ひとり井戸端会議

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「学生の本分」とは何か

2009年07月18日 | 教育問題関係
立命館大アメフト部員がAV出演、退部処分に(読売新聞) - goo ニュース

 今年の日本選手権「ライスボウル」を制した立命館大(京都市中京区)のアメリカンフットボール部で、準レギュラーだった4年生が、3年前の1年生当時、アダルトビデオに出演していたとして退部処分を受けていたことがわかった。
 大学側も「学生の本分にもとる恥ずべき行為」として処分を検討している。
 大学によると、同部コーチらが6月中旬、インターネット掲示板で、この4年生の出演に関する書き込みを確認。同部の聴取に「1年生の時に6回出演した」と認めたため、6月15日付で退部処分にした。



 立命館大学の今回当該学生らに行った「処分」の根底にある発想は、「アダルトビデオ出演」は恥ずかしいこと、「健全な学生としてあるまじき行為」というものなのだろう。要するに、「性」を売り物にする商売は破廉恥なこと、ないしは卑しいことなのである(そこに「学生」も「社会人」もないのだろう)、ということなのだろう。

 確かに古くから、日本だけでなく、多かれ少なかれどこの国においても、売春や水商売といった、性を売り物にする商売には冷たい視線が向けられてきた。日の当らない、人様には言えない仕事という考えは今後とも変わることはないだろう。人はこうした、俗に言う「下(しも)」に関する話題をするときには羞恥心を感じることも、自然なことである。

 しかし、こうした商売も実はなくてはならない商売で、れっきとした立派な「仕事」なのである。人間は、性的な欲求を満たす場が一切遮断されてしまうと、必ず精神的に荒廃してしまうものなのだ。だからこそ、そういう意味においても、戦場に「女性」、すなわち慰安婦はつきものなのだ。ある意味、大学側のこうした行為は、性を売り物にする仕事に携わっている人たちの人格を否定する行為であるとも言える(こういう仕事をしている人は、こんなこと百も承知だろうが)。



 恐らく、大学側が今回当該学生らを処分した背景には先述したような理由があるのだろうが、これは果たして処分をするにあたり、正当な理由として容認しうるものなのだろうか。

 思うに、Eric Prog氏のブログにおいても言及されていたが、アダルトビデオに出演する行為が「学生の本分にもとる恥ずべき行為」であるとすれば、そうしたビデオをレンタルしているショップでアルバイトすることも、「学生の本分にもとる恥ずべき行為」ということに、なりはしないか。

 もっと言えば、学生がアダルトビデオを購入することはおろか、これを鑑賞することも、「学生の本分にもとる恥ずべき行為」ということになりえ、したがって処分の対象になってしまう可能性もある。しかしながら、今時アダルトビデオを一本も見たことのない学生など、果たしていようか(苦笑)。したがって、処分の正当性としては極めて疑わしい。



 それでは、「学生の本分」とは、一体何なのであろうか。

 「本分」とは辞書には「人が本来尽くすべきつとめ。」(大辞泉)と出ている。それでは、学生が「本来尽くすべきつとめ」とは一体何なのであろうか。

 これについて完全な綺麗事で答えるならば、大学という場において、学問に励み、勉強に学生生活に切磋琢磨できる友人をつくり、大学において社会に貢献できる人材としての知識と人間性を養うこと、とでもなろうか。

 しかし実際問題として、私がこれを「綺麗事」と言ったように、このような学生で大学が一杯になっているわけではない。むしろ、このような学生は非常に少数派でしかないだろう。

 私は、大学で何を最も学ぶべきかと言えば、それは、自由には当然に責任が伴う、ということであると考えている。そして実はこのことを学ぶことこそが、学生としての「本分」なのではないかと思っている。つまり学生の義務というのは、勉学も当然なのだが、それも含めてあらゆることの根底にある、責任なき自由はなし、という事実を身をもって知るということにあるのではないか。



 その意味において、大学側の行った処分も、学生に対し、学生がアダルトビデオに出ると、社会的には非常に厳しい目で見られるよ、ということを教えたということで、意味のある処分だったと見ることもできる。

 私としては、上記学生の「本分」からして、学生がアダルトビデオに出るのか出ないのかは、もう一応大人なのだから自分の意思で決めればいいが、もし出演するという選択をしたら、当然大学側は何らかのサンクションを与えてくるだろうから、もし処分を受けても、その処分を自身の責任の下、甘受できるという覚悟があったのかどうか、ということのほうが、重要な点ではないかと思う。



 大学側の行った処分が性を商売にする仕事への偏見や、そうした偏見を基盤に、そのような仕事に当校の学生が関与したということによる、学校の社会的信用の失墜を恐れて処分したということは、(そうした理解が正しいものかどうかは別として)理解できなくはない。したがって、学校側の対応には一応理由がある(先述したように、処分の理由の正当化は非常に困難であると思うが、実社会の次元では当該学生を処分しないほうが、批判は強まるだろう)。

 問題点は、自分がアダルトビデオに出ることによって大学や自身にどのようなデメリットが実際問題として降りかかるのか、当該学生らが自分のしたことの意味をきちんと理解できていたか、という点にあるのではないか。やはり、責任と自由の問題に還元される話である。

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