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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

どうしたらいいの?

2006年06月05日 | 日々の泡
無理をせずに、自分の限りある資源と能力を生かして生きていきたい…そのことを絵空事としてではなく、すぐ目の前にある実現可能な現実として感じられるようになったのは、今のビジネスに出会ったからにほかなりません。でもここへ来て、このビジネスの教育のあり方に大きな戸惑いを覚えるようになりました。週1回の定期的な外部にも開かれた無料講習会や月に1回のビジネスに関するこの会社独自の考え方に基づいた専門的な有料講習会の内容に危険な雰囲気を感じてしまっているのです。人を騙そうとか、法の目を潜ろうとかいうような内容は一切ないですし、あくまでも最短での成功法を教育しようとしているだけなのですが、それでもはやり、投資を勧めているわけですし、もうすでに成功している人たちの論理に乗っ取った視点での方法論が強調されすぎていることを強く感じるばかりで、そうなると、私のように、人に拡める作業がなかなか思うようには進んでいかない人間やそんなに簡単にはお金を工面できない事情がある人の場合には関係のない話に聞こえてきてしまうのです。飛ぶ鳥を落とす勢いの成功者たちに、いくら声高らかに力強く講義を伝授してもらっても、心の芯に白けた気分が漂ってしまうのです。本当に素晴らしいビジネスのはずなのに、自分の身近なことには感じらなくなってしまい、気持ちは煽られるばかりで、落ちついた自分なりの行動がとれなくなってしまうのです。

私は組織の中で生きることの苦しさにがんじがらめになっているとばかり思い込んできましたが、要は、自分で考えるのではなく、人の出来上がった価値観の中で、疑問に思うことや自分の感覚が馴染まないことに素直に同調していくことがとても苦手な人間なのだということに、事の真相が集約されていることに気づきました。

きっと、この会社の雰囲気に馴染めない人は静かに去っていってしまっているのでしょう。この中で、やれる人だけが残っていて、その人たちが目立つから、皆が一丸となって突き進んでいるかのように見えてしまうのだと思います。それに、ある程度、実力者の方針に従っていないと、協力が得られなくなるので、成功もやはり遠ざかってしまいます。だから無理をしてでも、そうした雰囲気であってもついていこうとしている人も少なくはないのかもしれません。

この会社自体も製品やシステムもとても素晴らしいものなので、このところ、あっという間に集まる人の数も増えてきています。その中で、どれくらいの人が、私と同じような思いを抱いているのかは分かりませんが、仲間で、チームで進める仕事と言われている割には、本当の仲間やチームがどこにいるのかも判然としません。ただうまくいった話しばかりが目の前をちらつき、耳に入ってくるのはどうしてなのでしょう?

この会社のエッセンスとこの磁場をばねにして、後は、私がそれらをいかに活用できるかどうかにかかっているのでしょう。人の力を借りるにも、借りられるまでの算段は自分がつけなければ始まりません。そこまでの段取りにこそ、この仕事の真髄が隠されているのだと思います。この核の部分の秘儀を自分なりに体得しなければ成功はいつまで経っても「絵に描いた餅」のままになってしまいます。この真の核となる行動の部分に触れる講義内容を是非、用意して欲しいし、お金のない人も成功するビジネスだとうたうからには、成功例(お金がなくても確実に成功できた事例)のケーススタディを是非、提示して欲しいと思っています。最低の条件やまず初めの一歩の動き方を伝授してくれてこそ、多くの人の心を掴めるのだと思います。

シンクロニシティ

2006年06月04日 | 日々の泡
私が、私の愛用しているアロマを多くの人にも知って欲しいと考えるようになってから、意識のあり方がこれまでとは随分と違ってきて、日々の生活の中でも、今までとは物事に対する見方が(どこがどうとは表現しずらいものの…)微妙に変化するようになりました。

意識の持ち方が変わってくると、自分が常日頃、考えていることとどこかでリンクするような出来事が意味のある情報となってどこからかふっとやってくるようになりました。通常だったら会うことなどありえないような人に会ったり、ある人の状況が自分の需要と合致していたり…というようなことがしばしば起こるようになったのです。

ところが、そうした流れや動きが一段落してみると、結果的には、意味深い現象と思われたことも、結局は大きな成果には繋がってはいきませんでした。けれど、ここでくじけては、私の行く手は阻まれてしまう…と思い直しています。

冷静に考えてみると、やはり、私の内部には調子のいい下心が潜んでいたのです。「成功できたらいいなぁ!」などと表面だって考えていたわけではないのですが、どうしても邪念が邪魔をしていたようなのです。バランスを欠いた気持ちからは絶対に成功は生まれない…ということのようです。

最近、私にしてみれば最大級の投資をしてしまいました。投資額のサイズに応じてビジネスの大きさも決まる。そのボリュームに見合った回収が期待できると聞いていました。一般的にはそうなのかもしれません。あながち根も葉もない大風呂敷ともいえない真実味も感じます。けれど、私の場合はどうなのでしょう?ここでもやはり、私は異端としての道を歩きそうな予感がしています。「それだけは出来ない。」と思っていたことなのに、行動を起こしてみると、意外にも、私の心からは一切の奢りや焦りの衝動が消えてしまっていたのです。後悔の念にも駆られませんでした。あらかじめ、すべてを失ってスタートしたのだから、失うものはもうこれ以上何もないという静謐な気持ちなのです。もう誰も、これ以上は、私に投資の話は持ちかけてこないでしょう。後は、静かに、私は私の出来る事だけをするばかりなのです。もし出来なければ、それは全部、自分の責任として、自分に返ってくるだけのことです。成功なんて、私に出来るわけがない…と思えば、その通りになるでしょう。けれど、人生の難しいところは、「絶対に出来る!」などと思えばいいというものでもないところにあります。

中途半端に投資していた時の方が、うまくいかないことへの焦りに汲々としてきりきり舞いの状態でした。今では、アロマのことを聞いてもらえるだけでいいという謙虚で敬虔な気持ちがあるだけです。それが、友人や知人であるならば、相手に何かを受け取って欲しいという気持ちが増しただけで、それ以上のことを要求しようという欲求はなくなってしまいました。営業は、営業用の相手にだけすればいいと思うようになったのです。そういう意味では、きちんとした仕事は、仕事としてきちんとやっていきたいという願望が強くなったということだとも思っています。

私は今まで、本当に、人を大事にしてきただろうか?人と繋がるということはどういうことなのだろうか?世の中の人の目は節穴ではありません。私の邪気は直ぐに見抜かれてしまいます。私は今までのように、どこか気楽に、あなた任せで生きていくことはもう出来なくなってしまっているのです。

シンクロニシティにもいろいろあります。雑魚のようなものもあれば、きっと「これぞシンクロ!」といえるような実質の確かなものもあると思います。真の変化に繋がるシンクロニシティに遭遇したいと願っています。それには、自分がそれに見合った意識を持てるようになることが先決でしょうネ。

映画「初恋」に寄せて

2006年06月03日 | 日々の泡
「初恋を思い革命を偲ぶ」と題した最後の物語は映画監督でありドキュメンタリー作家でもある森達也氏の手になるものです。

本文のほとんどを割愛して、ごく一部だけを引用させていただきます。「かつてないほど息苦しく、統制や監視が強まってきているというのに、立ち上がるべき青臭いエネルギーの兆しなどまったく現れない時代に、僕らはいるのだから、~中略~ 初恋と革命の共通項が、決して成就しないことなのだとしたら、だからこそ限られた短い時間に、精一杯濃密であるべきだ。そうでなければ、薄くなり、やがて絶える

私たちは(少なくとも私は)、統制や監視や管理から自由になりたいと切望しています。例えば会社での昇進という問題一つをとってみても、建前はすべての社員に平等に開かれた権利であるかのごとく掲げられていますが、人事管理の一環としての制度であるかのごとく言う人もいます。そうでないにしても、そんな伝聞がまことしやかに伝わるような現状もあるのです。己を抑えて、そうした、ルートに乗れるよう頑張れることは、ひとつの特殊で貴重な能力となります。そんな非人間的な努力も短期間で実を結ぶならば傷は浅いのかもしれませんが、挑戦しても挑戦しても、それが結果的には徒労として終わるだけになってしまうとしたら、失われた時間の重みはあまりにも大きなものです。昇級試験のための勉強は生きる上では何の役にも立ちません。本当の創造性が求められているわけではないからです。ある種のテクニックと非常に限られた分野の知識に長けるワザが要求されるだけです。受かるためには、傾向と対策に精通しなければなりません。真に文章を組み立てる能力があったとしても、内容的には無味乾燥で、ある意味、一人よがりなことをとうとうと述べた上で、自分としては頑張っていくのだという決意表明をしなければならないわけですから、出世に対する上昇志向や特定のポストにつくことへの動機がよほど強い人ならばともかく、論文の内容に白々しさを感じてしまうような人にとっては、勉強に勤しむ日々は、自分の本当の気持ちと、職業上の要請とがどんどんスプリットしていく過程と繋がっていくことにもなってしまいます。

多くの優秀な人が、そのための勉強に日夜、大事な時間を割き続けているのでしょうが、私にはもうそんなことに人生を費やす気力もそうした苦行に価値を見出す志もなくなってしまいました。けれど、そのような姿勢に甘んじるのであれば(組織の中にありながら、組織の目指す目標の流れに乗れないばかりか、それに逆行していくというあり方)今の社会の中では、落伍者としてあるいは脱落者として生きていくしかなくなります。烙印は押されても、私という人間の価値を貶めるものではありませんが、この組織の価値の中で生き続けていく限り、私はどんどん無力化されていくことでしょう。それでもそれは仕方のないことと、やっと思えるようにもなりました。ここに至るまでの道のりは、私にとってはあまりにも長く苦しいものでした。そして、もうこれ以上、自分を脱価値化していくことは出来ない相談になってきています。

武者小路実篤

2006年05月31日 | 日々の泡
「君は君 我は我也 されど 仲よき」
依存でもない、癒着でもない、真に仲の良いからっとした関係を端的に表現した言葉だと思います。「君子の交わりは水の如し」というと淡白をモットーとし、相手の内面には立ち入らないでいる害のない関わりを想起します。少し前までは、私も、こういう関わり方を一つの理想形としていましたが、今では気持ちが少し変わってきています。

どんな関係にも、適切な距離感というものは必要です。でも距離が必要だからといって、親密さを遠ざける必要はないんだということを、ある人に教えられました。のんべんだらりと精神的に依存しあいさえしなければ、うんと親しくしてもいいんですね。そう考えられるようになってからは、人と関わる時に、大上段に構えるということがなくなりました。人と何らかの関わりを持てることを有り難くも楽しいことと思えるようになったからです。

もしも、お互いが依存しあう関係を求めたいのならば、依存し合ってみるという体験も悪いことではないかもしれません。両者がそれで満足ならば、うっとおしい…と感じないならば、しかもそれでも、その人との関係に安定感や安心感を覚えられるような間柄ならば、本当は、関係のあり方は、人それぞれに、どうあってもいいのだと思います。

自分が、相手との関係に重苦しさや負担を感じるようなら、私ならさっさとその関係から遠ざかってしまうでしょうが、関係を切りたくない相手に対しては、その人が望むような関係のあり方を模索して、自分がそれに合わせて沿っていくようにします。が、我慢は続きませんので、無理だと思えば、どこかの時点で、失いたくない関係でも断念するようなこともあるかもしれません。

けれど、ただ何となくのつきあいならともかく、自分を成長させてくれる器量を備えた人の存在に対しては、全力を注いで関わっていく姿勢を持たなければ、そこから先の人生の可能性が途絶してしまいます。生活も人生も、どういう人と関わったかによって、その質も拡がりも膨らみも全然違ったものになっていくからです。豊かに楽しく生きていきたいから…。一人でも二人でもいいです。「君は君 我は我也 されど 仲よき」こんな関係を持って歩いていきたいと思います。

ぼやけていたはずの輪郭が…

2006年05月28日 | 日々の泡
この世に生を受けてからこの方、自分が生きることに、自分の努力や持てる力がきちんと反映されていると実感出来ていたことが何度あったでしょうか?ある成果や結果が出せた時があったとしても、確かに、これだけ頑張ったのだから当然だとか良かったと思えた時もあるにはありましたが、大抵の場合は、それでも、それは割の合わない報酬だったようにも思えます。割りは合わないけれど、人生は自分の思うようには行かないものだし、成功手形は、いつの時も私のために用意されているものではないのだから仕方がないと、諦めて歩いてきたような気がします。それでも、何とか一番手でやっていきたいとがむしゃらに頑張っていた時期もありましたが、人にはそれぞれに、この人生で与えられている役割というものがあって、私の場合は、そんなに納得のいく人生が与えられているわけではないのだろうから…それはそれでやむをいえないことなのだと観念してもいました。

それが、突然、私の生が、私にとってリアルなものになってきたのは、今のビジネスに出会ってからです。が、現在は、生業を持って、その生業の合間を縫って、ビジネスの真似事に取り組んでいる状態なので、今まで投資してきた大金を無にする覚悟さえ持てれば、すべてが夢幻だったのだとして、元の世界に戻っていくことも不可能ではない状態にあります。

こんな、ある意味中途半端な境遇にあるからなのか、私は二つの世界の境界域で、二つの世界の価値の両方を眺めながら、それらを比較検討できる稀有な立場に身を置けています。今の仕事は、人から見れば、一応安定したものに見えるでしょうし、面白味はないものの、そのまま生きていけば、それは多くの人がそうであるような道筋を辿った生活を保障するものにもなっていくと思います。

ビジネスの道もほとんどの時間はどうしたらうまく進んでいくのだろうと思案に暮れることばかりで費やされていきますが、ここには非常に原始的な、人間としての営みが存在するのです。私が苦しむことは即、私だけの私の苦しみとなり、私の心が広がって、壁を越えることが出来れば、それは即、非常にストレートに私の人間的な成長の喜びに直結していくのです。何度も何度も挫折しそうになりました。これからだって、随所随所に、挫折の種は、嫌というほど転がっているはずです。あまりの厳しさに、明日にでも、「いち抜けた!」という気持ちにならないとも限りません。けれども、この世界には、‘私が確かに生きている!’という実感が横たわっているのです。この手応えを失わない限り、私はきっとここに留まり続けることでしょう。

ここにいると、今までにはぼやけてしか感じられなかった、私という存在の輪郭がハッキリと感じられてくるのです。こんな感覚も今までには知ることはありませんでした。たった一人で大海原に漂っているはずなのに、その時の恐さも、当初、感じたような恐さとは少しずつ違ったものになってきています。こんな時に、私の力になろうとしてくれているような人は、本当に大切な、生涯に渡っての恩人ともいえる存在の人のはずです。そう思うと、いくら感謝しても感謝し尽くせるものではありません。最終的には、一人ひとりがどうしようもなく一人なのですけれど、それでも、力を合わせて・分け合って、一人が100点を取るのではなく、信じあって行動を共にする私とあなたが合計で100点を取れるように(上下関係や支配関係ではなく、同列の者同士として、収穫を共に自分たちのものとして喜びあえる関係の中で)歩んで生きたいと思っています。

混沌とした動機

2006年05月26日 | 日々の泡
例えば、それが受験生であれば、どうしても入学したい大学に合格するために、今すべきことや、受験の動機は比較的明確に捉えることが出来るので、ねじり鉢巻をして、「根性」とか「合格」とかの張り紙を目につくところに貼り付けて、一心不乱に頑張る姿勢という図がすぐにイメージ出来ます。

ところが、私の場合は、根っ子のところに、まずは事業を成功させたいという願望が横たわっていますので、純粋に人のためとばかりは言い切れない不純な(?)動機が部分的には存在することになってしまっています。幾つかの動機が共存して手を組んでいるわけなのです。そのどれもが嘘ではないだけに、人に話しをする時に、自分の中で、それらの動機の、どの部分でアプローチしたらいいのかが不明瞭だと、相手にも、私の意図が曖昧にしか伝わりません。むしろ、相手に名状しがたい不快感を与えることになってしまいます。

私が同じ言葉で説明しても、人によって受け取り方がさまざまだという事実に驚いています。私の申し出を好意として受け取ってくれる人もあれば、「またか!」と辟易したり、警戒心を持ったりする人もいるのです。今までには、複数の人に同様の呼びかけをしたという経験がなかったので、今回、そのような行動を取る機会が何度かあって、複数の相手から、反応を受け取る体験をしてみると、私の行動に変わりはないのに、人によってその受止め方がまったく異なってくるという現象が起こり得ることを知りました。一つの現実が(人による)受け止め方の違いでコインの表と裏ほどにも違う結果を招くということをとても興味深いこととして認識したのです。

相手の、私という人間に対する構えや、未知の概念への向かい方、興味があろうとなかろうと、一度は相手の誘いに乗ってみようとするかしないかなど、その人の行動や思考の型やパターンのいろいろな要素が、相手の反応としてだけでなく、まさに私の体験としてもフィードバックされてくるのです。

一人の人の一つの反応だけなら、心はちくりと痛み、悄然とするかもしれない私でも、複数の人の反応を知ることで、例え、反応が思わしくないものであっても、感情体験として受け留めるという危険性が極めて希薄になることに気づきました。私の中に湧き上がってくる不愉快な心の動きも、(命取りにはならないけれど、指先に深く入り込む)トゲのようなことにはならないという事実を提示してくれるものでした。忘れてしまえる‘一つの出来事’として捉えていけばいいのだと思えるようになったのです。反応のない人やうるさがる人には、もう働きかけなければいいだけのことです。今は興味がなくても、何かの折に縁が繋がるということもあるかもしれません。要は、こちら側の心や頭の柔らかさも試されることになるのです。

何事も勉強。何事も経験。失敗も今後のための勉強になるし、失敗も決して無駄にはならない経験になっていくのです。本来は、人生を生きるということは、そういう性質のものだったはずですよね。

ひとつひとつ…その場その場

2006年05月25日 | 日々の泡
イメージをしっかりと持って、目標を掲げて計画に沿って行動してこそ夢は叶うといいます。一般的にはそのようです。けれども、私の場合は定石どおりにはいきません。確固たる信念を持ってしまうことすら無理です。思いも考えも感情も気持ちも刻一刻と変化していくからです。信念を持ってしまったら、随時の更新作業に忙しくしなければなりませんので、不必要で余分な動作が増えてしまうということになります。人や状況に対する感じ方も普遍的なものもあれば、自分を当てに出来ないほど、一定でないものもあるので、その時々、その状況次第で、判断していくしかありません。行く手に神の存在を感じるのですが、(遠くで、私を見守ってくれる神も存在するのでしょうが)私に見えるのは、私のすぐ傍で、その見えざる手を差し伸べてくれている神だけなのです。私の手をしっかりと握ってはくれませんが、触れるか触れないかのぎりぎりの近くで導いてくれています。その神だけを頼りに歩いている私なので、遠いビジョンを見つめることは今は出来ません。直前にある状況を感覚で捉えることだけが、多分、今の私が、道に迷わずに歩ける秘訣なのだと感じています。今日という日はすぐに明日になってしまいます。過ぎたことは変更不能なことですので、あまり気にはなりません。‘今’と、チョッと先の‘今’の判断がすごく大事だと思えるので、今ここで何かをするか、何もしないでおくかということには気を使っています。その判断次第で、先の状況は案外、大きく変化していくような気がするのです。そのことが負担になるというよりは、そのことが面白い…多分、この空間に、少し先の運命を右か左かに変えうる要素が隠れているのだと、私は感じるようになっています。

最近思うこと

2006年05月22日 | 日々の泡
私が扱おうとしている商品はアロマ製品です。従来の市販されているものと一線を画している特徴がどこにあるかと言えば、それは医療としての期待を担うもので、空気環境の改善や体質改善を一義的に狙うことによって、病気の予防や不定愁訴からの脱却までをも視野に入れたもので、現在の日本では唯一無二の商品となっています。が、伝統的なビジネスの手法をとっていないため、使用してみて、この商品の素晴らしさを実感した人が口コミで、商品の素晴らしさを伝えていくという方法によるため、商品を紹介する場合、誤解もされやすいですし、誤解されないにしても、どうやって理解してもらうかについては、大変な難しさが伴います。

アロマの製品そのものは、フランス・台湾・シンガポールなの国立大学に研究機関を持っていて、専門家が日夜、それらの製品の品質の効果を検証し続け、レポートも提出しているくらいの大変に優れたものです。シンガポールなどでは、政府も認める一流のトップブランドでもあるくらいなのですが、日本では、(日本にこの会社が参入して、今年で4年目ということもありますが、)まだ一部の人にしか知られてはいません。

アロマ製品は、日本支社に‘あるだけ’です。要は、会員となって、そのアロマを介在に、事業家となって、それらを流布させていこうとする人のあり方や考え方が、このアロマに関していろいろな伝説を生み出しているということになります。さまざまな人の思いが、アロマに投影されてくるのです。

ある人は、要は金儲けの場なのだと言います。ある人は、一人でも多くの人に、身体の不調を取り除いてもらいたいと言います。身体というものは次々に不調を訴えるものだけれど、貧乏な人に、この仕事のことを教えてあげて、貧困から救い出してあげることは大変な社会貢献だと言う人もいます。この仕事は個人プレイではなかなかおぼつきませんので、チームで取り組むのだと力説されています。が、結局は、ある種の協力は得られても、最終的にはチームではなく、個人としての力量がなければ、状況はどうにも動きませんし、ラインの人の力を借りるといっても、貸してくれる人もいれば、特段の援助は何も得られないと言う人もいます。これだけ大勢の人がいても、結局は誰も何もしてくれない…という情報も耳に入ってきます。人によって言うことが微妙に異なっています。当初、私はこうした種々雑多な人々の集合体を目の当たりにして、これは人生の縮図だなぁと思いました。特に、私のような、これまでに、このような世界に触れたこともない人間の言動は、そこで本気で事業を成功させようと考えている人たちの目には、ある意味、目障りなものとして映ったようです。あるいは何も分からないのに右往左往しているのは、ちょっと気の毒だからアドバイスの一つもしてあげようか…という印象も与えていたようです。総じて、私はその空間では、異邦人なのです。一心不乱にお金儲けのことに取り組んでいるわけでもない。この事業に関わろうとしているくせに、「そんな事出来るわけがない!」とか「信じられない!」とかのたわ言を言っているとして、反感や顰蹙を買っていたようなのです。

その事実を知った時、初めは動揺しました。その世界の色に染まれない私の言動を改善させなければいけないのかと意気消沈もしました。けれどどう考えても、私の戸惑いや不安は当たり前のものだと思えたのです。一つ一つの出来事や段階で、「分からない」とか「困っている」とか「不安だ」と思うことがあってもいいはずだ。むしろ、湧き上がってくる感情を表現しないことの方が不気味な態度ではないか!そのような想念が浮かんできた時、自分のあり方を肯定することが出来ました。人は何とでも言う。人に気に入られるように行動する必要はない。しかも大人のビジネスの世界の話なのだから、皆が同じ思いで足並みを揃えようとすることの方がおかしいし不自然なくらいだ、と思えてきたのです。

「要は、金儲けの世界なのだ」と言った人にとっては、この仕事は、そういうことだということです。けれど、私もそうである必要はまったくないと思いました。アロマという商品をどう扱い、どのように夢を展開させていくかは、各人の自由に任されているのです。だから、この仕事は、それを扱う人に応じて、汚くも綺麗にもなっていくのだと思いました。最後は、どんな世界においても人間性が顔を出します。私は私の仕事をしていけばいいのです。最近、自分の気持ちが濁ってくるような状況や、自分とは合わない考え方の人に、必要以上に影響を受けるということがなくなってきたのには、人は人。自分は自分でいい。という思いが自分の中で徹底してきているからなのでしょう。世界はただニュートラルにそこにあるだけなのです。その世界をどうみているかという投影現象には、その人の人間性が丸ごと影響しているのです。そのことをちょっと頭の隅において考えることが出来るようになってからは、生きることが格段に楽になりました。人を恨んだり、警戒したりせず、自分と世界観の異なる人からは、自分が遠ざかればいいだけのことだと、思えるようになったからなのでしょう。

成り行きの力

2006年05月21日 | 日々の泡
人生の岐路に差し掛かった時には、貧しい考えであっても、自分なりには熟考して、それなりには納得した上で、これまでは、歩んできたように思います。ところが、どんなに考えても、どうしたらいいのかがハッキリしない。多分、常識的にはやめておいた方が無難…というか間違いないのだろうなぁとは分かっていながら、それでは詰まらない。それではこれまでと何も変わらない。それなら、この道を歩こうとしている意味もなくなる。と思えるような体験をしています。進むことが楽しさに繋がることなのかどうかは定かではありませんし、予測不能な混沌としたけものみちなのですが、そこを逃れれば安心・安全などという次元の問題でもないだろう…というつぶやきがしきりと耳に届いてしまうのです。理屈では推し量れない世界に足を踏み込んでしまいました。成り行きに任せるしかないという心境なのです。村上春樹さんも言っています。「成り行きの力」ってけっこう人生の重要なエレメントだって。ところが、私は以前に、成り行きで突っ走って、自分だけではなく、人にも大層な迷惑をかけてしまったことがあるので、この「成り行きの力」に一気に乗ってしまう勇気もないのです。勇気もないのに、私の心はもう八分方、「成り行きの力」を頼りにする覚悟でいるのです。お~お、恐っ!

どこから見るかで…

2006年05月18日 | 日々の泡
人間の長所と短所は表裏一体だと思っています。長所は短所にもなりうるし、短所も長所になりえます。私は実に、小心でおどおどした人間なのですが、ある人には、全然そうは見えていないらしい…という事実に驚くことがままあります。「そこに存在しているだけで面白い。」などと言われる事すらあります。そう言ってくれる人は、私の特質の極めて珍しい部分に目を向けてくれていて、その人には、私のそうした部分が特に際立って見えているということなのだと理解しています。だから、自分では、そんな風に見られることを、たいそう不思議に感じながらも、あながち不思議とばかりは言い切れない面もあるということになのだと得心しています。

昔から、分かりづらい人と言われてきました。「あなたは、真面目で堅実だから、不真面目な人はあなたには近づいて来ないわね。」ともよく言われました。誉められているのかけなされているのか、これもよくは分かりませんでした。ただ自分としては、「こんなに単純で大いにおバカで、ごくごく普通の変わり映えもしない人間を掴まえて、(言うに事欠いて)人は何てことを言うのだろう。」と釈然としない思いを抱えてきました。なのに今では、変わり者とかおかしい人と言われることが嫌ではなくなってしまっているのです。そう言われると、私仕立ての、オーダーメイドの勲章を胸につけてもらえたようで誇らしくさえあります。私は、もう人並みでなくてもいい。いびつでもいい。だけど、ちょっとだけ味のある独特な人間になりたいと思うようになってしまいました。こんな私でも、友だちになってくれる人もいることをとても有難いと思っています。

現実の世界で、人と面と向かっては、自分のことを喋りたくない私なのに…匿名性が許されるブログでは、こんなに饒舌に自分を語っています。ブログなどという優れたツールを生み出してくれた、今の時代に乾杯!ですぅ。