
精神科医の斉藤環氏が朝日新聞の「opinion」欄に、「NPO施設事件」(ひきこもりの26歳の青年が、拉致同然に、連れて行かれた施設の中で絶望のあまり食事もとれないまま衰弱死していったという事件)についての見解を出されていました。現状分析としては、恐らく、これ以上のものはないのではないかと、私には思われます。「ひきこもり」という概念は、いまだ専門性の埒外におかれた不幸な概念で、医療も教育も福祉も、それぞれ一定の関心は示しながらも、結局は誰も引き取ろうとはしなかった概念の非嫡出子だ…と、氏は考察されています。一定の関心は示しながらも引き取ろうとはしない…そう言われてしまえば、医療や教育や福祉がいかにも無責任極まりない無頼者のように映りますが、決定的で有効な方途が見つけられない以上、それは援助者側の卑怯さに由来するのではなく、当然の帰結のように、私には思えます。当事者や家族が、「まっとうな専門家」に絶望してきたとしても、当の「専門家」たちも援助者としての力の限界や無力さに忸怩たる思いを抱いているはずだからです。ひきこもりの問題に関わる人たちは、当事者であろうと家族であろうと専門家と言われる人たちであろうと、皆一様に、「どうすることも出来ない」ことを知り尽くしています。氏は「ひきこもり」対応においては、ひたすら待つことにこそ決定的な価値があるということ。「いかにして待つか」の戦略に、ひきこもり臨床の真価があること。強制的介入と体罰の肯定は、それを勧める側の不安と焦燥の告白でしかないこと。本人のプライドを破壊してなされる価値観の注入は、パターナリズムよりはカルトの手口にほかならないこと、を強調してやみません。恐らくはまったくその通りだと私も思います。ある日突然、一念発起して、ひきこもりから脱出して、世間に出て行くなどということが可能でしょうか?可能だとしても、それが本当に最善の道かどうかも分かりません。ひきこもっている人たちを「怠け者」「穀潰し」と糾弾するのは、糾弾する側の心の不安と現状認識に対する性急さがなせるワザであって、ことの本質はまったく別の場所にあるように思われます。どうしようもないことが世の中には多すぎます。