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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

即効薬はない!

2006年05月16日 | 日々の泡
精神科医の斉藤環氏が朝日新聞の「opinion」欄に、「NPO施設事件」(ひきこもりの26歳の青年が、拉致同然に、連れて行かれた施設の中で絶望のあまり食事もとれないまま衰弱死していったという事件)についての見解を出されていました。現状分析としては、恐らく、これ以上のものはないのではないかと、私には思われます。「ひきこもり」という概念は、いまだ専門性の埒外におかれた不幸な概念で、医療も教育も福祉も、それぞれ一定の関心は示しながらも、結局は誰も引き取ろうとはしなかった概念の非嫡出子だ…と、氏は考察されています。一定の関心は示しながらも引き取ろうとはしない…そう言われてしまえば、医療や教育や福祉がいかにも無責任極まりない無頼者のように映りますが、決定的で有効な方途が見つけられない以上、それは援助者側の卑怯さに由来するのではなく、当然の帰結のように、私には思えます。当事者や家族が、「まっとうな専門家」に絶望してきたとしても、当の「専門家」たちも援助者としての力の限界や無力さに忸怩たる思いを抱いているはずだからです。ひきこもりの問題に関わる人たちは、当事者であろうと家族であろうと専門家と言われる人たちであろうと、皆一様に、「どうすることも出来ない」ことを知り尽くしています。氏は「ひきこもり」対応においては、ひたすら待つことにこそ決定的な価値があるということ。「いかにして待つか」の戦略に、ひきこもり臨床の真価があること。強制的介入と体罰の肯定は、それを勧める側の不安と焦燥の告白でしかないこと。本人のプライドを破壊してなされる価値観の注入は、パターナリズムよりはカルトの手口にほかならないこと、を強調してやみません。恐らくはまったくその通りだと私も思います。ある日突然、一念発起して、ひきこもりから脱出して、世間に出て行くなどということが可能でしょうか?可能だとしても、それが本当に最善の道かどうかも分かりません。ひきこもっている人たちを「怠け者」「穀潰し」と糾弾するのは、糾弾する側の心の不安と現状認識に対する性急さがなせるワザであって、ことの本質はまったく別の場所にあるように思われます。どうしようもないことが世の中には多すぎます。

ほっといってください!!

2006年05月13日 | 日々の泡
「めりなす」の語源が気になったので、「めりなすネット」を訪れてみました。なるほどね!と思いましたので、下のリンクをクリックして、めりなすネットに飛んでみてください。そして、めりなすの語源がどこから来たのかを確認してみてください。
めりなすネット  めりなすの語源


今では、めりなす君をとても気に入っていますが、以前のテンプレートの‘黒猫’から‘めりなす’に替えた数日間は、元の‘黒猫’に戻したくてたまりませんでした。何故なら、‘黒猫’に馴染み深くなっていたということもありますが、文字の色や大きさ・字体などを含む全体のバランスの、妙に納まりがいい感じがとても気に入っていたからです。

でも、もう後ろは振り返りません。

ところで、最近、気になるのは、私が早朝に、ブログを更新する度毎に、個人の、しかも女性の、なまめかしくもいかがわしい(ハッキリ言って、紛れもないエロサイト)ブログがTBされるという珍現象が繰り返されていることです。私のブログに、仮に、たったの一で行でも目を通してくださっているのならば、TBを貼るような相手でないことは一目瞭然なのですから、これは、キーワードを選んで、自動的にTBが貼られるようになっているとしか考えられないとも思い始めました。(そんなことが出来るのかどうかは別として…)完全なる悪意でしょうね。面白おかしく、悪戯をする人がいるのでしょう。毎日必ず、TBされるのも、すごく珍奇なことだと感じ始め、むしろ気分が悪くもなりつつあったので、TBを受け取らない設定に切り替えました。

どなたからのTBも受け取れなくなるのは、すごく寂しいことですが仕方がありません。おかげで、私のブログ熱も、一部、冷めかかってしまっています。こんなどうでもいいことに時間を潰している人もいるんだなぁ…と思うとがっくりです。

これまでに、悪戯メール・迷惑メールも随分いただきました。人を不愉快にさせることのどこが面白いのでしょう。真の需要がどこにあるのかをもっとしっかりリサーチされてから、相手を選んで送信された方がいいと思います。本当に!世の中って…いろんな人がいるんですネ!

なまの体験

2006年05月12日 | 日々の泡
新しい認識はいつも古いものよりは調和的なのだそうです。そして、まわりの世界との密接な繋がりを知るには、思考によっては不可能で、直接的な体験が必要なのだということです。

それで分かりました。私が何故、今の生業の仕事に魅力を感じなくなり、自分にとってはまったく未知の事業経営の道に惹かれていくようになったかがです。この事業の世界に関わっていると、古い殻や今までの固定観念を使っていたのでは先に進めなくなるのです。嫌でも、常に常に、新しい認識を手に入れるように心を開いていかなければなりません。そして頭で考えているばかりでは、これもやはり一歩も前に進めないことになるのです。苦しみながら、楽しみながら、すべてのことは体験を伴って進んでいきます。今の仕事をしていれば、しなくて済むような、(考えようによっては)屈辱的な体験もします。が、頭を柔らかくして考え直してみれば、従来どおりののままであれば、一生経験できなかったかもしれないような未知の体験が出来ているんだ、と発想を転換させることも出来るわけです。

子どもが何故、あんなに生き生きと、時の経つのも忘れて遊びに興じることが出来るのかといえば、それはまさに‘なまの体験’を生きているからなのではないでしょうか?結果ではなく、過程の中で生きることが出来ているからなのでしょう。きっとそうです。仕組みさえ整えば、人は結構楽しく生きることが出来るっていうことを、私は今の事業を通して教えてもらっているのかもしれません。

意識にも段階がある…

2006年05月10日 | 日々の泡
欲求にも段階があって、自分の中のより深い欲求に気づいた時には、それよりも浅い段階にある欲求の質のことは容易に理解できるものですが、深い段階に入らなければ、浅い段階のことも十分には理解できないという性質があります。それと同じで、意識にも浅いものから、より高次のものまで、さまざまな段階があるように思います。アルファベットが進むほど、意識のレベルも上がると仮定すると、意識がAの段階にある時には、BやCの意識のありようなど想像もつかないものの、BやCに到達した暁には、Aの意識のことはもう自明の理として容易に理解できるものです。

私が、今の事業に出会ってからというもの、こうした、意識というものの変化が非常に短いスパンで、自分の体験として、身のうちにやってくるという不思議に遭遇するようになっています。事業の全貌についてはまだ十分には理解できてはいません。説明されても、説明されても、頭ではすっきりとは分からないのです。それなのに、直感はNO!とは言わないのです。頭では核心を掴めているわけではないのに、意識はどんどん先へと歩いていってしまうのです。昨日までは「絶対に出来ない!」「まさか!私が…」と思っていたことが、一晩、寝ると、もう「絶対出来ない」ではなくなっているのです。「まさか、私が…」ではなく、「私にも出来るだろう!」になっているのです。こんな感覚を味わったのは初めてです。私の周りに現れる、事業家のほとんどの人々が、ごく普通の善良な一般市民たちです。この人たちが、私を集団で騙しにかかるほど、込み入った会社ではない…ということがあまりにも明らかなので、この空間に対して、よけいに狐につままれたような‘この世ならぬ’独特の印象を抱いてしまっています。「世の中にうまい話はない」はずなのに、この事業に出会った一部のごくごく普通の人々が、自分に訪れた縁と運を生かして、最大限の知恵と工夫を働かせながら、日々、幸運を作り出しているという事実に、私は、‘人生の不思議’を見て、唖然としています。

この事業を、苦しいと思っている人もいるのかもしれませんが、「楽しくて仕方がない。」という人もいます。「頑張るのは当たり前、何もかも自分のためだと思えば、苦労もちっとも苦労にならない。」という人もいます。それは本当にその通りだと思えます。今の日本では、この会社のようなシステムを持っているところはどこにもありません。今現在、この会社のトップにいる台湾の方も、「この会社だから成功できた。他のことをやっていたら、失敗、失敗。」と言われます。多分、そうなんだろうなぁと考えると、私も打って出るしかないじゃない!と思えるようになりました。意識だけが先行していくのは少し恐い気もしますが、頭だけで物事を考えていても何も進まないということは、これまでの私の生き方で、いやと言うほど立証済みですからネ。もうそろそろ、正しいことではなく楽しいことをやっていってもバチは当たらないでしょう。

調和を取り戻すためには…

2006年05月08日 | 日々の泡
心を乱す要因は日々の日常生活の中に嫌というほど溢れています。それは多くの場合、外的要因が、心に不協和音を及ぼす元凶となっているように思われます。以前の私なら、「まったく、運が悪い!」と考えていたことでしょうし、人のせいや環境のせいにしていたかもしれません。尤も、他罰的ではない(むしろ自責的な)私のことですから、「みんな私が悪いのよ(-_-;)」といじけていたのが関の山だったかもしれません。

ところが、思考と感情の罠にはもう二度と嵌りたくないと考えるようになってからは、何かあっても、ほとんどそのことを考えないようになりました。「これは、起こるべくして起こっていることなのだろうけれど、そのことについては、私の手に負えることではないので、私はもう考えない。」と決めて、日々のやるべきことだけをやって、すぐに寝てしまうことにしています。睡眠だけは、、昔も今も、私の絶大で親密な友だからです。眠ってしまえばもうこっちの勝ちです。どんなに嫌なことでも大抵は忘れられます。

原因を追究するような作業には一切手を付けません。ただ、「調和を取り戻せますように!」と祈るようにして時を過ごすばかりです。これが案外いいようです。最近の私は、本当に、思考と感情という悪友の影響を受けることが最小限に抑えられるようになってきています。

急展開(転回)…チャオ!

2006年05月05日 | 日々の泡
私にとって、人生とは、徳川家康ではありませんが、「長い坂道を重い荷物を背負って」どこまでも歩いていくようなものでした。それが、ここへ来て、自分の思惑とかがほとんど介在しようもないほどの力で、日々が急展開していくのを感じるようになっています。これらの日々は、今まで、私の中に深く埋もれていた遺跡を発掘するような「えぇ!何で今頃?」という戸惑いと興奮に満ちた日々でもあります。日常にいながら、非日常を体験しているような感覚に包まれているので、全細胞が絶え間なくプチンプチンと音を立てているような感じなのです。こんなことにいつまで耐えられるのか自信がありません。でも、このウエーブは、私が強く求めたわけでもないのに、あっちから、突然にやってきてしまっているものなのです。これが、運と縁の正体というものなのでしょうか?避けられないのです。生前に祖父が言っていた言葉を思い出します。「運ときたら避けられない。」私に今、到来している状況の実態を言い表している言葉なのでしょうか?

人生の変わり目が、この私にも訪れるとは!夢にも考えたこともありませんでした。このところ、村上春樹さんの言葉を繰っていたせいか、また村上さんの言葉が飛び込んできました。「人生の変わり目はだいたいにおいて、向こうからあなたを選びます。あなたが選ぶことはほとんどありません。ほんとうに。チャオ。」まさに、チャオ…ですよネ。

ひらめき

2006年05月04日 | 日々の泡
私は目に見えない世界への感受性が低いので、日常的には、なかなか‘何か’を感じ取ることが出来ないのですが、それでも時々は、何故、今このことが突然、頭の中に浮かんできたのだのだろう?とか、天上から、ふっと想念が湧いてくるような思いにとらわれる時があります。何かがひらめいたと感じられる、そのような時は極力、すぐに行動に移してみるようになりました。行動に移さない時でも、その想念を抱えながら、様子を見ていると、その思いに繋がるような現実を経験することも、少なからず、あるような気がします。

欲求というものは強いほどいいと思っていました。欲求が強いということは、それだけ生きることへの動機が強いということでもありますし、何より、その欲求が、願望実現への拍車となるように思えたからです。しかしながら、欲求が強いと苦しくもあります。欲求に振り回されて、落ち着かなくなり、人生の、その時々の味わいを味わえなくもなるようで、ちょっと切ないものがあります。欲求がなくなると、観察者になっていくと言っていた人がいます。

この頃、少~し、欲求が薄れてきました。目的より、夢の実現より、目的に向かう過程や、夢の実現に向けての私と相手との関わりの方により気持ちが向くようになってきたからです。あるカタチを得られなくても、そのカタチに向かう途上での楽しみや喜び…相手や私の幸せの方がより大事だと感じるようになってきたからです。ずっと友達でい続けたいと願う余り、遥か彼方の時空での関係のことばかりに思いを馳せてしまう私でしたが、今ここでの、あるいは明日や明後日の、私とあなたの幸せの方がずっと大切だと思うようになったからです。願望や希望は、心のなかで温めておくだけではもったいないです。思いは溢れてきます。だから私はつい、本当の気持ちを言葉にしてしまいます。そうすると、巧言令色で仁が少ないように思われることも多くて面喰うこともありますが、溢れた気持ちを言葉にしていると、いつの間にか、幸せもついてきてくれるような気がします。

さて、どうしようかな?

2006年05月03日 | 日々の泡
私は元来、ケチな性分なのですが、あまりの倹約家のため、ケチを通り越して、「ドケチ」と揶揄されるほどの徹底ぶりだったので、自分なりに、小金を溜め込んできた経緯があります。けれど、欲しいものに対しては、案外、惜しみなくお金を大胆に使うことも出来るので、‘爪で拾ってみでこぼす’という、誠に一貫性のないタイプで通しています。私には、通常なら、当たり前のように手に入るものを手に入れることが出来ないという特質がこれまでの全人生を通じて、まとわりついてきました。人生のあらゆる局面で、そのことを痛切に感じてきたのです。いつもいつも、人の幸せを横目で指をくわえながら見つめてきました。傍観者であるだけで、主役の位置に立てたことがないのです。ところが、唯一つ、何故か、お金に困ったという経験だけはないのです。これだけは、私にとってかけがえのない徳だと感じることが多く、他の何ものをも手に入れられない代わりに、きっと、このことだけは、これからの人生にも、私にずっと付きまとってくれるはずの特典(?)なのだろうなぁ…と不思議に感じることが多いのです。決して運のいい人間ではありませんし、「棚から牡丹餅」を手にしたこともないのですが…このことにはきっと、前世との深い因縁が隠されているのでしょう。大胆にお金を使うと言っても、これまでは知れた金額でしたが、もしかしたら、この6月までに、思いも寄らない大金を、事業に投入するかもしれないのです。やろうかなぁ…それともやめようかなぁ…と日々悩み、行ったり来たりで、まるでチャチャチャを踊っているような心境です。さて、私はこれから、どうするのでしょう?きっと答えはもう決まっているのでしょうね。未来の私が、今の私の悩みようを眺めることが出来るとしたら、どんな風に感じるのでしょうか?

信念?!

2006年05月02日 | 日々の泡
信じる力を持てることはとても大事なこととされています。なのに、私は、人や特定のものの考え方を信じることが出来ません。だから、揺るぎない信念を持つことが出来ないのです。ある属性の何を信じたらいいというのでしょう?信じる根拠は何処に求めたらいいのでしょうか?裏づけもなしに何かを信じるということは、一つ間違えば、妄想や妄信の世界へ猪突猛進していくことにもなりかねません。「信じられない!」「信じられない!」私の、この、物事を信じられないという欠陥をどうしたらいいのか?この欠如をどう補ったらいいのか?深刻な悩みでした。ところが、最近になって、意識というものには、変化・変容の余地がある…ということを、身をもって体験してみて、意識というもの面白さの実態に興味を持つようになりました。意識は微妙な変化を受け入れていきます。自分の‘意識’でありながら、まるで、自分とは別人のように、観察可能な存在でもあることを発見してもいます。意識が変われば、価値観や人生観も無理なく変わっていきます。信じられなかったものを信じてみようと思えるようにもなります。今の私には、この‘意識’という言葉が重要なキーワードになっています。

夢を見る。

2006年05月01日 | 日々の泡
長いこと、夢を持つことなど考えてみようともしませんでした。予測可能な日々。予測可能な近未来。禄でもないことは起こりえても、心躍る楽しいことが、私の未来に待ち受けているかもしれない…などとは想像することさえ出来ない、変わりばえのしない日々の暮らし。うっかり夢など見ようものなら、どんなしっぺ返しが来るか分かったものではないと思えば、夢を抱くことすら、身の程知らずの大それた事と自戒しがちでした。しがない勤め人である以上、私に限らず、大抵の人の生活も似たり寄ったりだと想像してもいました。ところが、突然、苦しみと期待がない交ぜとなったリスキーな課題が目の前に立ち現われることになって、夢を見る・あるいは夢を持つ生活に憧れる、という自分を発見することになってしまって、自分ながら大層驚いています。これは、私の人生にとってかなりな異常事態です。お金持ちになりたい。自分の力で得たお金を自由に使える身分になってみたい。そして、大好きな人と旅に出てみたい。遊び下手だった自分を返上して、高等遊民になって、この人生を享受してみたい!などという途方もない夢を抱くようになってしまっているのです。狂い咲き…という表現がぴったりかもしれません。

今の若者には、夢がない、将来へのビジョンがない…ということを縷々語る識者もいますが、私は、こうした現実は、夢を見られる仕組みや仕掛けがどこにもないからだと、自分の‘場合’を省みて、つくづく思うのです。けれど、求め続けていなければ、その仕組みすら、眼前に立ち現われてはこないのです。「諦めが肝心」という姿勢がこの世の真実ならば、「最後まで、決して諦めない」という態度も、もう一つの大事な真実だと思う今日この頃です。