日は徳川家康の江戸入りの日であった為幕府ではこの日
を重要な日とし、武家間のやり取りが盛んに行われた。
朝廷に馬を献上する事も行われた。
例年朝廷に対して幕府の八朔の御馬献上は行列を揃えて東海道を下った。
天保3年(1832)の八朔の御馬献上の時広重は一行に同行して儀式の図を描く様
命じられたと云う説もある。又一方で旅の最後の<55>京師の絵の中
の三条大橋の橋杭は1590年、秀吉の命により木製の物から石杭に変え
られたのがこの絵は石には見えない所から年代的にみて広重の御馬献
上との同行説が疑問視されている。(安村敏信、岩崎均史、の広重と
歩こう東海道五十三次より)
<-- 広重 江戸名所百景 -->
八朔とは8月1日の事でこれから向かう秋の収穫が無事豊穣でありますよ
う祈念する農耕儀礼であったのが後に農村から出た武士達がこの日を主従がお互い
の信頼関係を確認する為寄り合いを開いたり、馬や太刀等を贈答した。
特に天正18年(1590)8月1日は徳川家康の江戸入りの日であった為幕府ではこの日
を重要な日とし、武家間のやり取りが盛んに行われた。
朝廷に馬を献上する事も行われた。
例年朝廷に対して幕府の八朔の御馬献上は行列を揃えて東海道を下った。
天保3年(1832)の八朔の御馬献上の時広重は一行に同行して儀式の図を描く様
命じられたと云う説もある。又一方で旅の最後の<55>京師の絵の中
の三条大橋の橋杭は1590年、秀吉の命により木製の物から石杭に変え
られたのがこの絵は石には見えない所から年代的にみて広重の御馬献
上との同行説が疑問視されている。(安村敏信、岩崎均史、の広重と
歩こう東海道五十三次より)
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