

私が、私の愛用しているアロマを多くの人にも知って欲しいと考えるようになってから、意識のあり方がこれまでとは随分と違ってきて、日々の生活の中でも、今までとは物事に対する見方が(どこがどうとは表現しずらいものの…)微妙に変化するようになりました。

意識の持ち方が変わってくると、自分が常日頃、考えていることとどこかでリンクするような出来事が意味のある情報となってどこからかふっとやってくるようになりました。通常だったら会うことなどありえないような人に会ったり、ある人の状況が自分の需要と合致していたり…というようなことがしばしば起こるようになったのです。

ところが、そうした流れや動きが一段落してみると、結果的には、意味深い現象と思われたことも、結局は大きな成果には繋がってはいきませんでした。けれど、ここでくじけては、私の行く手は阻まれてしまう…と思い直しています。

冷静に考えてみると、やはり、私の内部には調子のいい下心が潜んでいたのです。「成功できたらいいなぁ!」などと表面だって考えていたわけではないのですが、どうしても邪念が邪魔をしていたようなのです。バランスを欠いた気持ちからは絶対に成功は生まれない…ということのようです。

最近、私にしてみれば最大級の投資をしてしまいました。投資額のサイズに応じてビジネスの大きさも決まる。そのボリュームに見合った回収が期待できると聞いていました。一般的にはそうなのかもしれません。あながち根も葉もない大風呂敷ともいえない真実味も感じます。けれど、私の場合はどうなのでしょう?ここでもやはり、私は異端としての道を歩きそうな予感がしています。「それだけは出来ない。」と思っていたことなのに、行動を起こしてみると、意外にも、私の心からは一切の奢りや焦りの衝動が消えてしまっていたのです。後悔の念にも駆られませんでした。あらかじめ、すべてを失ってスタートしたのだから、失うものはもうこれ以上何もないという静謐な気持ちなのです。もう誰も、これ以上は、私に投資の話は持ちかけてこないでしょう。後は、静かに、私は私の出来る事だけをするばかりなのです。もし出来なければ、それは全部、自分の責任として、自分に返ってくるだけのことです。成功なんて、私に出来るわけがない…と思えば、その通りになるでしょう。けれど、人生の難しいところは、「絶対に出来る!」などと思えばいいというものでもないところにあります。

中途半端に投資していた時の方が、うまくいかないことへの焦りに汲々としてきりきり舞いの状態でした。今では、アロマのことを聞いてもらえるだけでいいという謙虚で敬虔な気持ちがあるだけです。それが、友人や知人であるならば、相手に何かを受け取って欲しいという気持ちが増しただけで、それ以上のことを要求しようという欲求はなくなってしまいました。営業は、営業用の相手にだけすればいいと思うようになったのです。そういう意味では、きちんとした仕事は、仕事としてきちんとやっていきたいという願望が強くなったということだとも思っています。

私は今まで、本当に、人を大事にしてきただろうか?人と繋がるということはどういうことなのだろうか?世の中の人の目は節穴ではありません。私の邪気は直ぐに見抜かれてしまいます。私は今までのように、どこか気楽に、あなた任せで生きていくことはもう出来なくなってしまっているのです。

シンクロニシティにもいろいろあります。雑魚のようなものもあれば、きっと「これぞシンクロ!」といえるような実質の確かなものもあると思います。真の変化に繋がるシンクロニシティに遭遇したいと願っています。それには、自分がそれに見合った意識を持てるようになることが先決でしょうネ。