愛犬くんとのゆったりライフ

温厚な愛犬くんとの日常を気ままに綴ります。
郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

千葉市中心街で、大いに道に迷う

2009年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

今回は、飼い主が千葉市の中心街で道に迷った話です

飼い主は書類申請のため、千葉市中央区某所の職場を出て、徒歩で「千葉労働局」に向かいました。

(労働局は千葉地方裁判所のお隣にある「千葉第二地方合同庁舎」の中に入っています)

今の職場に勤め始めて3ヶ月ですが、千葉そごう・千葉三越などには幼少の頃から足を運んでいました。

また、千葉神社・猪鼻館跡・県立中央図書館には足繁く通っております(車で移動していますが…)

かつて役所勤めをしていた頃は、県庁にも何度か出張しました。


つまり、土地勘が無くはないのです。

しかも、方向感覚は割と良い方です。

しかし!辿り着けないのです


普段は、京成新千葉駅から電車に乗り、千葉中央駅から歩いて行きます。

千葉中央駅で降りるメリットは、裁判所や、裁判所周辺の弁護士事務所関係の方々が沢山歩いているので、スーツ姿の人の後ろをついていくと何となく辿り着ける点です

しかし、今回は職場のボスの指示で、千葉駅前から区間料金100円のバスに乗ることになりました。

電車との差額は+30円です。

そして、ボスの指示通りに「中央4丁目」のバス停で下車しました。

千葉中央駅から歩くと、新しく建てられた『きぼーる』(千葉市科学館)が見えて、「目的地は近いな」と思うのですが、バス停周辺からは『きぼーる』は見えませんでした。

「変だな…」と思いながら30分近く歩いても、目的の場所に出ません。

NHK千葉を過ぎ、文書館を横目に見つつ、遂に千葉市消防センターで道を聞くことに。

親切な方々に教えてもらったのですが、またまた道に迷います。

県庁前にある美味しいと評判の喫茶店の前を3回も通りました

その喫茶店には、県庁への出張の時にランチを食べに行きました。

スーツの袖にデミグラスソースをこぼしたのも、今では良い思い出です

さすがに困って、喫茶店の前の「自治会館」(昔は無かったような…)に入り、受付で道を尋ねました。

受付の警備の方は、よく道を聞かれるらしく、手慣れた感じで『ポケット版・千葉市中心地図』を見ながら丁寧に説明してくださいました。

お礼を言って歩き出しましたが、裁判所と県庁の近くで再び判断を誤り、遠回りすることに…

 

最後は、裁判所の警備の方に「千葉第二地方合同庁舎は、どこですか?」と涙声で尋ねたところ「すぐ裏ですよ~」とのお答え!

何とか無事に、労働局に辿り着けたのでした!

結局、所要時間は1時間ほど…

申請した書類は無事に受け取っていただいたので、任務完了です!

帰りは交通機関を使わず、歩いて職場まで戻りました。

所要時間15分…


そこで、今回の教訓!

  1. 少しくらいの距離は、交通機関を使わずに歩く! 
  2. ボスから「バスで行ってね」と指示されても「30円は自分で負担します」と答えて京成電車に乗る(かなり勇気がいると思われます…)
  3. 土地勘や周りの人の動きに頼らず、地図を確認する又は地図を持ち歩く

-以上です!

今回は、のんきに道に迷った飼い主の報告でした。

ご親切に道を教えてくださった方々、本当にありがとうございました!


<その後…>

一旦はまとめたものの、どうも合点がいかず、あれこれと考えておりました。

そして、その日が「祖母の命日の前日」だったことに思い至りました(実際に亡くなったのは、正確には翌日の未明です)


ちょうど2年前の同日、同時刻頃のことです。

祖母は、千葉パルコ近くのカルチャーセンターで俳句講座に参加中、くも膜下出血で倒れ、救急車で病院に運ばれました。

出血が脳全体に広がってしまい、病院に駆けつけた時には、既に意識はありませんでした。

飼い主は、ちょうど祖母が倒れた時刻に道に迷い、迷っている途中で、祖母が倒れた場所を通ったのでした。

偶然かも知れませんが、あんなに道に迷ったのが不思議だったので、やっぱり祖母のイタズラなのかも知れません

そこで、上記3つの教訓に次の項目を加えます!

4.祖母の命日の前日は、倒れた場所を訪ねて祖母を思い出そう。

せっかく近くに住んでいるので、祖父の家に、お線香をあげに行こうと思います!


↓しっかりと道を把握している、頼りになる愛犬くんです。

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武石胤盛さん(4)「ゆかりの地のご紹介」

2009年11月08日 | 郷土の武将 武石胤盛

今回は、武石胤盛さんの菩提寺・真蔵院の周辺にある「ゆかりの地」をご紹介します。

<武石神社>

真蔵院と武石館跡地の近くに、武石神社があります。

武石氏の子孫の方が建てられたそうです。

↑この小道を入って上っていくと、神社に出ます。

案内板などは特にありません。

武石神社です。

神社には「おたけし様の御由緒」と書かれた案内板がありました。

胤盛さんについて「承安元年(1171年)11月に武石に居城したと伝えられています」と書かれています。

また、武石氏についても記載があります。

※著作権・肖像権の関係もあり、画像の掲載を控えさせていただきました。

石碑です。

 

<長胤寺>

胤盛さんの子孫・武石長胤さんが住み、お寺とした長胤寺です。

真蔵院や武石神社から、少しだけ離れています。

かなり立派なお寺です。

↑長胤寺の山門を出たところから撮影しました。

↑ラッコのようなポーズです!

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武石胤盛さん(3)「胤盛さんの菩提寺」

2009年11月08日 | 郷土の武将 武石胤盛

武石胤盛さんについての第3弾です。


胤盛さんの菩提寺である真蔵院周辺をご紹介します。

敷地内にある板碑です。

胤盛さんが、お母様の塚に建てた伝えられる碑です。

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胤盛さんの念持仏(不動尊像)を祀った浪切不動堂です。

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不動堂の正面脇に石仏(?)がありました。

千葉一族の史跡めぐりをしていると、よく出会います。

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不動堂の脇を登っていくと、武石館の跡地(…と思われます)に出ます。

ちょっと怖い感じがするので、普段は登りません。

左側の木の先の、少し奥まった場所に、羽衣神社があります。

石碑が建てられています。

羽衣伝承によるものと思われます。

何となく、撮影を遠慮しました

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坂を登っていくと、高台に出て視界が開けます。

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視線を右に移しました。

奥に石の鳥居が見えます。

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鳥居の近くにきました。

ここは、胤盛さんのお母様(常胤公の奥方様)を祀った神社のようです。

正面からの撮影は、遠慮させていただきました。

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この辺りに、遥か昔、胤盛さんの居城(館)があったと思うと、不思議な気持ちになります。

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浪切不動堂の階段下です。

羽衣伝承の池(?)と思われます。

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近づいてみましょう。

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「胤盛さんと、天女の伝承」-どんなお話なのでしょうか…。


さて、今日の愛犬くん!

寒いので、丸まって眠っています

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武石胤盛さん(2)「胤盛さんのご紹介」

2009年11月08日 | 郷土の武将 武石胤盛

 今回は、飼い主が心惹かれる人物・武石胤盛さんについての続編です。


<武石胤盛さんのご紹介>

武石胤盛(たけし たねしげ)

 (通称:三郎胤成・三郎胤成武石)

 (千葉三郎胤成→武石胤成→胤盛に改名?)

【補足1】

 ◎新人物往来社 丸井敬司著 『上総下総 千葉一族』には、次のような内容が書かれています。

 胤盛さんの表記には『胤盛』『胤成』『胤重』があり、全て『タネシゲ』と読めることから、読み方は『タネシゲ』と推定される

 【補足2】

 最近は『タネモリ』と書かれている資料が多いので、どなたかが解明されたのかも知れません。

 

久安2年(1146)年生まれ(源頼朝より一歳年上。頼朝は1147年生まれ)

父:千葉介常胤公(当時29歳)

母:秩父重弘の娘(常胤公との間に七人の男の子を生んだとされています)


≪年表≫

記号の説明 

◎…胤盛さん ☆…千葉一族関係 ◇…源氏方 ◆…平家方

◎1146年 千葉介常胤公の三男として誕生

猪鼻城(館)で生まれたのではないか…と思われます。

◎千葉県香取郡山田町の神生館(現・香取市神生)に住む

(経緯は不明。かなり若い頃だと思われます)

◎1171年(承安元年) 父・常胤公から武石郷を譲られる

◇1180年 源頼朝、伊豆で挙兵(胤盛さん34歳)

石橋山の合戦で敗れた頼朝が、安房国に漂着。

(予定通りの行動とも言われています)

常胤公および常胤公の「またいとこ」にあたる上総介広常氏に対し、頼朝から援軍の要請。

◎下総国府(市川市国府台)にて、父・常胤公や兄弟と共に頼朝に参会

(国府ではなく、別の場所だった可能性もあるそうです)

◆1181年 平清盛 死去

◎1182年 源頼朝の長男・頼家の誕生に際し、「七夜の儀」に参列

弟の四男・胤信氏と共に、馬を曳き献上する。

☆1183年 上総介広常氏、謀反の疑いにより殿中で誅殺される。

後に疑いは晴れ、子孫は許されます。

しかし、上総氏の勢力は激減してしまいます。

◆1185年 壇ノ浦の戦い→平家滅亡

◇1189年 源義経 死去

 

◎奥州合戦の功により、父・常胤公が陸奥国伊具郡・宇多郡・亘理郡を拝領。

この3つの所領を、父・常胤公から譲り受ける

→胤盛さんの子孫は、後に奥州に移住して亘理姓を称します。

→亘理氏の子孫は、涌谷領主として伊達家の一員となります(涌谷伊達氏)

伊達騒動の伊達安芸(宗重)は、その子孫です。

◎母の菩提を弔うために、母の塚に板碑を建てる(時期は不明です)

(現在も、胤盛さんの菩提寺である真蔵院に板碑が残されています)

◇1199年 源頼朝 死去(享年53歳)

☆1201年 常胤公 死去(享年84歳)

☆1203年 長兄・千葉介胤正氏 死去(享年64歳)

◎信濃国小県郡武石村に移住したとの伝承あり(時期は不明です)

◎1215年 胤盛さん 死去(享年70歳)

胤盛さんの嫡男・胤重氏は、『武石入道』と呼ばれたそうです。

猪鼻城跡の麓(?)の県立中央図書館脇の胤重寺は、武石入道を偲んだものではないかということです。

 

以上が経歴と関係年表です(簡単でスミマセン

 


胤盛さんについては、羽衣伝承もあるそうです。

また、胤盛さんは、文献の記録が、他の兄弟に比べて少ないとのことです。

以下が、最も確かなエピソードのようです。

頼朝の長子・頼家の「七夜の儀」の際に、他の兄弟たちと参列。

弟の四男・胤信氏共に、馬を献上。

六人の兄弟たちは皆、立派で頼もしく賞賛された。


私のイメージでは、物静かな青年期 → 落ち着いた壮年期という感じです。

あまり長命ではなかった(父の常胤公は84歳まで生きました)ようですが、激動の時代に、マイペースで生きていった感じがします。

あくまで、私的な感想です。お許しください!


【飼い主が勉強した本

◎吉川弘文館 福田豊彦著『千葉常胤』

◎新人物往来社 丸井敬司著『上総下総 千葉一族』

◎千葉日報社 『千葉氏探訪 ~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち』

 

熱心に探求中です

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武石胤盛さん(1)「三郎胤盛さんについて」

2009年11月08日 | 郷土の武将 武石胤盛

 今回は『千葉六党 』 の一人、三男の武石三郎胤盛さんについて書こうと思います。

※一般的には『武石胤盛』さんの表記です。

「たけし たねしげ」と読むそうです。

【補足1】

◎新人物往来社 丸井敬司著『上総下総 千葉一族』には、次のような内容が書かれています。

胤盛さんの表記には『胤盛』『胤成』『胤重』があり、全て『タネシゲ』と読めることから、読み方は『タネシゲ』と推定される

【補足2】

最近は『タネモリ』と書かれている資料が多いので、どなたかが解明されたのかも知れません。


『千葉六党』とは、千葉常胤公の六人のご子息のことです。

鎌倉幕府成立後は、兄弟で結束して、源頼朝から賜った広大な領地を治めました。

三男の胤盛さんは、個人的に、常胤公に次いで心惹かれる人物です。

若い頃は『千葉三郎胤成』とも呼ばれていたようです。


【補足:平姓であった千葉一族が、源氏方に従っていた理由】

 先祖(平忠常)が反乱を起こした際に、源頼信の取り成しを受け、忠常の子息たちが領地を安堵されたことがキッカケだそうです。


頼朝の挙兵前、常胤公の領地は、領地争いや平氏政権全盛の影響で減少していました。

支配権は、千葉郡を中心とした地域に限定されていたようです。

三男・胤盛さんは、千葉郡内の武石郷を常胤公から与えられて『武石』姓を名乗ります。

(その時期は、頼朝挙兵後なのか、それ以前なのかは手持ちの資料ではハッキリと判りません…)

※当時、「武石」は「たけし」と読んでいたそうです。

京葉道路の武石ICや町名は、現在では「たけいし」となっています。


本拠地とした館跡地は、今は住宅地と田畑になっています。

近くの真蔵院には、胤盛さんがお母様を供養するために建てたと伝えられる板碑(いたび・千葉市指定文化財)があります。


真蔵院の敷地内には、『浪切不動堂』があります。

胤盛さんの念持仏という不動尊像(秘仏だそうです)を祀っているそうです。

また、胤盛さんと天女との伝承が伝わるという羽衣神社もあります。

(千葉一族には、羽衣伝承が多く残されています)


真蔵院は、『花見川サイクリングロード』から、小道を少し入ったところにあります。

飼い主は、高校生の頃から自転車で周辺を走り回っていました。

五年ほど前、初めて真蔵院の案内板を見た時、衝撃を受けました。

「こんなに近くに中世の武将が存在したんだ!」という感じです。


胤盛さんは、他の兄弟たちと比べて『謎の多い人物』とのことです。

父・常胤公から武石郷を与えられるまでは、香取郡神生に住んでいたという伝承があるそうです。

奥州合戦にも参加し、戦功によって、陸奥国の宇多郡・伊具郡・亘理郡を賜りました。

後に、子孫が亘理郡に移住して、亘理姓を称しました。

亘理氏の子孫は、江戸時代には、仙台伊達藩の重臣として涌谷領の領主となります。

伊達安芸家は、胤盛さんの子孫の流れだそうです。

 

自分の住んでいる地域に、中世の武将(正確には御家人?)が確かに存在していたという事実にロマンを感じます。

これからも、胤盛さんの研究を続けていこうと思います

【飼い主が勉強した本

◎吉川弘文館 福田豊彦著 『千葉常胤』

◎新人物往来社 丸井敬司著 『上総下総 千葉一族』

◎千葉日報社 『千葉氏探訪 房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち』

 

↓犬用ガムを熱心に噛んでいます

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