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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

FC&独立開業フェア

2006年04月28日 | 日々の泡
国際展示場には、以前にも出かけたことはあるような気もしますが、年間を通して、広い会場のあちこちで、いろいろなイベントが開催されているということは、今回、初めて知りました。そして、知人に誘われて、「FC&独立開業フェア」なるイベントに参加してみて、多くの人が、個人での「起業」を目指して、いい仕事を探しているかということを目の当たりにしました。その光景は、私がいかに、今までは、世の中の、厳しい実相を見ないで済んできたかという事実を突きつけてくれるものでもあったのですが、と同時に、世の中の多面的な側面を見逃してきてしまったという、もう一つの現実をも思い知らせてくれるものでもありました。FCというのはフランチャイジーの略語のようです。出店ブースは幾つぐらいあったでしょう?数えはしませんでしたが、結構な数だったと思います。飲食店関係から、印鑑屋さん、もちろんコンビニ、お墓を取り扱うお店、塾、めがね屋さんなどがありました。有名デパートで最近よく目にする、綺麗な透明のチャーム付きの印鑑は一万円弱もするものであっても、原価は300円だということでした。世の中に氾濫するきらびやかな商品の数々も、意外に、もともとのお値段は安いものなのかもしれません。けれど、どんな商売も決して楽なはずはありません。入場者には、500円相当のパスネットをくれる上、丁寧に見ていくと、1500円相当の印鑑に、好きな字体で苗字をパソコンで作成してくれるブースもあったりして、遊びがてらなら、なかなか楽しめるイベントなのでした。一流の講師陣による経営に関するセミナーも、一日に講師を代えて、3回も同時に無料で開催されたりしているのです。情報化時代とはいえ、こんなにも来場者に親切なイベントが開催されているなんて!アンテナは高感度に保っておかなければ…と感じた次第ですが、私はどうしても、ゆりかもめが走っているあの町々が好きになれないのです。未来都市のような人工的な町、心がどこかへ飛ばされそうな、あの空間がどうしても好きになれません。だから、やっぱり、国際展示場には、これからも出かけて行くことはあまりないと思われ…今回の経験は貴重なものとして終わってしまいそうです。

優待?

2006年04月26日 | 日々の泡
先日、NHKの朝の番組を、聞くともなしに聞いていてとてもびっくりしました。番組で紹介されていた主婦の方が、ある企業に700万円の投資をして、22万円の商品を還元してもらったという話しが映像で紹介されていたからです。こうした事例が公共放送で流されるなんて、時代は変わったんだなぁ…と腰を抜かすほど驚きました。今や、銀行に大枚を預金しても、バカにされているのではないかと訝しく思うほど、利子が極少なひどい情勢の世の中です。だからといって、「株主優待」として、金券や商品をもらっても、私なら全然嬉しくないです。大体22万円の商品をもらうために、700万円を投資できるなんて、ちょっと信じられない話でした。もっとも、話しの全容をきちんと聞いていたわけではないので、聞きかじった‘部分’の話しで早とちりをしているだけの話しかもしれないので、何ともいえませんが、自己責任の時代、自分の資産は自分の智恵と工夫で管理していかなければならない、そして出来れば増やしていかなければならない、そんな時代が到来していることだけは確かです。どうしたら効率良く、お金持ちになっていけるのでしょう?額に汗してコツコツ頑張る生き方しか知らなかった私ですが、どうも、世の中、そんなに画一的でもなさそうです。王道はないにしても、成功した人だけが知っているコツとでも言うべきものがあるような気がしています。おすすめ悠々ライフ

うしろは見ない!

2006年04月21日 | 日々の泡
反省や後悔が、私の専売特許でした。が、この頃の私はと言えば、後悔もしないし、反省という言葉の意味すら忘れてしまっているような状態です。不満を持つと、邪気が体内に充満するような気になるので、これ以上詰まらない人間になってしまったら、もうどうしようもないなぁ…という思いが強くなってしまっていて、不満を持つということすらとも無縁でありたいと願うようにもなりました。無力であるということは嫌というほど理解できたので、無力であることをことさら嘆くこともやめにしました。チマチマチマチマ生きてきた私が心底、嫌になってしまったのです。これほどまでに細心の注意を払って生きてきたのに、挙句の果てに、私が手にしたものとは一体何だったのでしょう。それを思うと、これからは、何の役にも立たなかった、これまでの遣り方をは、もう採用したくはないと思うようになりました。人や世間と争うことも金輪際やめにしようと思っています。人は人、世間は世間だからです。我が身の不幸を嘆くことも終わりにします。人間にはどんなことでも起こりうるのです。だから、私に不幸が舞い降りたところで、そのことにも、取り立てて何の不思議もありません。それをことさらに恨んでみたところで、お門違いの恨みの見返りは他人に対してばかりでなく、自分自身にも跳ね返ってくるはずです。私が発生させる毒ガスは、私の周りの人を不愉快にさせるだけのものでしょう。私の攻撃は、周りの人ばかりでなく、他でもない、私自身をも痛めつけることになるのです。私がこれまでに身につけてきた生き方には、とにかく、もううんざりなのです。

そんなことが可能だろうか?

2006年04月20日 | 日々の泡
世の中の仕事事情がどうなっているのかは、私にはその実態が皆目見当もつきません。20代前半の人たちなどは、正社員になることのメリットや魅力が感じられないから、フリーターを続けるというような人もいるようです。けれど、フリーター暮らしも、そんなに気楽なものとは思えません。中高年ともなれば、リストラなどで失職した場合の再就職先など、到底見つけられないのが現状のようです。宮仕えはしがないから…と一国一城の主になるべく起業を考えても、一般的にはリスクが大きすぎます。設備投資・人件費・光熱費に加えて、特別の技術を身につけるための自己投資へのお金の嵩はそんなに軽いものではありません。

そこで、また、私が関わっている事業の宣伝になりますが、いくつかの特質があります。①扱う商品が独特のものであるということ→日用品や下着は巷に溢れていますし、高額の美容器具等は一台売れれば、次の需要はそうそう続くものではありません。けれど、アロマは常に消費し続けるものですので、リピート性が高いという優れた特質を持っています。また、アロマを燻蒸する際に使用するディフューザーという芸術性の高い燻蒸器は巷では購入することが出来ません。②100万円位の投資で経営を開始することが出来ます。その時点で、経営者として、自分が本店となって、支店を持つことが可能となります。経理の専門家に管理を依頼する必要もなければ、実際の店舗を構える必要もありません。もちろん、人を雇う必要もないのです。必要経費は交通費位なものです。③アロマは今や代替医療の代表選手にもなっています。病気の予防から健康の保持増進、そして治療困難な重篤な病や生活習慣病にも対応できる力を持っています。もちろん、万能ではありえないので、すべての人に効果があるとは言い切れませんが、それを言うなら、伝統的な医療の現場で使われる薬品とて、万能ではありえないし、効果があればあるほど、副作用の心配も付きまといます。④会社及び商品の素晴らしさを拡げる仕事は、会員である私たちに委ねられている大きな役割です。会社は一切の宣伝行為をしない代わりに、商品を購入してくれる人がいた場合には、私たち会員へのお礼として、何割かを還元(大きな還元率)してくれます。このシステムが他のビジネスでは例を見ないものとなっています。⑤現在は13カ国で展開中のビジネスですが、世界に販路を拡大中ですので、国際ビジネスといってもいいと思います。

まだまだ修行中ですので、私が知りえているのはこの位のことですが、組織を作って、流通経路を限りなく拡大していくことさえ出来れば、余裕を持って生活してにいくことが可能な経済の基盤を築くことが出来る仕組みになっています。

大きな事を始めたら、途中で降りることは出来ないということを、中国では、ことわざの内容をもじって、「トラからは降りられない。」と表現するようです。この事業に関わっていくことが、私のようなものに(ビジネスなどということには無縁だった人間に…という意味です。)可能なことなのかどうかは分かりませんが、私も、いつの間にか、トラからは降りられないという状況の中にいます。誰に脅迫されたわけでもなければ、自分で自分を追い詰めているわけでもないのですが、気がつけば、後退や撤退のことは考えられないという心境を抱くようになってしまっているのです。予期せぬ人生の岐路(転換点)に立っているということになるのでしょうか?半分は、まっとうに努力しても報われない、今の世の中の仕組みとは、「もう縁を切りたい!」という、これまでの徒労に対する‘うんざり感’が強い動機の一つになってもいるようです。

失業した中高年に厳しい雇用の現実:東北の地方都市からの悲鳴

精神的成長のために必要ないくつかの条件

2006年04月19日 | 日々の泡
いくつかの要素があるとは思いますが、①からだを使って動くという要素は不可欠なものでしょう→この仕事に携わっていると、必要ならば、いつでも何処へでも出かけていくという基本姿勢が当たり前のものになります。 ②目標を達成させるためには、一人の行動とチームの適任者の支援を受けながらの行動を組み合わせてこそ、相乗効果が期待できるということが分かってきます→困難を一人で抱え込もうとしなくなり、人の協力を仰ぐことが当たり前と感じられるようになっていきます。③この仕事をやろうとするからには、人間関係の中にしか種を蒔くことが出来ないので、常に常に、人脈を拡げていくことを念頭に置くようになります→すべての人を友人と思う気持ちがいやがうえにも醸成されていきます。④アロマに関する知識を常に最新のものに更新することが最低ラインの努力義務となるため、常に、学び続けることで知的成長を図ることが出来ます。

実にさまざまな人が、一つの目標のために決められた日に集まってきては散っていきます。みんなが、チャンスをいつも逃がさないようにという気持ちを持っていますので、人も大事な情報源と捉えるようになりますから、すぐに連絡先を交換し合って、情報をやり取りするようになります。これは恐怖政治とは違うものですから、ノルマもいじめもありません。日常的なしがらみの中で、仕事をしあう関係でもありませんので、人の顔色を伺う必要も、人の悪口を言い合う必要もありません。とはいっても、ここは別にカルト的な理想郷でもありませんので、真の自立心と自尊心を持ち合わせていない場合には(誰もなだめてはくれないので)そこに居続けることはだんだん辛いことになってくるかもしれません。

この事業をやっていくと決めたからには、やり続けなければ何の意味もないことになってしまいます。決めたからにはやり通すのでなければ、時間とエネルギーの投資が水泡に帰してしまうことになるからです。いつでも逃げ道を用意して、ダメそうなら撤退すればいいと様子を伺いながら、生きることはもう許されなくなります。もちろん、やめることの自由は本人次第ですが、もし途中で断念してしまえば、そこから先は、‘生きる屍’としての人生を甘んじる道しかないのではないかと、私は思っています。この仕事は、山を当てようとか、株で儲けようとか、宝くじで一攫千金をねらおうというような博打的なこととは性質の違う内容なので、地道な誠実さや粘り強さが常に要求されます。

この事業に含まれている、人を成長させるために必要な要素の実態を綺麗に整理することは、今の私にはまだ出来ませんが、現在の段階で、たぶん、こういうことなのだろうなぁ…と感じていることはこのようなことなのです。

盾…私の場合

2006年04月18日 | 日々の泡
私が現在、愛用しているアロマは、日本においては、唯一無二のものです。広く一般に市販されているものとは違い、ディフューザーという燻蒸器で液体状のアロマを空気中に燻蒸するものです。

このアロマと、私との出会いは、極めて自然なものでしたので、何の躊躇もなしに使い始めました。最初は単なる愛用者に過ぎなかったのですが、ほどなく、このアロマの背後には‘ビジネス’が拡がっていることを知るようになりました。長いこと、組織の中で生きてきた私には(今も生きていますが)、投資の概念や経営感覚などは皆無でしたので、いくら、このビジネスにおけるシステムの素晴らしさを説明されても、マーケティングの知識に弱い人間に付け込もうとしている、世の中によくある、結局は実りの少ないビジネスの一つに過ぎないのではないか、私は彼らのかっこうの餌食に過ぎないのではないか…という判断の域からは一歩も外へ出ることが出来ないでいました。

けれど、騙されたつもりで、勉強会に出続けているうちに、そして、恐る恐る活動の真似事を繰り返しているうちに、自然と、私はこの仕事の魅力にアクセスできる瞬間を体験できるようになっていったのです。

この事業は、確かに、基本的には、そんなに簡単なことではありませんが、いままでにはまったく知り得なかった世界を知るようになったことによって、この世の中には、これまでの私には想像も出来なかった価値観や人々が存在していることを学ぶようになりました。そのことによって、これまでは決して味わうことの出来なかった、生きることの楽しさや悦びを感じ取れるようにもなってきているのです。一番の不思議は、自分は無力だとか寂しいとか虚しいとかの気持ちに襲われることが非常に少なくなったいうことです。人に対する自然で暖かい思いやりの気持ちも蘇ってきたのです。この事業に関わっていると、ある意味、すごく原始的に生きていくことが出来るのです。組織の中で生きることの過酷さや遣りきれなさを骨の髄まで味わってきたからこそ、この事業のコアの特質を感じ取れているのかも知れません。新しい体験に触れる度に、意識もどんどん変化していくのです。絶対出来ないと思っていたことが、段階を踏むたびに、もう出来ないことではなくなっていくのです。そうした意識の変化と共に、人と人との関わりにおいても、いろいろな不思議なことが起こってきます。恐らく、その体験はこの事業に関わる人によってさまざまなものになるのだとは思いますが、少なくとも、誰にとっても、この事業に出会う前の生き方からは絶対に生まれてはこないような性質のものであるために、その魅力の核にコミットできた人はそれぞれに生き生きとした雰囲気を醸し出すようになっていきます。

私は、いつの頃からか、「もう頑張らない!」という姿勢を持つようになっていました。現在の職業生活の中で、頑張ろう!という前向きの姿勢を持つことは、自分の本質に深いダメージを与えてしまいかねないことを察知していたからです。どんなに力を尽くそうと、それで自分が満足するのならいいとしても、そのことで何かの見返りを求めようと考えるのならば、それは命取りにもなりうる危険な行為だとも分かってしまっていたからです。こうして、私は少しシニカルになり、皮膚移植が必要なほどのケロイドを心に作ってしまわないような術を覚えていきました。

ところが、この事業の世界には、そんな虚しい気持ちを駆り立てる仕組みや要素が見当たらないのです。私の心が拡がっていけばいくだけ、そこに展開していく世界も拡がりをみせてくれるようになっています。私が、私のために頑張ることが私自身のためになるばかりでなく、私のチームのすべての人の豊かさにも繋がっていくというシステムで成り立っているのです。

事業そのものに、模索期・発展期・爆発期があるように、個人の活動にも、模索期・発展期・爆発期という段階があるようで、模索期には、やることなすことが上手く行かないことが多いのですが、ある時、ふっと、風がこちらに向かって吹いてくるような瞬間が訪れます。もちろん、模式図どおりには行かないでものですので、それぞれの段階にも、小刻みにいろいろな波は押し寄せてはくるのですが、とにかく、生きている…という実感が伴う、極めてプリミティブな生き方が実現してくるのです。

出し抜いたり、追い越したりということが不可能なシステムの中で、私たちはチームの総合力で、相乗効果を発揮しながら、この事業の発展を目指していきます。たぶん、こうした人間の思いが結集する‘場’には、人間が成長を遂げる時に必要とされる種々の条件や要素が発生してくるのだと思います。その点についての分析はこれからになりますが、私は、思いがけずも、自分の中の柔らかな心をしっかりと守ってくれる盾を、今、期せずして手にしているという気持ちに包まれているのです。

盾・シールド

2006年04月17日 | 日々の泡
朝日新聞の日曜日の朝刊の「朝日求人」というコラムが好きです。各界の著名人が、「仕事」に関する、その人なりの考えをだいたい1ヶ月を1クールとして披瀝してくれています。仕事について語ることは、すなわち、その人の人生観を赤裸々に語ることでもありますので、私が共感できる内容であってもなくても、それなりに大変興味深く読むことが出来ます。今月は、作家の村上龍氏です。私は、以前から、村上氏のことが何故か、理由もなしに好きでした。作品を読むことはほとんどありませんが、ずっと、昔にテレビで放映していた、「リュウズバー」という番組も大好きでした。村上氏のバーに毎回、多彩なゲストが招かれてトークを繰り広げるというものです。村上氏はいつまでたっても村上氏のままで、いつも刺激的です。

さて、今回は仕事そのものについてダイレクトに語るというよりは、村上氏の最新作の「盾・シールド」という絵本が生まれることになった背景を(この作品のアイデアを思いつくきっかけになったのはサッカーの中田英寿選手なのだそうです。)語ってくれています。村上氏の文章をそのまま転記したいと思います。『素顔の中田選手は、周囲に細やかに気を配って、想像力豊かだし、基本的に優しくて柔らかでピュアなハートの持ち主です。でも、サッカーのゲームではもちろん、何かに立ち向かうときにはとても強いものを持ち合わせています。フィジカルにも強いし、精神力も集中力も、それにイタリア語や英語といった語学力を含む高いコミュニケーションスキルもあります。人間の総体としては、とても強いわけです。柔らかなハートと強さはどうやって結びついているんだろうと考えているうちに「盾・シールド」のアイデアが生まれました。柔らかなハートと強さは、相反するものではなくて、それぞれが補完しあっているのではないか、柔らかなハートを守るために、総体として強い人間になることが必要なのではないかと、そう思うようになりました。』人間は誰でも、柔らかなハートを維持するためには何かでそれを守らなければならないのではないかという疑問から、その何かを象徴的に「盾」と名付けることになったそうです。

少し前までは、「世間」や会社という組織は個人を守る力を持ちえてもいました。年功序列というあり方は、同僚や先輩を追い越してまで、先に進というような冒険や爽快感を生み出すような素地は与えてくれなかったかもしれません。そればかりか、ぬるま湯に浸かるような平和ボケの精神的土壌を培ってしまっていたかもしれません。けれど、少なくとも、自分の行き先をある程度、予測可能にさせる社会ではあったはずです。それに引き換え、業績主義・実力主義がうたわれるようになった、この時代が、チャンスに恵まれたいい時代なのかといえば、やはり人が人を評価するなどということが公平に平等に行われるはずもなく、そうした風土に繁殖してくるものは、疑心暗鬼であり、不信であり、焦燥感や終わりのない徒労感です。システムそのものが、人に、安定感や仲間意識を与えてくれるものではなくなってしまったのです。こんな非人間的な状況の中で、よしんば、人を追い越して、自分が上に這い上がるようなことがあったとしても、そのために犠牲にするものの大きさは計り知れないものがあります。

この時代・個人的な「盾」なしに生きることは、大海原で浮き輪もなしに漂うことに等しい無謀なことです。村上氏は続けています。『もちろん、現代でも大企業に就職した方が有利には違いありません。でもそれではどんな人材が求められるかと考えると、さまざまなスキルと知識、それに高い人間性を持つ人に需要がある。つまり良質で強い盾を持っている人がいずれにしろ有利なんです。』

ここから先が圧巻です。『盾・シールド」を読んでいただくとわかるのですが、重要なのは、自分を守ってくれる盾は簡単には手に入らないということです。また、手に入れようと探し歩いても見つかるものでもありません。盾は「自分はどうやって生きればいいのだろう」という問いを、頭の片隅に常に抱いている人が、いつか出会うものです。好奇心を絶やすことなく、きっと自分には何か一生懸命になれるものがあるはずだとか、いつか信頼感を共有できる友人や恋人と出会えるはずだとか、そういったポジティブな気持ちを忘れずに日々を生きているときに、盾はその人の前に姿を現すのだと思います。』

明日は、私の眼前に、突然、現われた、この「盾」のことをお話ししたいと思っています。

盾・シールド

センサー

2006年04月16日 | 日々の泡
組織の中で守られながら仕事をしていると、ある人に何かを問いかけて、それに対する返事が遅延しても、私個人が辱められているという感覚を抱くことはまずありません。むしろ、相手方の迅速さに欠ける仕事振りを確認するぐらいのことで、さしたる実害もなく終わってしまうことの方が多いです。ところが、私が、私個人として、ある目的を持って、誰かに情報を求めた時に、相手が、私の求めに対して誠実に応じてくれなかった時には事情が少し異なってきます。たとえ、的確なフィードバックがなくても、お返事をいただけさえすれば、まだ納得出来るものがあります。問題は‘なしのつぶて’の時です。このところ、そういう体験をしてみて、つくづく感じたことは、 ある人間の‘問いかけ’に対して鈍感な人は、すべての事象に対しての鋭敏なアンテナを持ちえていない…ということに気づいたことです。人の気持ちをないがしろにする人は、必ず、どこかで落とし穴に嵌ることになると思います。それほどまでに、人と人とのコミュニケーションは大事なものだと、私は思っています。小さなことに‘気づき’のない人は、大きなところでかけがえのないものを失うでしょう。信頼や信用というかけがえのない宝物を手にすることは出来ません。自分の周囲で起きている物事に対する感度をある程度敏感に保持して、センサーを働かせることの出来る感性を備えていない人は人のために生きることも出来ないはずです。自分を基準にして、相手が目上であろうと目下であろうと分け隔てなく、人の気持ちへの気配りや目配りが出来ていないと、最初は些細なことであったかもしれないことが、やがてはすべてのことに及んでいくでしょうし、恐らく長い目で見れば、人を大事にすることのない仕事振りは衰退していくのではないでしょうか?私はそう思うのですが、世間はそんなに繊細なものでもないようです。どんなに荒削りなことをしている人たちでもそれなりに、その人たちの仕事を滞りなく進めているからです。不思議です。良いことも悪いこともひっくるめて世の中は何事もないかのようにまわっていくのです。なるほどなぁ…清濁併せ呑んで地球はまわっているんだ!と、私たちの宇宙の懐の深さに脱帽です。勧善懲悪では、生きることに面白味がなくなってしまうでしょうから、それでいいのですね。

たぶん…宇宙には目には見えない法則がある……

2006年04月15日 | 日々の泡
私たちの生活はどのようにしたら豊かで実りあるものになっていくのでしょうか?そこに至るまでのアクセスの仕方には無限の道筋が用意されていますし、その方法は、人によってさまざまですが、どんなやり方を選ぼうとも、誰に対しても、例外なく共通の秘訣があるとすれば、それは宇宙に定められている(目には見えないけれど…)法則や秩序のようなものに対して逆らわないという態度にあるような気がします。10の内容を極めるためには、1から始めなければならない…というような鉄則や精神論は過去のものとなり、どこから始めても、あっという間に、10の世界を極めてしまうような芸当が可能な方法や人材が登場する時代にもなりました。けれど、どんなに時代が進化を遂げても、決して変化を許さない法則は存在しているはずです。むしろ、その普遍的な秩序の部分に対してきちんとアクセスし続けられる能力こそが、たぶん、この混迷の時代を、それでも道に迷わずに歩き続けられる‘魔法の杖’になりうるのだと、私は思っています。それは、社会や自分を取り巻く周囲の人々の要請に応じる…というようなこととは別問題です。宇宙の法則は、いわゆる娑婆のあれこれの表面的なやり取りとは別次元(その背後か、あるいは底流)に存在しているもののように思います。ミッションなどと表現すると言葉だけが浮いた感じになってしまいますが、要は、自分の‘心の声’に忠実に(何故なら、耳を澄ませば、どういう行動を取ったらいいのかを一番良く知っているのは、とりもなおさず、この自分だと思うからです。)自分の、この世におけるミッションは何なのかを心に描いて、やるべきことをやっていきつつ、収穫のことは、もう自分のあずかり知らない世界の問題なのだと腹を括って、静観していればばいいのだと思うのです。自分の努力の結果=収穫は、自分でコントロールすることはできません。それは宇宙の法則が統べている範疇のことだからです。そのことを何とかしようとして、気に病めば、どんどん苦しくなり、自分の心の容量を狭め、道を見失い、挙句の果てには自滅の方向に進んで行くことになってしまいます。結果に対する執着を放棄して、やれることだけをやっていけばそれでいいと覚悟を決めて、そういう自分にだけ目を向けていけば、結果=収穫はきっと後からついてくるでしょう。ついてこない時はその時機がまだやってきてはいないというだけのことです。努力が足りたとか足りなかったということも考える必要はないかもしれません。自分にやれるだけのことをやっていさえすれば、それで十分にOKだと、私は思っています。

行雲流水

2006年04月13日 | 日々の泡
行く雲や流れる水のごとく生きられたら…どんなにいいでしょう!それは無理のないとても自然な営みになるはずだからです。雲はいつの間にかカタチを変えています。恐らくは、一瞬たりとも同じカタチに留まることはないと思われます。けれども、空の様子は、私たちの目には普遍のものに映ります。水は高い場所から低きへと流れます。それは安易なさまにも例えられますが、水の類まれなる特質から考えると、eazy goingな態度=低きに流れることも一概に悪いこととも言い切れない気もします。自然のさまは、私にとって、偉大なる智恵の宝庫とも言えます。道に迷った時、北極星を見失った時、自然の営みから答えを教えてもらう事が出来れば…もう少しましな私になれるかもしれないのですが、この都会の中で、自然の、自然なありようがどこに存在しているのかを、哀しいかな…目を凝らしても、私にはなかなか見つけられないのです。