新年度が始まりましたね~
今年の桜は例年より遅く、飼い主の住む千葉でも四月に入ってから開花しました
遠い昔、高校の入学式に、桜が満開だったことを思い出しました~
(平成の初め頃は温暖化の気配はなく、むしろ冬は寒くて雪が結構降っていた記憶があります)
さて、飼い主は、朝ドラの『虎に翼』を毎日見ております。
今のところ最も注目している登場人物は、主人公・寅子ちゃんの親友であり兄嫁の『花江ちゃん』です
大正生まれの寅子ちゃんを見て、亡くなった祖母や曾祖母のことを思い出して、色々と考えたりしました。
二人の祖母と、母方の曾祖母の半生については、飼い主が社会学部に通っていた頃、夏休みのレポート課題で割と詳しく話を聞きました(小中高の社会科の宿題でも、何度か話を聞きました)
何という講義だったか失念しましたが、「明治・大正・昭和にかけての日本人の生活史」という感じの講義で、「親族の女性たちから、どういう人生を歩んできたかを聞いて、現代との比較を…」という感じの課題だったと思います。
「市井の名もなき人たちの生活も、大切な歴史」ということを学びました。
祖母と曾祖母の記録も、これを機に、覚えていることを少し残そうと思います。
※父方の祖母と曾祖母については、過去に書いたことがあります。
ご興味のある方はこちらをご覧ください。
《母方の曾祖母 明治36年生まれ》
飼い主の母方の曾祖母は、明治36年に岐阜県稲葉郡の農業兼機屋(はたや/織物業)を営む家の長女(一番上の子)として生まれました。
当時の岐阜県・愛知県西部は、空前の織物業バブルを迎えていたようです。
地域全体が経済的に潤っていたことと、大正デモクラシーの影響もあったのか、曾祖母は尋常小学校卒業後に女学校に進学しました。
進学先は、岐阜県高等女子師範に併設された、県立加納高等女学校です。
女学校への進学率は他地域と比べると高かったらしく、曾祖母の記憶では、同級生の女生徒十数人が進学したそうです。
昭和初期に、祖母(曾祖母の娘)が女学校に進学した頃は、国内の経済状況が悪化していたこともあり、同級生の数人ほどに減ってしまったそうです。
曾祖母は、金子みすゞさんと同い年で、『はいからさんが通る』の花村紅緒さんと同世代です。
飼い主は、漫画・テレビアニメ・映画『はいからさんが通る』が好きだったので、「袴にブーツで、自転車に乗って通学したの?」と聞いてみたところ、「東京の学生さんとは違うがね。着物に草履を履いて歩いて行った」とのことでした(飼い主、岐阜の方言は、あまり覚えておらず残念です)
女学校卒業後は数年間、地元の小学校の教員をしました。
その時の教え子の方とは、長くお付き合いをしていたようです。
その後、隣村?の庄屋的な立場の家に嫁ぎ、20歳で祖母(一番上の子)を産みました。
結婚相手は、小学校の教員でした。お見合い結婚だそうです。
舅が議員をしていたので、その辺のお付き合いと言いますか、気を回すことが多く、大変だったようです。
夫が戦争中に50代で心臓発作で急逝したため、その後は様々な面で一家の中心になっていったようです。
戦後、農地改革で婚家は没落しましたが、蓄えもあったため、経済的には苦労しなかったようです。
裁縫(着物づくり)が上手だったので、時には副業として縫子もしたそうです。
飼い主の母(孫)の成人式の着物も縫いました。その着物は、飼い主も弟の結婚式で着ました。七五三の着物も縫ってもらいました。
半纏は定期的に送られてきていたので、30歳頃まで半纏のお世話になっていました。
曾祖母は、中年以降に元農家の血が騒いだのか畑を始め、92歳まで農作業に精を出していました。
手押し車を押して畑まで通い、収穫した野菜などを沢山送ってくれました。
99歳で老衰で亡くなりました。
いつも朗らかで、愛嬌のある笑顔で周囲を和ませてくれる優しい曾祖母でした。
※曾祖母についての過去の記事はこちらです。
《母方の祖母 大正12年生まれ》
母方の祖母(上記の曾祖母の長女)は、大正12年に現在の岐阜県各務原市で生まれました。
生家は、お寺の過去帳から家系図を作成した親戚の方によると、遅くとも1669年から庄屋だったという記録があるそうです。
出生当時、祖母の祖父(曾祖母の舅)は村長をしていたので、曾祖母と比べると、生まれた時からお嬢さんという感じだったそうです。
祖母の父は小学校の教員ということもあり、女子教育に理解があり、岐阜高等女学校に進学しました。
在学中は軟式テニスに熱中して、国体にも出場したそうです。
祖母は勉強も好きだったようで、「女学校卒業後は専門的な教育を受けるため、奈良女子師範学校(奈良女子大)に進学したい」と考えていました。
しかし、当時は第二次大戦の開戦間近で日本経済は悪化の一途を辿り、また女学校より先の学校に進学する女性が少数派だったこともあり、曾祖母はじめ周囲から猛反対されたそうです。
最終的に、尊敬していた女学校の担任の先生(奈良女子師範の卒業生)から、「女の干物になるのですか?」と厳しく問われたことも大きく響き、進学を断念しました(実際には、曽祖父と曾祖母が先生に「諦めるよう説得して欲しい」とお願いしていたということです)
祖母は「他県に進学というのも反対された大きな理由だった」と話していたので、「岐阜の女子師範には行きたくなかったの?」と聞いてみたところ、「職業婦人になるつもりはなかったから…」と申しておりました。
その話を聞いた当時、祖母は定年で小学校教員を辞めたばかりだったので、働くつもりがなかったことに、「へっ?」と驚きました。
帰宅後に、母に話したところ、「おばあちゃんは昔の人だし、お嬢さん育ちだから、我々とは違う感覚だったんじゃない?」ということでした。
母も教員をしていたので(定年の一年前に退職)、飼い主は「我が家は、生きていく為に社会に出て働かないといけない家庭なんだ」と幼少期から思い込んでいたので、すごく意外な感じがしたのを覚えています。
祖母は、女学生だった頃には、定年まで働くことになるとは全く想像しなかったようですが、結婚と戦争によって大きく人生が変わっていきました。
祖母は女学校卒業後に、職業軍人の祖父とお見合い結婚しました。
ここで少し、祖父についても記します。
<祖父について 大正4年生まれ>
祖父は、千葉県山武郡の自作農の家の五男として生まれました。
祖父の父は、現在の佐倉市の農家の出で、祖父の実家に婿入りしました。
学問が盛んだった佐倉藩の影響で、明治4年生まれの祖父の父は、漢文などを学んでいました。そのお陰で村役場で職を得ていたので、学問への理解があったようです。
祖父は尋常小学校を卒業後、東京に嫁いで産婆をしていた姉(長女)の家に居候して、夜は郵便局で働きながら、府立七中に進学しました。
中学卒業後は、軍の飛行機乗りになりたいと考え、航空部のようなものがあった法政大学に進学します。専攻は経済でした。
卒業後は、航空兵として陸軍航空隊に入り、偵察機乗りとして、各務原飛行場で訓練を受けていました。
その頃、飛行場の近くの神社で婦人会の役員をしていた曾祖母のところに、祖父が軍の荷物などを度々届けに行っていた縁で、お見合い話が進みました。
祖父は、決して裕福とはいえない千葉の農村の出なので、地方の良家の子女だった祖母との縁談を喜んだそうです。
※祖父についての過去の記事はこちらです。
結婚後、祖母は母(一番上の子)を21歳で産みました。
その三か月後、祖父が熊本に異動になり、祖母と母も一緒に転居しました。
その後、祖父は満州に異動して、一家三人で満州に渡りました。
敗戦直前、満州の部隊の上官(佐官)の方と、その家族は、いち早く情報を得ていたようで、秘密裏に退避してしまいました。
祖父は当時、大尉として配属されていて、もう一人の大尉の方と一緒に、部隊の隊員と家族を守ろうと奔走したそうです。
ソ連兵が侵攻してくる中、かなり危ない橋を渡って、長い逃亡生活を送りました。
祖母は昭和20年9月に叔父(長男)を産みましたが、その三か月後の12月26日に叔父は亡くなりました。
「葬式もあげられず、戸籍にも入れられず、可哀相だった」と祖父が一度だけ話していたのを覚えています。
祖父が所属した部隊は、終戦から約三年後に、ようやく帰国しました(民間人として逃亡生活を続けていたので、民間人ルートでの帰国でした)
帰国後、職業軍人だった祖父は、公職追放となりました。
パイロットとして航空会社への就職を考えますが、「英語が出来なかった」又は「背が低かった」ため、或いは両方?の理由で断念します。
公職追放の解除後、現在の自衛隊への入隊を勧められましたが、「もう戦いたくないから…」という理由で辞退しました。
帰国後は、東京で産婆をしていた祖父の長姉の家の近所に身を寄せ、祖母は叔母(次女)を産みました。
帰国から約二年後、祖父は千葉県山武郡の実家の敷地内に簡素な家を建てて、家族を呼び寄せ、野菜作りと養豚を始めます。
現金収入が必要だということで、祖母は女学校卒の資格を生かして、代用教員として村の小学校で働き出しました。
約十年後、祖父が東京でサラリーマンとして職を得たのを機に、一家で千葉市に移り住みました。
その頃には、三女と四女も生まれていました。
祖母は千葉市でも代用教員を続けました。
働きながら玉川大学の通信課程で教職の免許を取り、正式に千葉市の教員として採用され、四人の娘を育てながら、定年まで勤め上げました。
四人の娘たちには教育を受けさせたいと考え、裕福ではありませんでしたが、娘たちは大学や短大に進学しました。
岐阜県各務原市の実家には、毎年夏休みのお盆の時期に、家族総出(祖父母と四人姉妹の家族)で帰省していました(今から考えると、祖母の弟の奥さんに大変ご苦労をおかけして申し訳ない気持ちです)
朗らかな曾祖母と親戚たちと岐阜で過ごしたことは、楽しい思い出として心に残っています。
85歳で、くも膜下出血で突然亡くなるまで、娘たち家族・孫たちのことを温かく見守ってくれました。
ドラマ『虎に翼』を見ながら、色々と考えていこうと思います