ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

「教育勅語」再考 その2

2007年05月14日 | 教育問題関係
 だいぶ間が空いてしまいましたが、前回に引き続き、教育勅語の再考を行っていきたいと思います。

 まず、教育勅語をそのまま残すことは、現行憲法上できないのは明らかではありますが(とは言うものの、GHQが独自に教育勅語を手直しし、改訂して残そうとしていたこともあったため、一概に現行憲法で詔勅が禁止されているため、排除されたとも言えないのも事実ですが)、この理念を何らかの形で残すことはできなかったのかと思うのです。

 教育基本法が制定された当時の文部大臣であった田中耕太郎氏は、教育勅語に関して「あの儘で置いて置きましても、健全なる常識を以って見ますならば、詰り極端な国家主義的の眼を以って読まないならば、別に誤解を生ずる訳はないと思う」(第90回帝國議会における答弁)と述べており、更に田中氏の後任の高橋誠一郎氏も「教育勅語とこの教育基本法との間には、矛盾と称すべきものはないのではないかと考えておる」(第92回帝國議会における答弁)と述べているように、当初から即刻排除という結論に至ってはいなかったのです。

 しかしながら、(排除に至ったプロセスこそは違うものの)衆議院と参議院において、教育勅語が排除されてしまったのは、周知の通りです。

 これは非常に口惜しいことであります。教育勅語をそのまま残しておかなくても、たとえば、旧教育基本法の前文にでも挿れるかたちを取ってでも、残すべきであったと思います。GHQが全ての実権を握っていた当時は難しかったとしたら、その後でもよかったから。

 そのためか、吉田茂内閣で文部大臣を務めた、後に獨協大学の初代学長になる天野貞祐氏が、「ただ自分のために生きるのではなくして、社会国家のために生きるとか、何かそういうものを入れたいと思う」(刷新委員会第一特別委員会において)と述べ、教育勅語に代わる新たなものとして、「国民実践要領」を示したのですが、旧社会党や日教組が「反動的な修身教育の復活だ」などと批判し、この計画は頓挫してしまいます。

 余談ですが、天野氏本人は、戦前『道徳の感覚』という本を出版したところ、軍部や右翼勢力から圧力をかけられ、発禁処分にされているのです。その天野氏が「反動的」と批判されるとは、何とも皮肉な話ですが。

 このように、教育勅語の理念は戦後、尽く封印され、それどころか前回の冒頭にも述べたように、甚だしい曲解さえもされてしまっています。しかし、その理念は、教育勅語制定にあたり、東大教授の中村正直が神道や儒教といった宗教色の強い勅語を文部省案として起草したのを、井上毅が勅語から宗教色を抜き、普遍的な道徳的価値観になるように作成したように、教育勅語の理念は、現在においても色あせることはないと思うのです。むしろ、色あせるどころか、ますますその輝きを増しているとすら言えるのではないでしょうか。

 戦前の悪しき産物として、負のイメージを纏わされ戦後光を浴びることのなかった教育勅語ですが、今一度、われわれ自身で読み直すべきではないでしょうか。そして、そこで述べられている「ごく当たり前の道徳観」を、後世に伝えていくのが、現在に生きる日本人の義務だと思います。

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