今回は『千葉六党 』 の一人、三男の武石三郎胤盛さんについて書こうと思います。
※一般的には『武石胤盛』さんの表記です。
「たけし たねしげ」と読むそうです。
【補足1】
◎新人物往来社 丸井敬司著『上総下総 千葉一族』には、次のような内容が書かれています。
胤盛さんの表記には『胤盛』『胤成』『胤重』があり、全て『タネシゲ』と読めることから、読み方は『タネシゲ』と推定される
【補足2】
最近は『タネモリ』と書かれている資料が多いので、どなたかが解明されたのかも知れません。
『千葉六党』とは、千葉常胤公の六人のご子息のことです。
鎌倉幕府成立後は、兄弟で結束して、源頼朝から賜った広大な領地を治めました。
三男の胤盛さんは、個人的に、常胤公に次いで心惹かれる人物です。
若い頃は『千葉三郎胤成』とも呼ばれていたようです。
【補足:平姓であった千葉一族が、源氏方に従っていた理由】
先祖(平忠常)が反乱を起こした際に、源頼信の取り成しを受け、忠常の子息たちが領地を安堵されたことがキッカケだそうです。
頼朝の挙兵前、常胤公の領地は、領地争いや平氏政権全盛の影響で減少していました。
支配権は、千葉郡を中心とした地域に限定されていたようです。
三男・胤盛さんは、千葉郡内の武石郷を常胤公から与えられて『武石』姓を名乗ります。
(その時期は、頼朝挙兵後なのか、それ以前なのかは手持ちの資料ではハッキリと判りません…)
※当時、「武石」は「たけし」と読んでいたそうです。
京葉道路の武石ICや町名は、現在では「たけいし」となっています。
本拠地とした館跡地は、今は住宅地と田畑になっています。
近くの真蔵院には、胤盛さんがお母様を供養するために建てたと伝えられる板碑(いたび・千葉市指定文化財)があります。
真蔵院の敷地内には、『浪切不動堂』があります。
胤盛さんの念持仏という不動尊像(秘仏だそうです)を祀っているそうです。
また、胤盛さんと天女との伝承が伝わるという羽衣神社もあります。
(千葉一族には、羽衣伝承が多く残されています)
真蔵院は、『花見川サイクリングロード』から、小道を少し入ったところにあります。
飼い主は、高校生の頃から自転車で周辺を走り回っていました。
五年ほど前、初めて真蔵院の案内板を見た時、衝撃を受けました。
「こんなに近くに中世の武将が存在したんだ!」という感じです。
胤盛さんは、他の兄弟たちと比べて『謎の多い人物』とのことです。
父・常胤公から武石郷を与えられるまでは、香取郡神生に住んでいたという伝承があるそうです。
奥州合戦にも参加し、戦功によって、陸奥国の宇多郡・伊具郡・亘理郡を賜りました。
後に、子孫が亘理郡に移住して、亘理姓を称しました。
亘理氏の子孫は、江戸時代には、仙台伊達藩の重臣として涌谷領の領主となります。
伊達安芸家は、胤盛さんの子孫の流れだそうです。
自分の住んでいる地域に、中世の武将(正確には御家人?)が確かに存在していたという事実にロマンを感じます。
これからも、胤盛さんの研究を続けていこうと思います
【飼い主が勉強した本】
◎吉川弘文館 福田豊彦著 『千葉常胤』
◎新人物往来社 丸井敬司著 『上総下総 千葉一族』
◎千葉日報社 『千葉氏探訪 房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち』
↓犬用ガムを熱心に噛んでいます