「あ」のつくあなたにあいみすゆー(I MISS YOU)第二章 ☆うきうきタベタカナーナカイヒラタキアイアイまったりお☆

このブログは北海道を愛するミッキーが、大好きなヒロイン達に、大切なものを紹介する、うきうきでまったりおなブログです。

夢を見つめてた人と人を見つめてた人の差。

2010-09-07 22:06:42 | Weblog
あーちゃんのブログを見ていてはっきり感じること。
一年はあーちゃんにとって大きな時間だったようだ。
あーちゃんの発言に、昔のような落ち着きが出てきた。昔のように、全ての発言に真っ直ぐ向き合う力が戻ってきた。
きっと今の自分に、一年前より、自信というか、手応えを無意識に感じてきたからだろう。あーちゃんは不器用な位に、中途半端な言葉は放たない人だ。私は気持ちのままに言葉を使い、時に周りを振り回してしまう人だが、言葉に誠実な彼女は、言葉で人を振り回すことは少ない。ただ実際話している時には、今の私がこの言葉で思い付くままに話す姿と変わらないけど、話し言葉と書き言葉があまり変わらない私と違い、あーちゃんの書き言葉はもっと慎重だ。だからこそ、ようやく質問を受けることができるようになったあーちゃんには、間違いなく一年で感じてきた自分の手応えがあるように思う。

きっと私はあーちゃんがいなくなった一年、人ばかりを見つめて、右往左往してきた。でもきっとあーちゃんはきちんと見つめながら一日一日を丁寧にすごしてきた気がする。この一年で私が停滞した分、遥か先に彼女は進んでしまったのかもしれない。間違いなく今の彼女は私と遠く離れた場所で生きているんだよね。
本当は近くにいたかった。でもきっとやっぱり近づく縁がなかったのかもしれない。それは運命ではなく、私に何かが欠けていたからだと思う。人は願い続ければ、信じ続ければ、夢は叶うと思ってきたけど、でも人の想いだけは、一方だけではどうしようもないのかもしれない。
でもきっとそれも自分のせい。人に右往左往した私には魅力がなかった。夢をきちんと見つめていた彼女にとって。
私に今できることは、もう一度誠実に自分の夢と向き合うことだ。
なんて固いことばかり考えている私じゃないのにね。
今は早く一度この気持ちを忘れてしまうこと。彼女のどんな言葉にも揺らがない私になれるようにね。

ミッキー

女々しい自分が嫌だ。

2010-08-31 05:41:29 | Weblog
昨日、書店で、「木村秋則と自然栽培の世界」を見つけ、立ち読みした上で購入した。
今は日々の生活が少し堕落していて、仕事にかまけて理想を放り出している。
でも本当はシンプルな生活、自然によりそう生活をしたいはずの私だから、自然栽培には尊敬と憧れを持っている。だからつい衝動買いしてしまったのだ。

先ほど転寝して、そして目覚めた。起きて思ったことはとても情けないことだった。

私はふられて、失恋して、だからもうきちんとお別れとありがとうの手紙を書いて、そのためのCDをプレゼントを用意して、りおちゃんやゆきさんにはきちんと失恋しましたと、日曜会いにいって報告して、さあもう新しく歩むんだって決めたはずだったのに・・・。

朝起きたら、シンプル生活を一緒にしたいなって、夢の中で話しかけている相手があーちゃんでした。はあ情けない。女々しい。いやそれじゃ女性にも失礼だ。情けない。

明日はお休み。早くあーちゃんに区切りの手紙出してしまわなきゃ。とどめさされなきゃ。

もう明日から9月なのだから。私の天使の誕生日のある月なのだから。こんなことここに書いて、この気持ちを見せ付けてしまったいるちっちゃな自分を変えるために・・・。

本当に早くあきらめよう。忘れよう。ちゃんとあーちゃんの幸せを祈れる自分になろう!

ミッキー

七夕豆知識・・・今年の私の誕生日は旧暦の七夕だった。

2010-07-07 20:50:28 | Weblog
七夕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
節句
人日 (1月7日)
上巳 (3月3日)
端午 (5月5日)
七夕(7月7日)
重陽 (9月9日)




七夕(しちせき、たなばた)は、日本 、中国 、台湾 、ベトナム 、韓国 などにおける節供 、節日 の一つ。旧暦の7月7日 の夜 のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆 が7月か8月に分かれるように7月7日 又は月遅れ の8月7日 に分かれて七夕祭り が行われる。五節句 の一つにも数えられる。

古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や棚幡と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。

元来、中国 での行事であったものが奈良時代 に伝わり、元からあった日本 の棚機津女(たなばたつめ)の伝説 と合わさって生まれた言葉である。

時期




中国
元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦 の7月7日 (旧暦) である。中国暦 において7月 は秋 の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月 すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気 では立秋 前後の時期に相当する。
日本
日本 では、天保暦 (和暦 )など旧暦 7月7日であり、7月15日 (旧暦) に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。明治 6年(1873年 )の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれ、七夕もグレゴリオ暦 (新暦 )の7月7日(行事によっては7月6日 の夜)に行う地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道 と仙台 に多い)に行う地域とに分かれた。また、現在でも旧暦の7月7日に行う地域もある。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない。
グレゴリオ暦 の7月7日は夏 だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋 以降であるので、古来の七夕は秋 の季語 である。多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨 の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。

統計では、旧暦で晴れる確率は約53%(東京)であり、[七夕の夜空]七夕の東京の夜空 は晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。新暦では、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢 が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川 が見えない年もある。したがって、天の川 が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。

七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。

起源
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆 )に、中国 から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠 (きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会 (お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊 (祖先の霊)が宿る依代 である。

七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢 時代の崔寔 が書いた『四民月令 』に書物を虫干し にしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋 に葛洪 が記した『西京雑記 』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説は『文選 』の中の漢 の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代 の『荊楚歳時記 』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝 ・梁代 の殷芸 (いんうん)が著した『小説 』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義 』七月令にある逸文 )という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている

日本語「たなばた」の語源は『古事記 』でアメノワカヒコ が死にアヂスキタカヒコネ が来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀 』葦原中国平定 の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。日本では奈良時代 に節気の行事として宮中にて行われていた。また、『萬葉集 』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

本来、宮中行事であったが、織姫が織物などの女子の手習い事などに長けていたため、江戸時代 に手習い事の願掛け として一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

織女星と牽牛星の伝説
説話
こと座 の1等星ベガ は、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座 のアルタイル である。夏彦もまた働き者であり、天帝 は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川 を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギ が橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。
古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲 の題材となった。その中で有名なものに京劇 などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母 によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説 のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

星空
織女 や牽牛 という星の名称は 春秋戦国時代 の『詩経 』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢 の『史記 』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿 のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイル は河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦 では、必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害 の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。

グレゴリオ暦 (新暦 )では、月の満ち欠けは毎年異なる ため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。

風習
殆どの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂 付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越 の大祓 に設置される茅の輪 の両脇の笹竹に因んで江戸時代 から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説 にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女 の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。

このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っていると

地域によっては雨乞い や虫送り の行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道 では七夕の日に「ローソクもらい (ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台 などでは七夕の日にそうめん を食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。

近年の台湾 では、バレンタインデー と同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。

他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。

イベントとしての「七夕まつり」については次の項を参照。

日本の七夕祭り
1687年 (貞享 4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿 』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、・・・太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、・・・・青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂 でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政 十二年の頃より」、『諸事留』には「天保 十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑 の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢 の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿 や山車 などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本 を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火 という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。

七夕の廃止と再生
日本における七夕は、明治6年1月4日、明治政府により、太政官布告第一号「今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」をもって廃止された。
そのため、それ以降の七夕飾りは、北斎 の富嶽百景「七夕の不二」や広重 の名所江戸百景「市中繁栄七夕祭」・不二三十六景「大江戸市中七夕祭」に見えるような「笹ぼうき」が天のすすを払う如く屋根の上に飾られることがなくなり、竿竹が笹ぼうきから外された上、軒下に立て飾られるようになった。

また、江戸時代まで継承されてきた、「古事類苑 」歳時部に見える「七夕七遊」は、七遊びの1つとして恒例化されてきた「七調子管弦」が、仏教 やイスラム に由来する雅楽 の調子の廃絶に伴い六調子しか演奏できなくなったことで、継承が難しくなった。

2009年7月、関東三大七夕まつりの一つと称される千葉県 茂原市 の茂原七夕まつり は、55回目にちなんで五節句・七夕の再生を実施した。広重の浮世絵 に見える笹ぼうきの七夕飾りは千葉県立長生高等学校 社会科研究部によって復元された。また、七夕七遊は、廃絶した性 調を性 氏の作曲で加えることにより、七調子管弦を欠くことなく再現された。この再現は明治以降初めてと評価されている。

旧暦の七夕
国立天文台 では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の新暦での日付を広く報じている。ただ、「旧暦」は現在は公には使われていないのに国の機関が「旧暦」で定義することはできないため、「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「二十四節気 の処暑 (しょしょ=太陽黄経 が150度になる瞬間=8月23日 頃)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔 (さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。
国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時 )。

2006-07-31
2007-08-19
2008-08-07
2009-08-26
2010-08-16
2011-08-06
2012-08-24
以下、国立天文台では未発表だが、計算により求めた旧七夕の日付。

2013-08-13
2014-08-02
2015-08-20
2016-08-09
2017-08-28
2018-08-17
2019-08-07
2020-08-25

以上七夕豆知識でした。

すべらない話。

2010-06-26 21:17:49 | Weblog
あーちゃん見てるかな?
昔はよくテレビや映画、料理、外食の話しとかしてくれたんだよね。
やっぱりblogというものに興味がなくなってしまったのかな?
それとも忙しくて、全然心の余裕なくなっちゃったのかな?
やっぱり淋しいよ。人は変わっていくものだからその変化をまるごと受け止めたいけど、あーちゃんはもうblogを読む人、待っている人の気持ちは考えられなくなってしまったのかな?こんな文章読んだら辛くしてしまうかもしれないけど、大好きな人が輝きを減らしていく姿を見るのは淋しきものです。あーちゃんは今キラキラ輝くりおちゃんに負けない位キラキリしてて一生懸命頑張る素敵な女の子だったから。

普通の話し、どんな話しだってすべらないのが、あーちゃんblogでした。

あーちゃんに会いたい。
blogでいいから、あなたに会いたくて・・・。

身勝手な言葉でごめんなさい。

今でも変わらず大好きです・・・。

ミッキー

あーちゃんにあいたい。

2010-06-26 14:11:46 | Weblog
あいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいああたいあいたいあいたいあいしたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたい

わたしはあなたがいいのです。

2010-06-08 02:06:40 | Weblog
あーちゃん元気ですか?

深夜にごめんなさい。

でもこれだけはやっぱり書いておきたいのです。

どんなにたくさんの友達が出来たり、どんなにかわいい妹みたいな支えたい女の子がいても、でもやっぱり私にとってはあなたはあなた一人しかいないのです。
私はやっぱりあなたがいいのです。

重ければごめんなさい。一方通行の発言でごめんなさい。でも今だからこそあらためて伝えておきたいのです。来年の春までに、それでも何も起きなければ、あきらめる気持ちは変わっていない。
でも忘れるものは恋心だけであって、ファンの気持ちは絶対捨てない。
それはきっと君のためでなく、自分のためなのだけど、それでも、ずっとあーちゃんのファンでいるから、だからあと約一年だけ、ミッキーを恋や結婚の対象としてありえるかどうかだけ、考えてもらえたらと願います。

でもそのことで、落ち込んだり、自分を追い詰めたり、それだけはないように願います。

いつも、勝手でごめんなさい。おやすみなさい!

ミッキー

一方通行の弊害。

2010-06-04 23:41:17 | Weblog
あーちゃんこんばんは。

さっき小笠原の父島のことでコメントしたけど、もしかしたらもう昔話したかも?

最近とりわけ寂しいのは、あーちゃんに反応する時の言葉って、昔もう言ったり書いたりしたんじゃないかって・・・。

あーちゃんとの出会いの中で、どんなお話をしたのか・・・どんどん記憶が薄れてきていること。もともと一方通行の恋だったから、あまりに言葉や贈り物をしすぎた私は、大切な思い出さえ薄れてきてしまっているのかが、ちょっぴり怖い。

あーちゃんをスキだという気持ちだけはずっと変わらないけど、でも一方通行でたくさん傷つけてきてしまったかもしれないという気持ちが最近沸いてきて切なくなることがある。

もう少し自分が違ったら、もう少しあーちゃんの言葉を感じられたのかもしれないね。

もしかしたらもうあーちゃんに対しては何も返せないのかもしれないけど、

せめて今出会ったばかりで、双方向の交流が今はできるリオリオに対しては、
もう少し、相手を思いやれる私であれたらと願います。

あーちゃんに出会えたことを、幸せだったと思えるように、あーちゃんがいたから変化した自分の何かを、次に出会えた誰かにお返しできたら、出会った奇跡に感謝できるはず。

あーちゃんに出会えたことは、一生消えない大切な私の宝物だからね・・・。

あーちゃんの幸せをいつでも、どこにいても心から祈っています。ミッキー

父島は祖父島。

2010-06-04 17:48:12 | Weblog
父島かあ。
小笠原は、私を三歳まで一番面倒を見てくれた母方のじいちゃんが行きたかった場所。農家だったけど、農閑期はふらっと旅に出てしまう風来坊だったじいちゃんに三つ子の魂を植え付けられて、私も風来坊になったのかもしれないが、そのじいちゃんが死ぬ前に、チケットまで取り寄せていたのに、病気でついに行けなかった因縁の地が、小笠原でした。
新婚旅行はもしニュージーランドでなかったら小笠原かなと、私もまだ行ったことないので、父島行ってみたいミッキーでした。更新ありがとう。ニキビどんまい!!

大スキの言葉が一番うれしい日。

2010-05-25 15:29:18 | Weblog
リオリオ、あーちゃんみなさんこんにちは。

今日は結局休みとりました。今日と明日できちっと直します。
今月の営業結果も出遅れているので、今日の休みの代わりに土曜出勤しなきゃだし、日曜はもう一度リオリオ応援する為、イベント駆け付けるし。

あとチェキ届きました。今回で三回目、一枚、二枚、三枚と回ごとに枚数を増やして、計六枚になりました。六枚を並べてみると、やっぱり私は衣装やポーズ以上に、リオリオの私にあててくれたメッセージが一番うれしいことに気付きました。
水着とかコスプレとかに合わせたなりきりメッセージより、手紙ありがとうとか、応援いつもありがとうとか、裏までびっしり書いてくれる優しい楽しいリオリオの言葉がうれしい。
そして一番うれしかった言葉は・・・。

「大スキ!」でした。

シンプルだけど、一番うれしかったなあ。

考えてみれば、現実に、女性から「好き」って言われたことはあるけど、「大スキ」って言われたことはなかったかもしれない。別に恋愛じゃなくても、友情とか憧れとか信頼とか、どんな形かを問わなくても、素直に「大スキ」って言われた記憶はなかったから、どんな形でも、「大スキ」と言われることが、私にとって、どんな褒め言葉より優しい言葉より、うれしいってことに、今回リオリオのおかげで知ることができました。
あーちゃんには何回も直接「大好き」って伝えたことあったけど、リオリオにはまだ言ってなかったので、今度会った時、きちんと「大好き」だよって伝えて、義理の兄妹の契りを交わしてこようと思います。

一度くらいあーちゃんからファンとしてでも良かったから、大好きって言われてみたかったなあ・・・とか言って(笑)。

さてまずは身体休めるのが今の務めだから、また眠ります。
リオリオ、あーちゃん、そしてみなさん元気で、よい一日を・・・。

追伸:

先日リオリオに一生私にとって忘れられないプレゼントを渡しました。
実は、生まれて初めて作った写真集です。
リオリオも初の水着撮影会だったし、私もきちんとした撮影会参加は初めてだったから、たくさん撮った画像の中の、いくつかのリオリオのキラキラした姿を見ていたら、この想い出を形に残したくなって、世界にたった二冊しかない内田理央の幻のファースト写真集を作りたくなったのです。
これはお互いに初めてだったからできた、自分にとってもきっと一生大切に墓場まで持っていく(笑)想い出になると思います。きっと私にとってあーちゃんに出会って、今まで経験したことのない新たな自分を見つけ、リオリオと出会って、新たな自分で出来るベストが何かということを今たくさん経験しているように思っています。

人生の中で一番、別の世界である芸能界のヒロインさんと近づいたこの数年間は、きっと数年後に北海道に帰り、もう一度人生の再出発を始めた後に、かけがえのない宝物になると思うし、多分私にとって、夢と現実が一瞬だけ交わった数年間の最初の人があーちゃんで最後の人がリオリオになるのかな・・・そんな気がします。あの時あのタイミングで出会えたことは、二人以上に運命を感じることは、きっともうない気がします。二人がいたから、ゆかたんやナーナやタベチャン、りなちゃん、みんなにもつながった気がするから。
私にとって、芸能界の中で、恋人No.1はあーちゃん、妹No.1はリオリオ、相談相手(親友)No.1はゆかたんかなと思う。

ただ二番目に好きな人と結ばれると幸せになると言われるように、ナーナやタベチャン、りなちゃん達に出会えたことも、本当に幸せだったと思うから、ずっとあーちゃんだけ一途に見つめてきた時を経て、さ迷い歩きながら人に出会って、ようやくあーちゃんに出会ってから変わった私のこの数年をまるごと受け止め肯定できるようになれる気がします。リオリオに会えて応援することで、きっとあーちゃんに対して今後どんな風に私らしくいられるか、来年の今頃笑って、その時を迎えられる気がします。
今はだから、大切な妹ヒロイン・リオリオを精一杯応援していきます!

大切な宝物をくれた、リオリオとあーちゃんとの出会いの奇跡に真心から感謝します!

ナーシングツリー・白樺について。

2010-05-12 13:42:35 | Weblog
cloverさんこんにちは。

いつか話題に出ると思っていた十勝岳のこと、ついに出たって感じですね。

(十勝岳は、三浦綾子さんの小説「泥流地帯」「続泥流地帯」の舞台です。)

植物に詳しいcloverさんだから、当然ご存知だとは思いますが、一応白樺について書きたくなりました。

白樺は別名ナーシングツリー(看護の樹)と呼ばれていますね。

白樺は養分が少なく、また光を好む陽樹のため、例えば、森が大量伐採されてしまった場所や、今回のように火山の溶岩流が流れてしまったところなど、北の寒冷地で、土がやせたところに、まず芽吹き、根付きはじめる始まりの木だと言われています。つまり傷ついたところに、まず包帯を当てるように、最初に土地を癒そうとする姿から、ナースの樹と呼ばれたのかもしれません。

白樺は開拓後の最初の樹である代わりに、本当に土が豊かになり、多くの植物が葉をしげらせるようになると、最終的には日陰が作られていき、ブナなどの陰樹の世界になり、白樺はその役目を終えていくというのが、自然界の姿。

白樺林の美しい場所は、植物にとって、多くのものが生きるには環境が厳しい場所なんです。

でも、白金温泉の白樺並木は本当に綺麗です。
この白樺の木々が、役目を終えて、次の種に主役を渡して去っていくのか、それとも、白樺がこの厳しい地を受け止め、彼らだけが守っていくことになるのか・・・。風景から学ぶことの多さを感じるとともに、歴史や小説から学ぶことのできる、そんな日本各地の自然と人々をこれからも感じていけたらいいなと思います。

景色懐かしかったです。今は白樺が見えない地域から、北に想いをはせるミッキーでした。