ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

教師が不憫でならない

2009年04月29日 | 教育問題関係
最高裁が「体罰」認定破棄 熊本の損害賠償訴訟(朝日新聞) - goo ニュース

 小学校2年の時の「体罰」をめぐって熊本県天草市の男子生徒(14)が同市に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷(近藤崇晴裁判長)は28日、「体罰」があったと認定して市に賠償を命じた一、二審判決を破棄し、生徒の請求を棄却した。第三小法廷は、臨時講師が注意を聞かない生徒の胸をつかんで体を壁に押し当てて怒ったことを「許される教育的指導の範囲を逸脱せず、体罰にはあたらない」と判断した。
 最高裁が民事訴訟で教員の具体的な行為について「体罰でない」と判断したのは初めて。学校教育法は体罰を禁じているが、どのような行為が体罰にあたるかの具体的な例示はない。どの程度の指導が許されるのかが学校現場で議論になっているなか、幅広い影響がありそうだ。



 私は、このようないわゆる「モンスター・ペアレント」に付きまとわれた教師が、不憫でならない。最高裁が下した判断は至極当然のものであり、批判される筋合いはない。

 最高裁の判決によれば、当該教師の行為は、「児童の身体に対する有形力の行使ではあるが、他人を蹴るという一連の悪ふざけについて、これからはそのような悪ふざけをしないように被上告人(当該教師に胸倉を掴まれた児童のこと。筆者注)を指導するために行われたものであり、悪ふざけの罰として被上告人に精神的苦痛を与えるために行われたものではないことは明らかであ」り、「本件行為は、その目的、態様、継続時間等から判断して、教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではなく、学校教育法11条ただし書にいう体罰に該当するものではない」。これは、社会通念に照らして考えても、ごく自然な判断であり、何らおかしな点はない。



 本件は、公務員たる当該教師に対して、国家賠償法1条に基づく損害賠償を請求した事案であるが、同法による損害賠償請求の要件として、「違法な加害行為の存在」があるが、当該教師の行った行為(児童の胸倉を掴み、「もう、すんなよ」と大声で注意をしたこと。)が学校教育法11条ただし書にある体罰に該当しない以上、これをもはや問題にすることはできない。

 確かに、今回の当該教師の行った行為が客観的に判断して公正を欠くとするならば、たとえ学校教育法11条に反していないとしても、最高裁昭和61年2月17日判決(パトカーによる追跡がそれ自体は法律の定めに従ったものであっても、第三者に対する具体的な危険の発生を考慮せず、不相当な方法で行われた場合、条理に反し違法であるとした事例。)に従って違法と判断することも可能なのかも知れないが、それは後に述べる「事実の概要」を見れば、無理があることが理解できる。



 長くなるが、本件の「事実の概要」はこうだ。


①平成14年11月の休み時間に、発達障害のある児童Aがパソコンをしたいと強く希望してたため、Aの担任のBがAを宥めていた。そこに当該教師(被告、上告人)が通りかかり、Bと共にAを宥めた(このとき、当該教師はAの目線に合わせるため、しゃがんでいた)。

②そこに当該児童(被上告人、原告)が通りかかり、当該教師の肩を揉みだした。そこで当該教師は当該児童に対し、肩揉みをやめるよう注意をしたが、当該児童が離れなかったため、当該教師は当該児童の手を振りほどこうとして体をひねった。この際、当該児童は廊下に倒れたが、すぐに立ち上がった。

③そこに6年生の女子数人が通りかかったとき、当該児童と児童Dは女子児童らの足を蹴りだした。そこで当該教師は児童Dの肩を押さえつけ、蹴る行為を制止し、このようなことをしてはならないと注意した。

④教師BがAを宥め終えたようなので、当該教師は職員室に向かおうとしたとき、背後から当該児童が当該教師の臀部を2回蹴り、逃げようとした。そこで当該教師は当該児童を追いかけ、当該児童の胸倉を掴み、大声で「もう、すんなよ」と注意した。当該教師が手を離した際、当該児童は手をついて転ぶ状態になった。

⑤当該児童は同日午後10時ころ大声で泣き、「眼鏡の先生から暴力をされた。」と母親に訴えた。母親からの抗議を受けた学校側は、翌日当該教師に上記行為について説明を受け、そこで校長は母親の勤務先に電話をし、当該教師が当該児童の胸元を掴んで指導したことについてお詫びをするとともに、詳しい事情調査をすることを伝えたところ、母親から同日12時ころ来校したいとの申入れがあり、校長はこれに了解した。

⑤母親は、当該児童が胸元を掴まれたまま床にねじ伏せられた、と言って抗議をした。別の日の午後7時30頃から、母親は学校側に対し、「我が子は成長過程の重要な時期にあり、その過程で恐怖心を植え付けられ心に傷を負った。これが将来に影響すればどうするのか。」、「当該教師の監督責任は管理者である。校長らの今後にも影響するかもしれない。」、「伝統あるA小に当該教師のような先生はいらない。」、「学校側からの謝罪を文書で回答してもらいたい。」、「事案発生から今日までの間に、なぜ我が子に当該教師は謝らなかったのか。」、「自分が要求しているのは当該教師がいなくなることである。」、「警察に突き出そうと思えばできる。」、「教育委員会とか天草教育事務所、県教育委員会に言うこともできる。」、「弁護士に相談することもできる。」、「当該教師のような子供を育てた親の顔が見てみたい。」などといった抗議を一方的に続け、最後には母親の実兄が母親の帰宅を何度も促す状況が続き、午前0時ころ話し合いは終了した。

⑥ちなみに、当該教師が担任を務める保護者の間では、当該教師が教師としての経験が短い分、子供達への声かけ等での配慮が足りないのではないかと思ったことはあるが、児童とのコミュニケーションは取れているようであるので、心配はしていない,当該教師の指導面における配慮には感謝しているという感想が述べられている。

⑦そこで平成14年12月9日午後2時ころ,当該教師が教師D立ちあいのもと、当該児童に「恐がらせてごめんね。」と謝罪をし、立ち会った教師が、「どうする。許してあげる。」と問いかけたところ、当該児童は「うん。」と返事をし、当該教師を特に恐がっている様子はなく、普通であった。

⑧後日、再度母親との話し合いをすることにした学校側に対し母親は、以下のような内容のことを話した。① 当該教師は我が子に蹴られても痛くもかゆくもなかったはずだ。②当該教師はE教諭とできている。そして、2人は口裏を合わせている。E教諭は嘘をついている。③保護者の許可を受けずに当該教師が謝罪したということはどういうことだ。保護者への謝りも済んでいない。④我が子は当該教師に恐怖感を持っている。今朝おねしょしたのも当該教師と接触した恐怖感からだ。⑤当該教師は告訴すれば逮捕される。⑥昼休み時間くらいで話をつけられるわけではない。ちょっと話をして私を追い返そうとしているのだ。

⑨その後も母親は学校や教育委員会に対し、なぜ暴力教師をそのまま放っておくのか、僅か8歳の子供に手を出すというのは犯罪である、後で告訴もできる、教育委員会にこのことを伝えれば、管理職に「おとがめ」があって当然のことだ、校長らはこのことをうやむやにしようとしている、本渡市立A小学校の管理体制がなっていない、管理職として当該教師を教育委員会に突き出すべきであるなどと再三にわたり抗議を繰り返した。

⑩その後、母親は我が子を病院に連れて行き、PTSDの診断を受け、PTSDと診断され、これをもって警察に向かい、捜査を依頼した。そして母親は、平成18年に入ってから、当該教師を刑事告訴した。



 長々と事実関係を叙述して恐縮だが、その理由は、この母親がいかに狂っているのかを証明するためである。この事実関係を前にし、私は当該教師が不憫で仕方ない気持ちに駆られた。最高裁が、判決文の中で「極めて激しい抗議行動」と述べた理由がよく分かる。

 

 確かに体罰は問題である。理不尽な暴力はあってはならない。しかし、体罰を全く禁止するのも行き過ぎであるのではないか。

 「話せば分かる」というが、そのためには、どうして自分が怒られ、ないしは諭されているのか、理解できる心がなければ、そのテーゼは成立しない。「話せば分かる」状態になるには、それがどうしていけないことなのか理解できねばならない。善悪を分別する能力に欠ける子供ならなおのことのはずだ。

 子供が悪いことをしたら問答無用で暴力によって解決するのは論外だが、その行為がなぜいけないのか、悪いことなのか、時には体をもって教えることも必要なはずだ。これは暴力による恐怖で畏怖させ、子供をねじ伏せるということとは次元が全く違う。

 私など、親から何度も注意繰り返されても「悪いこと」をやめなかった場合、「いい加減にしないとぶつよ!」と言われたものだ。それによって私は「悪いこと」をやめたものだ(もちろん、他にも親や兄弟などからの説諭もあったが)。これこそが、今の教育に決定的に欠けてしまっていることだと思う。



 ところで、どうして人類は戦争をやめられないのだろう。なぜ、警察による暴力は許されるのか。「正しい暴力」もあるのか。

 世の中が「話せば分かる」人ばかりで、皆が慈悲に満ちていれば、戦争はなくなるのだろう。しかし、それは絵空事であることは誰にでも分かるはずだ。われわれ人間は実は、暴力を全く排除した状態では、平和を創出することは不可能で、暴力によって担保された、擬似的な平和しか享受できないのだ。

 たとえば、警察が全く銃を撃つことをやめ、目の前の犯罪者に暴力を行使することが否定されれば、警察の存在意味はなくなるだろう。それは、暴力という最後の抑止力を放棄してしまっているからだ。



 それから、普段法律について述べている私が言うことがあってはならないことだと思うが、権利だの人権だの、そういった、時には道徳や倫理と真っ向から対立するものばかりを幼いころから、「生まれながらにして持っている」と教え、子供に扱いきれない猛獣(権利、人権)を与えることは、子供にとっても社会にとっても不幸なことなのではないか。

 悪いことをすれば怒られる。それでも言うことを聞かない場合は、体をもってそれがなぜいけないことなのか教えてやる。これこそが教育者としての教師がやるべき本当の仕事なのではないか。

 しかしながら学校教育法において体罰が禁止されている以上、体罰をすることはできないが、本件におけるような程度の有形力の行使さえも認めないとなれば、それは原告側が述べるように、教育の硬直化を招き、かえって教育上支障をきたすことは明白であるので、最高裁の判断は学校教育法の体罰の禁止と、社会通念を両方考慮したものとして妥当である。全国の学校は、こういうモンスターに怖気づくことなく、毅然とした指導をしていってもらいたい。

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