愛犬くんとのゆったりライフ

温厚な愛犬くんとの日常を気ままに綴ります。
郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

武石胤盛さん(7)「神生館探索の感想」

2009年11月29日 | 郷土の武将 武石胤盛

昨日の「神生館(城)探索」の感想を、改めて書こうと思います。


※探索の内容にご興味のある方は、下記のリンクをご参照ください。

武石胤盛さん(6)「神生館を探索!」


神生館跡地を訪ねてみて「こんなに奥まった所だったのか!」と驚きました。

木々がうっそうと生い茂り、特に『星宮神社』周辺は木陰で薄暗いのです。

その神聖な雰囲気に圧倒され、何だか恐ろしい気持ちになりました。


しかし、思い返してみると「荒廃している」という感じはありませんでした。

ひっそりとはしていましたが、清潔感がありました。

定期的に地元の方々が、お掃除されていらっしゃるのかな?と思います。

館跡地の一角は農地になっていて、農作物が植えられていました。

ある程度、人の手が入り管理されているのだと思います。

(そもそも、私有地なのかも知れません

今でも、その土地に関わる人がいる…ということが嬉しいです。

211128_033

↑神社の囲み(土塁のように高くなっています)から出て、撮影しました

明るい日差しが降り注いでいました。

一日過ぎた今、神生館のことを思い出すと、暗い感じではなく、むしろ明るい感じがするのが不思議です。

211128_031

↑神社の囲みから出て、視線を左側に移して撮影しました。

正面の一段高くなっている所が土塁と思われ、そのすぐ下は深い空堀です。


丘陵を上がった台地の、更に奥まった場所に位置し、土塁や堀もある。

…身を隠すとしたら、かなり安全な場所だったと思われます。

丘陵を上がってくる途中には、立派な旧家が数軒ありました。

周辺に家臣団の家々があり、大切に守られていたのかな?とも思いました。


小見郷は、千葉庄の猪鼻館からは、かなり離れています。

飼い主が高速に乗った幕張ICから、70キロ程度はあったと思います。

祖父の実家が山武郡なので、東関東自動車道の富里ICで降りることが多いのですが、富里から更に倍はあるな…と、感じました。

(昨日のルート:京葉道路・幕張IC→東関東自動車道・佐原香取IC)

多分、猪鼻から小見郷までは、60キロ程度だと思われます。

(この辺りのことは、明日、カーナビで調べます。今日はもう寒いので

【追記 2009.11.30】

カーナビにて「神生館(城)」までの距離を確認してみました。

幕張IC付近からは、64キロほどでした。

そして、飼い主の職場付近(千葉市中央区)からは、62キロでした。


<資料を読み返してみました>

改めて、丸井敬司さんの著書『上総下総千葉一族』を読んでみました。

簡単に要点を挙げます。

  • 常胤公が領していた立花郷は、1136年7月に相馬御厨とともに下総国司に奪われた。
  • その後、立花郷には上総氏が進出した。
  • 常胤公の弟・胤隆氏が領した小見郷は、旧山田町小見から、旧小見川町小見川の一帯

(神生館(城)も、胤隆氏の領地・小見郷内だった可能性が高いです)

 


著者の丸井敬司さんは、以下のようにお考えです。

常胤公の弟・胤隆氏は、国司に領地を奪われた後は、千葉一族と行動を共にした記録がない。

胤隆氏は小見郷に残り、新たに進出してきた上総一族に従ったのではないか。

※小見郷が、上総一族の支配下におかれた時期については、不明のようです。


以上のことから、再度、胤盛さんに関係する情報を整理してみます。

・立花郷が国司に奪われた1136年は、胤盛さんが生まれる10年前

つまり、胤盛さんが神生に住んだ頃には、隣接の立花郷に父・常胤公の支配は及んでいなかった。

立花郷は、胤盛さんが神生館に住んだ頃は、下総国司又は上総一族の領地だった。

・胤盛さんが住んだといわれる神生は、常胤公の弟・胤隆さんが支配していた可能性がある。

胤隆氏が領していた小見郷に「神生」が含まれている可能性があります。

・神生に隣接する立花郷は、国司又は上総一族の領地だった。

→国司が支配していた場合…敵対しているので、かなり危険だと思われます。

→上総一族が支配していた場合…敵対関係ではないと思いますが、優遇もされない状態だと思われます。


いずれにしても、小見胤隆さんの存在なくして、胤盛さんが単独で神生に住むのは難しいのでは…と思います。


千葉郷の領主の子息が、敢えて千葉郷を離れて神生に住む理由…

うーむ、なかなか難しいです。

<飼い主の想像>

1.立花郷の奪還のため、父・常胤公の名代として現地で交渉役を担っていた?

→実際に交渉にあたるのは家臣だとしても、その心意気を示すために派遣されていた。


2.常胤公と弟・胤隆さんの連合軍の一員として小見郷に駐留していた?

(国司から立花郷の支配権を奪い返す機会を狙っていた?)

→小見郷の支配権が、最終的には上総一族に移ってしまったので、胤隆さんは現地に残り、胤盛さんは千葉庄に帰郷した?


3.何らかの事情で、叔父・小見胤隆さんの元に預けられていた?

(理由としては…病気、家族間の事情、胤隆さんの養子になるためなど)


ここまで色々と考えてきましたが、あくまで飼い主の個人的な見解です

何か確たることが判るよう、これからも勉強していきたいです。

 

愛犬くんと共に、調査を続けます!

211129_018

【追記】

2016年5月に大幅に加筆修正いたしました。


【飼い主が勉強した本

丸井敬司氏の著書『上総下総千葉一族』

◎千葉日報社『千葉氏探訪』房総を駆け抜けた武士たち

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東胤頼氏ゆかりの地を訪ねて(芳泰寺)

2009年11月28日 | 千葉氏について(郷土史)

本日は、常胤公ご存命当時の「小見郷、立花庄周辺」と思われる地域を探索しました。

(詳しくは、「千葉氏について」「郷土の武将 武石胤盛」内の記事をご覧ください)

その締めくくりとして、常胤公の六男・東胤頼氏ゆかりの地を訪ねました。


<芳泰寺>香取市岡飯田(旧・小見川町岡飯田)

胤頼氏の居城跡地の麓にある寺院です。

(「森山城址」が見つけられませんでした。残念!)

東氏の菩提寺であり、敷地内には東胤頼夫妻のお墓がありました。

樹林寺と同様、約3年ぶりに訪ねました。


正面の写真です。

曲がってしまいました。スミマセン。

211128_048_2

東胤頼夫妻のお墓です。

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とても立派な山門です。

鐘もつかせていただきました。

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山門を脇から撮影しました。

屋根の一番高い所には月星紋がありました。

211128_057

山門のすぐ脇には六地蔵様がいらっしゃいます。

211128_050

後ろの丘陵が森山城址なのでしょうか。

次回は、是非、訪ねてみたいと思います!

211128_056

【飼い主が勉強した本

◎千葉日報社 『千葉氏探訪~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち~』

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平良文公ゆかりの地を訪ねて(樹林寺)

2009年11月28日 | 千葉氏について(郷土史)

本日は、常胤公の三男・武石胤盛さんが若い頃に住んでいたといわれる「神生館」を訪ねました。

【補足】胤盛さんが神生館に住んでいたかどうかは定かではありません。ご了承ください。


神生館は、香取市神生(旧・山田町)にあります。

(詳しくは「郷土の武将 武石胤盛」内の記事をご参照ください)

そこで、平良文公ゆかりの『樹林寺』にも、約3年ぶりに足を運びました。

 


<樹林寺>香取市五郷内(旧・小見川町五郷内)

↓こちらが樹林寺です。

良文公は亡くなる際「自分に会いたければ、畑の夕顔(干瓢)の実をあけなさい」と遺言をしたそうです。

子息が夕顔の実を見つけて割ってみると、中から観音像が現れました!

この像は「夕顔観音」と呼ばれ、千葉氏に信仰されたと伝わっているそうです。

常胤公の六男・東胤頼氏も、東氏の祈願所としたそうです。

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↓お寺の正面方向から撮影

見晴らしの良い高台にあります

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↓四季桜が咲いていました~

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↓左の石は、安産などにきくという「子持ち石」です。

飼い主も、お水をかけてきました。

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↓こちらは町指定の四季桜です。

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↓樹林寺の脇です。

豊かな自然が残っています

211128_008

【飼い主が勉強した本

◎千葉日報社 『千葉氏探訪~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち~』

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武石胤盛さん(6)「神生館を探索!」

2009年11月28日 | 郷土の武将 武石胤盛

本日はお天気が良く、絶好の「探索日和」です!

早朝から、胤盛さんが住んでいたといわれる神生館の跡地へ向かいました。

【補足】

この時に訪ねた「星宮神社」が神生館跡だったかどうか定かではありません。

「星宮神社」です。

木々に囲まれていて、「昼なお暗く」という表現がピッタリです。

「星宮神社」と書かれています。

「星」は妙見信仰からきていると思われます。

 

神社のすぐ脇が、土塁のように、こんもりと盛り上がってました。

盛り上がっている所に上がって下を覗くと、空堀?が深く掘られていました。

↓画像が暗いのですが載せてみます。

空堀?が分かりづらくてスミマセン!

 

 

↑神社の脇から、入り口の方向を撮影しました。

立派な大樹が神社を守っているようでした。

↑神社の裏手です。

正面の、土が盛り上がっている所は土塁だと思われます。

↑神社の裏手は平地で、かなり奥まで農地が広がっていました。

館や砦?を構えるのに充分な広さだと思われます。

↑日当たりも良さそうです。

↑この盛り上がっている所も土塁でしょうか?

神社への入り口を、敷地の外から撮影しました。

 

<訪ねてみた感想>

「神生館と思われる星宮神社は、平地から少しだけ奥に入ったところにあるのかな?」と、地図を見て想像していました。

実際は、丘陵地の高台の奥地に、ひっそりと建てられていました。

神社へ入っていく道も狭く、地元のお店の方に教えていただきました!

教えていただいたお陰で、何とか辿り着けました。

ありがとうございました

 

胤盛さんは、この地で、どんな暮らしをしていたのでしょうか…

神社の敷地内しか探索しませんでしたが、神社の裏手に広がる農地は日当たりが良くて明るい感じでした。

人里から離れた安全な場所のようにも思えました。

 

<筆者・飼い主の想像>

胤盛さんが神生に住んでいたとしたら、それは叔父の小見胤隆さんと関係があるのではないか?と考えてみました。

(※「小見胤隆さん」は、胤盛さんの父・千葉常胤公の弟です)

そして、小見胤隆さんの居城は「小見城」ではなかったか?と想像しました。

小見城は、星宮神社から山道を下った所にあります。

(※「小見城」は、もっと後世に創建されたと伝えられているそうです…)

小見城は、水田地帯を見渡せる広々とした平地にありました。

 

叔父さんの庇護の下、修行をしていたのか、或いは敵対する武士団の内偵をしていたのか、或いは人目を憚る事情があったのか…。

はたまた、小見胤隆さんとは、まったく関係ないのか…。

飼い主の想像は、更に迷宮へと迷い込んでいきます

胤盛さんの前半生について、これからも調査を進めていこうと思います!

姪っ子くんのぬいぐるみを枕に眠る愛犬くんです!

 

【飼い主が勉強した本

◎吉川弘文館 福田豊彦著 『千葉常胤』

◎新人物往来社 丸井敬司著 『上総下総千葉一族』

◎千葉日報社 『千葉氏探訪 ~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち~』

【飼い主が参考にしたホームページ

余湖くんのホームページ

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武石胤盛さん(5)「胤盛さんの謎」

2009年11月24日 | 郷土の武将 武石胤盛

飼い主が心惹かれる「武石胤盛さん」についての第5弾です。

今回は、胤盛さんの謎について、飼い主なりに推理?をしたいと思います。


<武石胤盛さんの謎>

(1)「香取の神生館に住んでいた」という伝承がある。

『香取郡誌』『世俗東荘誌』によると、最初は香取郡神生(山田町神生)に住んで、観音菩薩を信仰したそうです。


「神生」について調べてみました。

現在は「かんのう」と読むそうです。

何気なく「かんのう」を漢字に変換してみたところ、「観音」という表記も出てきました。

そこで、推理してみました!

・胤盛さんが観音菩薩を信仰したので、地名が「かんのう」になった。

・観音菩薩を信仰する土地柄であったため、胤盛さんが観音菩薩を信仰した。

などが考えられるのかな?と、勝手に推測してみました。


(2)なぜ、神生に住んでいたのか?

伝承のとおり「初めは神生館に住んでいた」とすると…

その時期は、父・常胤公から武石郷を譲られる前だと思われます。

胤盛さんは神生館で、どのような暮らしをして、どのような役割を担っていたのでしょうか?


福田豊彦さん著『千葉常胤』(吉川弘文館)を読み返してみました。

・神生に隣接する『立花郷』は、かつて、父・常胤公に支配権があった。

当時の政治状況を自分なりに整理してみますと…

【補足】

『立花郷』は、後の『東庄』と重なると推定されるようです。

しかし、常胤公が支配権を握っていた頃の正確な地域は判っていないようです。

 

・胤盛さんが神生に住んでいた頃には、立花郷の支配権は国司に奪われていた。

合戦によって奪われたのではなく、政治力によって奪われたようです。

奪われたのは保延2年(1136年)です。

※胤盛さんが生まれたのは久安2年(1146年)です。

つまり、当時の神生には、常胤公の支配は及んでいなかったと思われます。


では、なぜ神生に住んでいたのでしょうか?

小見郷を治めていたとされる『小見胤隆』氏に着目してみました。

小見胤隆氏は、常胤公の弟です。

常胤公は、父・常重公から家督を譲られた際に、千葉郷・相馬御厨・立花郷なども併せて譲られたそうです。

その際、弟・胤隆氏は小見郷を譲られ『小見胤隆』と名乗ったそうです。

胤隆氏は、文献にも記録がなく、兄の常胤公とは別行動を取っていたそうです。

一時期、叔父の小見胤隆氏の元に身を寄せていたのかも知れない…と、大胆な推理をしてみました

神生館には、いずれ実地調査に行きたいと思います!


(3)信州に移住したという伝承がある

長野県小県郡武石村に移住したという伝承があるそうです。

胤盛さんの移住によって武石村になったとされ、妙見寺もあるようです。

胤盛さん夫妻の供養碑も残っているそうです。


胤盛さんがご存命の頃は、まだ千葉一族の勢力は衰えておらず、鎌倉幕府内での立場も悪くはなかったと思われます。

晩年になってからの移住と思われますが、そのまま最期まで信濃の武石村で過ごしたのでしょうか?

なにか、武石郷から離れなければならない事情が発生したのでしょうか?


飼い主は、千葉氏嫡流の跡目争いが絡んでいるのではないか?と考えてみました。

常胤公が亡くなった2年後、家督を継いだ嫡男の胤正さんも亡くなります。

さらに、その2年後には、次男の師常さんも亡くなります。

(胤正さんと師常さんは、胤盛さんの兄です)

嫡流である胤正さんの子息たちは、激しい跡目争いを展開しました。

一族の本拠地・猪鼻館の近くに領地を持つ胤盛さんにも、影響が及んだのかも知れません。


・信濃の武石村に移住して、そのまま最期を迎えた。

或いは、

・一旦、信濃に身を置いたが、最期は武石郷に戻った。


いずれの場合でも、動乱の世に生きた胤盛さんが、平穏な晩年を過ごしたのなら良いなぁ…と思います


<まとめ>

今回の推理は、あくまで飼い主の個人的な見解です。お許しください!

胤盛さんという中世の武士に思いを巡らせて、考えたことを書きました。

どうして、こんなに胤盛さんのことが気になるのか、本当に不思議です。

これから、まだまだ勉強していきたいと思います。

もっと、歴史の知識や洞察力があったらなぁ…と思います


【追記】

2016年5月に大幅に加筆修正しました。

武石郷を譲られた時期について、これからも調べていきたいと思います。

【更に追記です】2019年4月26日

武石胤盛さんが武石郷を譲られた(武石郷の領主となった)時期は、承安元年(1171年)11月のようです。

(武石神社の案内板「おたけし様の御由緒」より)

【飼い主が勉強した本

◎吉川弘文館 福田豊彦著『千葉常胤』

◎新人物往来社 丸井敬司著『上総下総千葉一族』

◎千葉日報社 『千葉氏探訪 ~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち~』

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