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郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

武石胤盛さん(1)「三郎胤盛さんについて」

2009年11月08日 | 郷土の武将 武石胤盛

 今回は『千葉六党 』 の一人、三男の武石三郎胤盛さんについて書こうと思います。

※一般的には『武石胤盛』さんの表記です。

「たけし たねしげ」と読むそうです。

【補足1】

◎新人物往来社 丸井敬司著『上総下総 千葉一族』には、次のような内容が書かれています。

胤盛さんの表記には『胤盛』『胤成』『胤重』があり、全て『タネシゲ』と読めることから、読み方は『タネシゲ』と推定される

【補足2】

最近は『タネモリ』と書かれている資料が多いので、どなたかが解明されたのかも知れません。


『千葉六党』とは、千葉常胤公の六人のご子息のことです。

鎌倉幕府成立後は、兄弟で結束して、源頼朝から賜った広大な領地を治めました。

三男の胤盛さんは、個人的に、常胤公に次いで心惹かれる人物です。

若い頃は『千葉三郎胤成』とも呼ばれていたようです。


【補足:平姓であった千葉一族が、源氏方に従っていた理由】

 先祖(平忠常)が反乱を起こした際に、源頼信の取り成しを受け、忠常の子息たちが領地を安堵されたことがキッカケだそうです。


頼朝の挙兵前、常胤公の領地は、領地争いや平氏政権全盛の影響で減少していました。

支配権は、千葉郡を中心とした地域に限定されていたようです。

三男・胤盛さんは、千葉郡内の武石郷を常胤公から与えられて『武石』姓を名乗ります。

(その時期は、頼朝挙兵後なのか、それ以前なのかは手持ちの資料ではハッキリと判りません…)

※当時、「武石」は「たけし」と読んでいたそうです。

京葉道路の武石ICや町名は、現在では「たけいし」となっています。


本拠地とした館跡地は、今は住宅地と田畑になっています。

近くの真蔵院には、胤盛さんがお母様を供養するために建てたと伝えられる板碑(いたび・千葉市指定文化財)があります。


真蔵院の敷地内には、『浪切不動堂』があります。

胤盛さんの念持仏という不動尊像(秘仏だそうです)を祀っているそうです。

また、胤盛さんと天女との伝承が伝わるという羽衣神社もあります。

(千葉一族には、羽衣伝承が多く残されています)


真蔵院は、『花見川サイクリングロード』から、小道を少し入ったところにあります。

飼い主は、高校生の頃から自転車で周辺を走り回っていました。

五年ほど前、初めて真蔵院の案内板を見た時、衝撃を受けました。

「こんなに近くに中世の武将が存在したんだ!」という感じです。


胤盛さんは、他の兄弟たちと比べて『謎の多い人物』とのことです。

父・常胤公から武石郷を与えられるまでは、香取郡神生に住んでいたという伝承があるそうです。

奥州合戦にも参加し、戦功によって、陸奥国の宇多郡・伊具郡・亘理郡を賜りました。

後に、子孫が亘理郡に移住して、亘理姓を称しました。

亘理氏の子孫は、江戸時代には、仙台伊達藩の重臣として涌谷領の領主となります。

伊達安芸家は、胤盛さんの子孫の流れだそうです。

 

自分の住んでいる地域に、中世の武将(正確には御家人?)が確かに存在していたという事実にロマンを感じます。

これからも、胤盛さんの研究を続けていこうと思います

【飼い主が勉強した本

◎吉川弘文館 福田豊彦著 『千葉常胤』

◎新人物往来社 丸井敬司著 『上総下総 千葉一族』

◎千葉日報社 『千葉氏探訪 房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち』

 

↓犬用ガムを熱心に噛んでいます

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