今回は、飼い主が心惹かれる人物・武石胤盛さんについての続編です。
<武石胤盛さんのご紹介>
武石胤盛(たけし たねしげ)
(通称:三郎胤成・三郎胤成武石)
(千葉三郎胤成→武石胤成→胤盛に改名?)
【補足1】
◎新人物往来社 丸井敬司著 『上総下総 千葉一族』には、次のような内容が書かれています。
胤盛さんの表記には『胤盛』『胤成』『胤重』があり、全て『タネシゲ』と読めることから、読み方は『タネシゲ』と推定される
【補足2】
最近は『タネモリ』と書かれている資料が多いので、どなたかが解明されたのかも知れません。
久安2年(1146)年生まれ(源頼朝より一歳年上。頼朝は1147年生まれ)
父:千葉介常胤公(当時29歳)
母:秩父重弘の娘(常胤公との間に七人の男の子を生んだとされています)
≪年表≫
記号の説明
◎…胤盛さん ☆…千葉一族関係 ◇…源氏方 ◆…平家方
◎1146年 千葉介常胤公の三男として誕生
猪鼻城(館)で生まれたのではないか…と思われます。
◎千葉県香取郡山田町の神生館(現・香取市神生)に住む
(経緯は不明。かなり若い頃だと思われます)
◎1171年(承安元年) 父・常胤公から武石郷を譲られる
◇1180年 源頼朝、伊豆で挙兵(胤盛さん34歳)
石橋山の合戦で敗れた頼朝が、安房国に漂着。
(予定通りの行動とも言われています)
常胤公および常胤公の「またいとこ」にあたる上総介広常氏に対し、頼朝から援軍の要請。
◎下総国府(市川市国府台)にて、父・常胤公や兄弟と共に頼朝に参会
(国府ではなく、別の場所だった可能性もあるそうです)
◆1181年 平清盛 死去
◎1182年 源頼朝の長男・頼家の誕生に際し、「七夜の儀」に参列
弟の四男・胤信氏と共に、馬を曳き献上する。
☆1183年 上総介広常氏、謀反の疑いにより殿中で誅殺される。
後に疑いは晴れ、子孫は許されます。
しかし、上総氏の勢力は激減してしまいます。
◆1185年 壇ノ浦の戦い→平家滅亡
◇1189年 源義経 死去
◎奥州合戦の功により、父・常胤公が陸奥国伊具郡・宇多郡・亘理郡を拝領。
→この3つの所領を、父・常胤公から譲り受ける
→胤盛さんの子孫は、後に奥州に移住して亘理姓を称します。
→亘理氏の子孫は、涌谷領主として伊達家の一員となります(涌谷伊達氏)
伊達騒動の伊達安芸(宗重)は、その子孫です。
◎母の菩提を弔うために、母の塚に板碑を建てる(時期は不明です)
(現在も、胤盛さんの菩提寺である真蔵院に板碑が残されています)
◇1199年 源頼朝 死去(享年53歳)
☆1201年 常胤公 死去(享年84歳)
☆1203年 長兄・千葉介胤正氏 死去(享年64歳)
◎信濃国小県郡武石村に移住したとの伝承あり(時期は不明です)
◎1215年 胤盛さん 死去(享年70歳)
胤盛さんの嫡男・胤重氏は、『武石入道』と呼ばれたそうです。
猪鼻城跡の麓(?)の県立中央図書館脇の胤重寺は、武石入道を偲んだものではないかということです。
以上が経歴と関係年表です(簡単でスミマセン)
胤盛さんについては、羽衣伝承もあるそうです。
また、胤盛さんは、文献の記録が、他の兄弟に比べて少ないとのことです。
以下が、最も確かなエピソードのようです。
頼朝の長子・頼家の「七夜の儀」の際に、他の兄弟たちと参列。
弟の四男・胤信氏と共に、馬を献上。
六人の兄弟たちは皆、立派で頼もしく賞賛された。
私のイメージでは、物静かな青年期 → 落ち着いた壮年期という感じです。
あまり長命ではなかった(父の常胤公は84歳まで生きました)ようですが、激動の時代に、マイペースで生きていった感じがします。
あくまで、私的な感想です。お許しください!
【飼い主が勉強した本】
◎吉川弘文館 福田豊彦著『千葉常胤』
◎新人物往来社 丸井敬司著『上総下総 千葉一族』
◎千葉日報社 『千葉氏探訪 ~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち』
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